クローゼットの秘密
少しずつ、彼女らの秘密が紐解かれていきます。
初めは、玄関に入る度に口にしていた、ただいまの言葉も、いつの間にか、乾いた空気の中で干からびたように眠っていた。
一体、どんな材質で出来ていれば、こんな重厚な扉になるのだろうかと、常々不思議に思う。
料理に必要な最低限の道具と、食器だけが整然と並ぶキッチンを通り抜け、ベッドの上に鞄を乱暴に放り捨てる。
放り投げられた鞄の行く末など気にも留めず、すぐさま制服を脱ぎ散らかす。
くしゃくしゃに折り重なって、床に積み上がっていく衣類を見る。
片付けるのが面倒だな、と頭の隅で考えながら、足早に風呂場へと移動する。
少しだけ肌寒い秋風で冷えた身体を、思わず手を引っ込めてしまうほど熱々のシャワーで、一息に温めていく。
急激に温められたことで生じる痺れに、言葉にしがたい心地の良さを感じる。
冬原は、シャワーの髑髏の下で、頭を濡らしながら俯いて目を閉じた。
今日は、どこも痛まない。
彼女の機嫌が悪いときは、最悪全身擦り傷だらけになって、お湯が染みて仕方がなくなる。
果たして、彼女はいつになったら、私を虐めることに飽きてくれるのだろうか、と答えのない問いを思い浮かべる。
柊は利口だった。
暴力を振るうときだって、人が不審がるような傷跡が残る真似は絶対にしなかった。
私が不登校になるほどに、壮絶な嫌がらせはしなかった。
常に、私が耐えられるぐらいの絶妙な加減で、行為に及んでいく。
きっと彼女だって困るのだ。
ストレスの吐き出す先がいなくなるのも、事が大きくなるのも。
物語に出てくるような、頭の悪いイジメっ子ならば、もう少しマシだったのだろうか、と夢想することもあった。
だが、たいして今と変わらないだろう、という自嘲だけが浮かぶ。
渦を巻いて排水口に飲み込まれていく私の黒髪が、少しずつ穴に引っかかっていく。
掃除しても、掃除しても、半永久的に汚れ続ける排水口が、この世の縮図のように私のくすんだオニキスの瞳に映った。
冬原は、自分が考えたことを脳髄から追い出すために、強く頭を左右に振った。
しかし、シャワーのお湯で熱せられていた自分の頭はそれに耐えきれず、ふらりと身体がよろめいてしまう。
何とか倒れる前に、バスタブの縁に座り込む事ができたものの、自分のとった幼子のような行動に、一人恥ずかしくなる。
風呂場を出て、脱衣所と洗面所を兼ね備えたスペースで、さっと身体を拭き上げる。
それから、新しい下着を身に着けて、すぐにパジャマを着た。
そのままリビングには行かずに、適当な食事を作る。
そして、食器も洗わないまま、回転式のリクライニングチェアの上に飛び乗った。
冬原は、高校に進学してから一人暮らしを始めていた。
ただし、特段家が遠かったり、交通の便が悪かったりするわけでもなければ、家無し子というわけでもない。
しかも、一人暮らしを提案したのは彼女ではなく、彼女の母親のほうからで、とある理由から冬原は、一度家から離れたほうが良いと、半ば勘当のようにして追い出されたのであった。
体も温まり、空腹も満たされた彼女は、しばらくの間はチェアに座って、クルクルと左右に揺れていた。
不意に、思い出したかのようにウォークインクローゼットの中から、アクリルで出来た細長のブックケースを持ち出した。
冬原はそれを満足そうに見つめた後、緩慢な動作で蓋を外して、大きめの本を取り出し、表紙をうっとりと眺めた。
その耽溺するような表情を目にすれば、誰でもその本が、彼女にとって大事なものだと察することだろう。
それから普段の彼女らしい、のろのろとした動きで最初の一ページ目をめくる。
もう何度もそうして開かれてきたことが、背表紙の角の擦り切れ具合を見れば、一目瞭然である。
彼女は、目に映る色鮮やかな写真や絵を、じっと黙ったまま眺めながら、頭の中で、この光景がもしも目の前に広がっていたならば、と空想した。
これもまた、何度も繰り返されてきたことだった。
南国にしか咲かない花の花弁を思わせる、赤。
月や星さえも閉ざされた夜空のような、漆黒。
今にも呼吸を始めてしまいそうな、肌色…。
彼女の心を潤す色合いを挙げれば、日が暮れてしまいかねないぐらいであった。
こんなシーンを、いつか直接この目で見られればいいのに、と冬原は想像した。
だが、それはそれで落ち着いていられないだろうなと考え、彼女は今日初めて自然と笑った。
ふと、久しぶりに絵でも描こうかと思ったが、道具も揃っていないのですぐに諦めた。
何に対しても、即座に気分を切り替えられるのは、自分の数少ない長所だと自負している。
美術部にでも入れば、もしかすると柊の面倒な虐めも収まるかも、と頭をよぎったが、部活に所属することで始まる、面倒なコミュニケーションを計算の内に入れれば、プラスマイナスゼロだという結果が出る。
それほどまでに、対人関係というものが、自分の人生にとっては厄介な関門になっているのだ。
私と口を利く人間など、皮肉なことに、柊以外誰もいないのが現実であった。
自分自身でも、つまらない人生だと理解できている。
だが、私に与えられたものは、この程度が限界だったのだと、とっくの昔に身の程は弁えたし、何もつまらないものばかりではない。
例えば、こうして手にしている画集がそうだ。
非日常を切り取った、心躍る写真。
誰も見たことのない世界を、書き手の頭の中だけで具現した絵。
現実の私には、手が届かない場所にあるものばかりであったが、それでも生きていくための活力としては充分だった。
今の冬原の頭には、彼女を家から追い立てた家族のことなど微塵もなかった。同時に、時折思い出したかのように彼女を責め立てる、母親の言葉も幸いなことに蘇りはしなかった。