崖下のディープブルー 1
実際の刑事さんは、
こんな雑な問い詰めはしない…、
と思いながら書いておりました。
廊下には秋から冬に変わりつつある風が吹き、壁に張り付くように立つ冬原の、校則を的確に遵守したスカートを揺らす。
先ほどまで聞こえていた柊の怒鳴り声は、一旦収まっていた。
部屋の中から、追い出されるようにして、生徒指導の教師が姿を見せる。出てきた直後、一瞬だけこちらと目が合うと、あからさまに戸惑うような顔で俯いた。
まあ当然だろう。柊は本来、学校では生徒の鏡と称されるほどの優等生なのだ。
そんな彼女が怒鳴り散らす様は、教師からすれば、到底信じられぬ光景だったに違いない。
授業が始まって、しばらく経つ。柊が中に入って、十分近くが経過していた。
しかし、中々出てくる気配はない。
不安と心配が、とめどなく胸に湧き上がる。それを和らげるために、忙しなく指先を動かしてみるが、たいした安心感は得られない。
もっと違うことを考えようともしたのだが、出てくるのは、昨夜、自分を甘やかしてくれた柊の、穏やかな微笑みばかりだ。
もしも、彼女が心配していたようなことがあったのだとしたら、どうしようか。
彼女に告げたように、自分の責にしてしまおうか。
それとも、真実を告げて同情を買うか。
そこまで考えて、思わず苦笑がこぼれる。
被害者面するような真似、絶対しないくせに。
クラスにとって、居ても居なくても変わらなかった自分を、唯一認識してくれたのは柊だ。自分が周りにどう思われようと、どうせ些細なことではないか。
自分は、柊と綺羅星がそばにいてくれれば構わない。
最近は一人で過ごす時間が少なかったから、昔のように戻れるかと言われると、ちょっと自信はない。
まあ、なるようになるかもしれないけれど。
不意に、木板に金槌を叩きつけたような音が木霊して、音のしたほうを冬原は振り向いた。
そこには、幽霊のように顔を青白くした柊が、放心状態で立っていた。
先ほどの派手な音は、どうやら彼女が扉を勢いよく開けた音だったようである。
前髪は両目にかかり、その中から覗く双眸は異様な輝きに包まれていた。
柊は冬原と目があった途端、我に返ったように、瞳に生気を取り戻した。
何かを言おうと口を動かしたものの、結局、口を閉ざしてしまう。それから、柊は逃げるようにして立ち去っていったのだが、その背中に張り付いた違和感といったら、言葉にしようもなかった。
開け放たれた扉の向こうでは、気難しい顔をした砂坂が、パイプ椅子に座し、手招きしていた。
どうやら、このまま聴取を続ける気らしい。
綺羅星の言葉といい、柊のあの態度といい…。
やはり、彼が自分たちにとって味方ではないことは、間違いない。
先に中に入ろうとした教師に対して、砂坂は入室をやんわりと断ったが、教師は、生徒だけで入室させることは許可できない、と態度を崩そうとしない。
だが、砂坂のほうも譲るつもりはないらしく、困ったような顔をわざとらしくこちらに向けていた。
君からも頼んでくれ、と言わんばかりの眼差しだったが、生徒指導の先生に意見するような、ハードルの高いことは自分にはできそうにない。
しばし、押し問答が続いてしまったものの、砂坂が、「これは冬原さんのプライバシーに深く関わる話なのです」と真剣な口調で唱えたため、教師はかすかに怯んで、冬原のほうを一瞥した。
意見が求められている、と察した彼女は、木目の床を見つめたまま小さく頷いた。
プライバシー…、というのは、つまり下着泥棒の話だろう。
教師は冬原の動きを見て、渋々相槌を打ち、砂坂を睨みつけてから、後ろ髪引かれるように指導室を去って行った。
二人だけになった室内に、上階の教室から椅子を引きずる音が聞こえる。
授業が少し早めに終わった教室があるのかもしれない。どこのクラスだろうか。
ぼんやり考えていると、砂坂が一度咳払いをしてから着席を促した。
教室で使っているのと同じ椅子を引いて、彼の斜め前に座る。
どうして、長机を用意してくれなかったのか。
