どうか、知らないふりをして 2
ようやく二人だけになったわけだが、冬原の顔に安心感が宿っているとは思えない。
未だに繋がっている自分の右手と彼女の左手が、初めて三人で話した、あの日の図書室を連想させて、柊は場違いにも懐かしくなっていた。
「大丈夫…じゃないわね」と無意味な気休めを口にしかけて、途中で止めた。
「ありがと、結構、楽になった」
「無理するんじゃないわよ。平気なはずがないんだから」
冬原は小さく頷くと、ハッと思い出したように時計を振り返った。それから、柊のほうを見返すと、罪悪感に一杯の顔をして、早口で言った。
「ご、ごめん!こんな時間まで、本当、え、駅まで送るよ」
「…馬鹿言ってんじゃないわよ。そしたらアンタ、帰りに一人になるじゃない」
「で、でも」
「冬原は平気なの?今夜、ここに一人きりで」
先ほど見たという、惨劇の光景を思い出したのか、冬原は途端に青い顔をして唇を震わせた。
平気なわけがないだろう。
柊は反省して、掌を強く握った。
その行為をどう捉えたのかは分からないが、冬原は、顔面蒼白のまま作り笑いを浮かべた。
「平気だよ」
その姿が酷く痛々しくて、強く歯を噛み締めてしまう。
こんな状態の冬原を放って、自分だけ安穏と家族のいる家のベッドで、ぬくぬくと眠れるわけがない。
別に、罪滅ぼしとかではない。
一度深く息を吐いてから、柊は手を繋いだまま、冬原の正面に移動した。
両足を揃えて正座し、幼い子供に言い聞かせるように、優しくゆっくりと言う。
「冬原さえ良ければ、今夜はここに一緒にいるわ」
冬原は、その言葉を耳にすると、一瞬目を大きく見開いて固まっていた。しかし、すぐに遠慮するような顔つきになって、激しく首を左右に振った。
「さすがに悪いよ…。柊に、迷惑をかけたくないし…」
「誰が迷惑なんて言ったのよ。私はね、冬原が怖くないか、不安じゃないかを聞いているの」
「でも…」
冬原は、おそらくまた柊の提案を断ろうとしていたのだろう。
だが、その言葉は半ばで途切れ、オニキスの瞳は段々と涙で揺らめいていた。
ついにこぼれ落ちた真珠のような一粒から、どうしても目が離せなくなる。
柊はいてもたってもいられなくなり、気が付いたときには、冬原の小さな頭に片腕を伸ばして引き寄せ、抱きしめていた。
「決めた、もう勝手に今夜はここに泊まっていくからね。アンタが何と言おうと」
強く、冬原の良い匂いが香る。
梃子でも動かんという柊の意思が伝わったのか、冬原はもう、反対も賛成も口にはしなかった。
落ち着いた冬原が、無言で中学時代のジャージを出してきたので、一応許可は下りたと思って良さそうだ。
ただ、彼女の中学時代のジャージは、どう考えても、十センチ以上の身長差がある自分と冬原とでは、同じようには使えそうになかった。
それは風呂から上がった後、鏡に写った自分の姿を見て確信に変わった。
柊が風呂に入っている間に、冬原は、事件のせいで置きっぱなしになっていたカレー皿を片付けてくれていた。
今は、ちょうどベランダに掛かっている自分の洗濯物を取り込もうとしているところであった。
しかし、カーテンの間から外を見ていた冬原は、怯えたように夜の暗闇から目を背け、どうしようかと迷っているようだった。
自分が取り込もうかと提案すると、冬原は顔をほんのりと赤く染めて、また逡巡するように黙ったのだが、背に腹は代えられないと判断したのだろう、大人しく諦めて、こちらに頭を下げた。
ベランダに出てサンダルに履き替える。それから、さっとシャツや下着、靴下などをまとめて取り込む。
最後のシャツを物干し竿から外したとき、不意に、すぐ近くから声をかけられ、そちらを振り返った。
「やぁ、柊さん。結局、泊まっていくのかい?」
事件現場のベランダに出ていたらしい砂坂と目が合って、思わず顔をしかめかけるも、何とか抑え、無難な笑みを浮かべた。
さっきまで、冬原の下着が吊るされていたことを考えると、同じ女性として何だか腹が立った。
「はい、やはり心配なので」
「良い友達だ。十代の頃の友達は一生の宝になるから、大事にしてやると良い」
「分かりました。やはり、刑事さんもそうなのですか?」
柊が社交辞令で返した言葉に、ニヤリと砂坂は笑った。
彼は、羽織っていたブラウンのコートの内ポケットからボールペンを取り出し、茶色の手帳に筆を走らせる。
「大人はね、自分が後悔しているから、子どもに口うるさく言うものなんだ」
それを言われて、何と返せばいいのか。とりあえず、曖昧な愛想笑いを浮かべておく。
砂坂は、手帳から目を離さないまま伸びをした。
「今日も冷える、風邪を引く前に中に戻りなさい」
これ以上、何も話すことはない、というふうにも柊の目には映ったが、それはお互い様だな、と思い、素直にその言葉に従った。
一礼して部屋に戻る自分の背中に、砂坂は聞こえるか聞こえないか分からない声量で呟いた。
「おやすみ、いい夢を」
その気障な物言いがおかしくて、半笑いのまま部屋に戻り、鍵を閉める。
妙な大人もいるものだ。
冬原のシャツを片手に鼻を鳴らしていると、散らばった自分の洗濯物を畳んでいる冬原が、こちらを向いて尋ねてきた。
「さっきの刑事さん?」
「ええ、良い友達は大事にしなさいだって。それから、『おやすみ、いい夢を』って。いい歳して、何を気取っているんだか」
「変わってるね」
「変わってるなんてもんじゃないわよ」
「だけど…確かに、刑事さんの言う通りかもしれない」
「何がよ」
「良い友達は…大事に、したい、かな…なんて」
そう言うと、冬原は顔を赤らめ、洗濯物を畳む作業に戻った。
彼女を見ていると、名状しがたい、むず痒い気持ちが込み上げてきて、思わずこちらも顔を背けてしまう。
顔に熱を感じているから、きっと自分も赤面しているに違いない。
ただ冬原に影響されただけで、別に深い意味はない。




