どうか、知らないふりをして 1
これより、五章が始まります。
苦しいときに、苦しいという事は大事ですね。
あの後、下着泥棒を追いかけていた柊が戻ってきて、ベランダの下から冬原の名前を呼びながら立ち往生していたところ、他の住人が気づいて、わざわざオートロックを開けて廊下まで導いてくれていた。
冬原の部屋に戻ってきた汗だくの柊は、便器に胃の中のものをあらかた吐き出し、扉の前で蹲る彼女を見て、慌ててその肩を揺すぶった。
虚ろな目で自分を朦朧と見つめる冬原に、柊はただならぬ事態であることを悟った。
初め柊は、自分と入れ違いになった下着泥棒がこの部屋に戻ってきて、冬原に暴行を働いたのだと勘違いして、怒りにその身を震わせていた。
だが、直に冬原の口から、ぽつりぽつりと語られた真相に絶句した。
確認すべきかと迷ったのだが、素人が勝手に現場に足を踏み入れるのはご法度だろう、と冷静に判断して、とにかくすぐ警察に連絡した。
三十分もしないうちに、パトカーがアパートの前に到着した。
隣室に入った警察官の顔を見て、彼女の話が真実だったのだと確信させられた柊は、そのまま冬原の部屋で簡単な事情聴取を受けることとなった。
ベッドの隣に、自分と冬原が並んで座る。
冬原は、気が抜けたように足を崩して座っていたが、逆に柊は、正座して話を聞いていた。
ただ、そうは言っても、自分は何も見ていない。そのため、こちらの話は、もっぱら下着泥棒に関してになった。
家族に連絡を入れて、とりあえず心配しないように伝える。それから、もうしばらく時間がかかると説明した。
今すぐにでも迎えに行くと言って聞かなかったが、友達が心配だということ、警察が一晩中、隣の部屋にいるようだと説明すると、渋々納得してくれた。
冬原のほうは話が長くなり、制服を着た警官が事務的な質問をした後は、私服を着た年配の男が、その役目を代わっていた。
どうやら刑事というヤツらしいと、彼の様子を観察する。
歳は五十代前後、口調や目つきは穏やかで優しく見える。ただ、いつも他人の目線を気にして、上っ面を整えている自分には、そのまやかしが透けて見えていた。
落ち着きを取り戻しつつある冬原の言葉に神経を傾けて、そこに嘘がないか、正確性はいかほどのものか、吟味しているようだ。
それが無性に気に入らず、その刑事の顔を不躾に直視し続けてしまう。
砂坂と名乗った刑事は、話の途中でこちらを向くと、「柊さん、だったかな。もう両親には連絡したのかな?」と言った。
これは言外に、帰ってもいいぞと言っているのだろう。
湧き上がる苛立ちを抑えつつ、困ったような面持ちを作って首を振る。
「しました、けれど…まだここに居ます」
「ん?どうしてかな。ご両親は心配していると思うよ」
別に母がいないことは、コンプレックスでも何でもない。
だが、誰にでも両親がいて当然だと思われるのは、些か不愉快だ。
柊はもう一度だけ、ゆっくりと首を振った。そして、背筋をぴんと伸ばし、相手の瞳を真っすぐ覗き込む。
ある種、反抗的に捉えられるかもしれない態度であったが、砂坂は表情一つ変えずに、黙ってこちらの言葉を待っていた。
「冬原を一人にしたくありません」
「そのことか、大丈夫、一人にはならないよ。部屋の外に警官を待機させておくから、安心してくれ」
「それは他人です。身の安心は出来ても、心の安心にはなりません」
唇をきゅっと引き締めて、砂坂の顔を見つめる。
彼は、ほんの少し口元を緩めた後、軽く頷いてからは、もう何も口を出さなくなった。
自分の意思を汲んでくれたのか、相手をするのが面倒になったのか。
何はともあれ、この場には置いてくれるようだ。
ほっとして一息吐いていると、冬原が制服の袖を掴んで、小さくお礼を言ってきた。
その濡れた瞳を見ていると、照れ隠しを言う気も失せる。柊は、冬原を励ますように微笑んで、その手を握り返した。
冬原と砂坂の質疑応答を聞いていると、いかに彼女が、生々しくおぞましいものを目の当たりにしたのかが分かる。それで無意識のうちに、柊の顔も渋くなっていく。
今朝は、鍵が刺さったままだったということ。
ベランダに汚物がついていて、向こうのベランダにもついているのが見えたこと。
それらにより、胸騒ぎを感じて、隣室に入ったということ。
たどたどしくも、しっかりとした口調で冬原は説明した。
砂坂には多少不可解な点があったようで、時折、眉をひそめていた。
ただ、今日は初日ということで、早めに質問を切り上げて、また後日となった。
すでに時計の針は、十時を回っていた。
取り調べが短い時間だったとは、とても言い難い。