これでは距離が近くて、彼のこちらを観察するような視線から逃れられない。
「冬原さん、昨日はゆっくり寝られたかな」
「…はい」
「柊さんが泊まってくれたそうだね、とてもいい友人だ。十代の頃の友人は――」
「一生の宝になる、ですよね」
「聞かれていたんだね、これは恥ずかしい」
そう言って、人好きのする笑顔を浮かべる彼に、自然と警戒が解けていくのを感じるも、すぐに、顔面蒼白になった柊が脳裏に蘇って、冬原はきゅっと唇を噛み締め、油断しないように努めた。
すると、ついさっきまで微笑みを浮かべていた砂坂の、痩せ気味の頬が、固く引き締まった。
本題に入る、と言わんばかりに真剣味に満ちた顔つきに、思わず生唾を飲んだ。
「冬原さん、いくつか質問がある。昨日聞いたような質問も混ざるとは思うけれど、何ぶん、警察も形式に囚われる組織なんだと許して欲しい」
刑事、というだけで緊張せざるを得ないのに、ましてや今は、一対一の状況なのだから、自分には頷く以外できることなんてなかった。
彼は膝の上に置いていたらしき手帳を机の上に置くと、ボールペンを取り出して、さっと何かを殴り書きしたように見えた。
砂坂はそこでボールペンを胸ポケットに仕舞うと、顎に手を当てて、しばらく思惟に耽っているふうに黙り込んだ。
一分足らずそうしたと思うと、何の前触れもなく口を開いた。
おそらくは、殺人事件の被害者の名前、年齢、職種、家族構成だ。
丁寧ではあるが、事務的な口調でもあった。
正直、それは自分には関係ないだろう、と話半分で聞く。
そもそもこんな情報、部外者の自分に話していいだろうか。いや、この程度の情報なら大丈夫なのか…。
「彼と喋ったことは?」
「え、いえ」
「では、会ったことは?」
「…夜、コンビニに行くときに会ったことが…」
「何度くらい?」
「…十回は、ないくらい、かな」
「彼について、どう思った?」
「どうって…、別に、そんな」
「何でもいいんだ、思ったことを教えてくれ」
そんなことを言われても、と目を回す。
とりあえず、廊下で何度かすれ違った相手の顔を思い出そうとした。
しかし、そもそもお互いに挨拶をしない、非社交的な人間なのだ。
足を止めて話すこともなければ、人の視線を自然と避けてしまう癖もついているので、冬原は、相手の顔をまともに見たこともなかった。
「…顔も覚えていません。ただ、私と同じで、挨拶もしないタイプの人間だとしか」
「ふむ…。では、また別の話になるんだが、どうして君は隣の部屋に入った?」
それは、昨日説明したはずだが、と冬原は怪訝に思う。
まぁ、初めに言っていたとおり、同じ質問をせざるを得ないのだろう。
昨夜と同様の話をしてみせる。
手すりに付着していた粘着質な物体、鍵のささったままの扉。
…胸騒ぎのままに隣室を訪れたのは、今考えたら軽率だったかもしれない。
すると、直後の砂坂の発言により、事は冬原の予想もしない方向に動き出した。
重力に引かれた、赤い林檎のように。
あるいは、蜘蛛の糸からも見放された、地獄の罪人のように。
私の運命は、真っ逆さまに地の底へと向かっていった。
「君は三日前の晩、どこで何をしていたか覚えているかい?」
「三日前の、晩ですか?」
その質問を受けた冬原は、最初、聞き間違えかと思った。
昨日の晩の話をしに来ているはずなのに、どうして三日前のことが関係あるのだろう。
それとも、下着泥棒の件だろうか。いや、確か、三日前の昼に二人が自分のところを訪れたときには、すでに下着は盗まれていた。
やはり、特段関係があるとは思えない。
聞き間違えたのだろうと、昨日の晩の間違いではないか確認するが、砂坂は三日前で間違いないのだと言う。
結局、彼女はよく分からないまま、その日のことを記憶にある範囲で説明した。それも、家から一歩も出ていない以上、たいした話にはならなかった。
「それを証明できる人は?」
そう彼が告げた瞬間、ようやく冬原は、自分が何故そんな質問を受けているのか理解した.




