不穏 1
長編となってしまっている今作ですが、
温かく見守り、お付き合いいただいている皆様、
心より、感謝申し上げます!
どうか今しばらく、お付き合いください。
次の日、学校に遅れて行った自分と柊は、すぐさま生徒指導室に呼び出された。
どうやら昨日のうちか、今日の明け方かに、砂坂が部下に命じ、学校に電話を入れさせたようである。
そのため、学校側の対応もスムーズだった。今日は、無理をして授業に出なくてもいい、ということだったが、柊と冬原は揃って登校した。
家に帰っても、自分の場合は一人になるだけだ。
そうなれば、どうしても昨夜のことを思い出してしまうし、よくよく考えれば下着泥棒の件だって解決していない。
まあ、柊が相当追い回したうえ、その隣室では殺人事件が起きていて、警官がうじゃうじゃしているのだ。しばらくは、様子を見にも来られないだろう。
教師の話では、登校するのであれば、昼休みに刑事が来て話を聞きたがっているとのことだった。
周囲の目も気になるので本当は断りたかったが、どのみち、噂が広まるのはあっという間だ。
たいして娯楽もない町だ、そんなところで殺人事件が起きれば、当分の間は話題になり続けるだろう。
ただ、こういうのはプライバシーを尊重してくれるのが普通なのではないのか、と横の柊が険しい顔をして尋ねたところ、どうやら刑事は、他の生徒の話も聞きたがっているらしかった。
一体、何のためにそんなことをするのか不思議に思ったが、考えても仕方がないことだと、目をつむった。
せめて、家で事情聴取を受ければ良かったかもしれない。
彼女たちは、一時限目の途中で解放された。そのため、授業中に教室へ戻ることになり、クラスメイトたちから奇異の目で見つめられることになった。
ふと、周囲と同じようにこちらを見つめる綺羅星の姿が視界に映った。
その目は明らかに他の生徒たちと違って、好奇ではなく二人を心配するような、憐れむような色をたたえていた。
授業が終わると、すぐさま柊と冬原の周囲に人だかりができてしまう。
事のあらましはもう、今朝のニュースには上がっていたらしく、事件を知らない、という人間を探すほうが難しかった。
あまりに多くの質問を矢継ぎ早にされて、頭が混乱してしまう。
野次馬根性か、ハイエナか。とにもかくにも、他人事として楽しんでいるクラスメイトに、嫌気が差す。席を立ちたかったのだが、その隙さえもない。
人垣の間から、柊と綺羅星の姿を確認する。
柊は明らかに冬原以上の数の級友に囲まれていて、そこには、他のクラスの生徒たちもいた。
張り付けた完璧な笑みを絶やさずにいた柊だったが、その本性を知る冬原から見れば、周囲のしつこさに、怒りと苛立ちが込み上がってきているのは明白だった。
一転して、こんなときでさえ無関心を貫く綺羅星は、自分の机の上に、ハードカバーの本を広げ、こんこんと読み耽っていた。
結局、二人と話すには、昼休みまで待つ必要があった。
昼食の時間になると、お弁当を手にした柊が、さっ、と誰よりも先に冬原の目の前に現れて、「行きましょう」と告げた。
廊下に出ると、コンビニの袋を手に提げた綺羅星が窓を背にして立っており、二人の姿を見るとすぐに歩きだした。
冬原と柊を、チラリとも見ずにぐんぐんと、資料室のほうへ進んでいる。
それに比べ、すれ違う生徒や教師は、誰も彼もが二人のことを、まじまじと観察するように見ていた。
教師たちは、刑事が来たら校内放送で呼び出すと言っていた。それもまだやり方があるだろうと、散々見世物扱いされた冬原は苛立ちを感じていた。
綺羅星は資料室の目の前まで来ると、くるりと振り返り、無言のまま、柊が鍵を開けるのを待っていた。
同世代とは思えない、ボリュームのある胸の前で組まれた腕が、どことなく威圧的な印象を受ける。
もう何度三人でくぐったか分からない資料室のドアを、未だかつてない心持ちで抜ける。
最初に入った綺羅星は、素早く窓のカーテンを閉め、最後に入った柊はドアの鍵を下ろした。
無言のままだった綺羅星が、腕を組んだまま二人の前まで近寄って来た。
そして、まず冬原の目を覗き込んだ。
一体、何を考えているのだろうか、自分が口を開くべきなのだろうか。
数秒間の沈黙の中、冬原が考え込んでいると、唐突に綺羅星が両腕を解いて、その中に冬原を取り込むようにして抱きしめた。
「え、ちょ、ちょ、どうしたの?」あまりに柔らかい感触に、困惑してしまう。
「はぁ…。ごめんなさい、怖かったでしょう?」
一度体を離した綺羅星が、心の底から絞り出したかすれ声で呟いた。
それに対して、苦笑いと共に柊が、「何でアンタが謝るのよ」と冬原の代わりに尋ねた。
「ああ、いえ、ごめんなさい、私も混乱しているの。ああ…そんな大変なときに、二人の側にいられなかったなんて…」
最初は、こんな状況でふざけているのか、と彼女の正気を疑った。しかし、その表情はどう見ても冗談ではなかった。
本気で自分たちを心配してくれていたようだと、柊と冬原は、互いに顔を見合わせ、驚きを共有していた。
それからじわじわと二人の間に奇妙な笑いが生じて、くすくすと、抑えられなかった小さな笑い声が、真剣味に凝り固まっていた空気を解きほぐした。
綺羅星はそんな彼女たちの様子を見て、怪訝そうな顔つきになりながらも、不服そうに口を尖らせて呟いた。
「何を笑っているの、人がこんなに心配しているというのに」
「はは、アンタが柄にもないこと言うからでしょ。あー、おかしい」
「もう、柊、駄目だよ。本当に心配してくれていたみたいなんだから。ふふふ、ごめんね?綺羅星さん」
閉じられたカーテンの隙間から、かすかに漏れる光が、部屋の中央に置いてある六人がけの長机の上を、優しく照らし出している。
木目の天板に、薄黄色のラインが一本だけ描き出されている。
今日は秋とは思えないほどに暖かく、つい、春の真昼を想起してしまうような正午であった。
からかわれたような形になった綺羅星は、いっそう不満げに目を細め、柊たちを睨みつけた。
それから、一度だけ浅くため息を吐き出すと、何事もなかったかのように席に着き、コンビニ袋からお弁当を取り出した。
今日のランチは牛丼らしい。
慣れた手付きで、さっと、蓋を取り去り脇に避ける。牛丼の蓋についた水滴が、差し込む光に反射してキラキラと輝きを放つ。
そっぽを向いて拗ねている綺羅星は、割り箸をしきりに動かして、お弁当をつついていた。
「さ、私たちもさっさと食べるわよ。半には刑事が来るんだから」
椅子を引いて腰掛けた柊にならい、冬原もお昼ごはんを食べ始める。
柊と冬原がしきりに昨日の話を続ける中、綺羅星は誰よりも早く食事を終えて、分厚い本を読み始めた。
笑ったのは、心配してくれていた彼女に対して、さすがに失礼過ぎただろうか。
「…それにしても」と他人のように口を噤んでいた綺羅星が、突然口を開いた。
思わず、二人は会話を止めて彼女の顔を見返した。
その声があまりに冷たく耳に響いたので、直前までしていた話の内容を忘れてしまうほどであった。
綺羅星は、何度か二人の顔を交互に見比べると、そのエメラルドを模した瞳を瞬かせて、目蓋を下ろした。
まるで、初めから一言も発していなかったようだ。
絶対的な静寂を身にまとった綺羅星は、口元をきゅっと三日月のように曲げて微笑んだ。
言葉の続きを催促するには、あまりにも美しく儚げな表情だ。
安らかに死んでいるようにも見えたが、昨夜の冬原が目撃したものとは、まるで違うものに見えた。
隣に住んでいた人が誰だか知らないけれど、あの人だって、こんなふうに綺麗な顔で死にたかっただろうに。
そんなことを考えても仕方がない。
だが、彼を憐れまずにはいられなくなるくらい、目蓋を下ろして動かなくなった綺羅星は美しかった。
それは照度にすればゼロに近い輝きだったけれど、きっとどんな光の中にあっても見つけられるぐらい眩かった。




