死の献花
これにて、四章は終わりとなります、
不穏な空気で進みますが、
なんとか百合分も失わないよう、頑張っていきますので、
是非、今後もよろしくお願いします!
柊は、ついにベランダから身を躍らせて飛び降り、地面に着地するや否や、凄まじい速度で、遠ざかっていく人影を追った。
ぼうっとその後ろ姿を見つめていた冬原は、ハッと我に返り、柊一人に追わせるわけにはいけない、と体に力が入った。
自分もとにかく柊を追わないと、と手摺に手を掛ける。
その瞬間、掌が粘ついた液体のようなものに触れてしまい、冬原は咄嗟に手を離した。
そして、自分の掌を見つめる。
何だろう、暗くてよく見えないが…泥?
無意識に鼻を近づけると、凄まじい刺激臭がした。
顔を背けながら、手洗い場に駆け込む。
洗い流す前にその物体を観察する。
黒や黄色、赤が混ざったような色をした、汚らしい半液体が付着している。
血、ではないと思うが…、何か嫌な感じがする。
手を洗いながらも、その見たこともない物体のことが気にかかり、冬原は、携帯を持ってベランダに戻った。
携帯のライトをオンにして、手すりを照らす。
どうやら、下着泥棒は隣室のベランダから侵入したらしい。手を伸ばせば届きそうな、隣のベランダの手すりにも、同様の物体が付着していた。
自分が用意していたネットも、隣室のベランダからでは容易に外されてしまうだろう。
ほとんど無意味だったようである。
隣の住民は、何も気が付かなかったのだろうか。
不審に思ったが、隣室は暗闇に閉ざされており、人の気配が感じられなかった。
しかし、よくよく見ればベランダの戸はかすかに開いているらしく、カーテンが外にはみ出し、はためいている。
そういえば、今朝は鍵が刺さりっぱなしだった。
まだ、帰ってきていないのか。
――…何故だろう、妙な胸騒ぎがする。
さっきの、触れたことのない液体と、嗅いだことのない臭い。
隣人は今、何をしているのだろうか。外に出ているのだろうか。
普通に考えればそうだろう、別におかしなことではない。
だが…。
冬原は、柊の後も追わずに玄関口から早足に廊下へ出た。
隣室の扉の前に立って、インターホンを鳴らす。
予想通り、少し待っても誰も出てこない。
彼女は一瞬の躊躇いの後、そのドアノブに手を掛けて手前に引いた。
開かないで欲しいと思う一方、開くはずだという謎めいた確信があった。案の定、重い扉は自分の部屋と同じ音を立ててゆっくりと開いた。
念のため、開きかけの扉越しに声をかけて、中に誰もいないかどうか確認するが、返事はない。
自分のやっていることは不法侵入なのでは、と思いながらも、体を扉から中に滑らせる。
…何だ、この臭い。
反射的に冬原は、鼻と口を両手で覆う。
散らかったキッチンを進む。
誰もいないと分かっていても、自然と忍び足になり、息を潜めてしまう。
足元には、何のゴミなのか分からない空の容器や、袋が散乱しており、ここに住む人が不精だということは間違いなさそうである。
自分を鼓舞するように、「すいません」と声を上げる。
ここまでくると、誰かが返事をしたほうが、心臓が止まるほど驚くことになるだろう。
勝手に電気を点けていいかどうか迷いながらも、あまりに暗いと足を進めることもままならないので、キッチンの照明は勝手に点けた。
自分の部屋とほとんど同じ構造のため、スイッチの場所はすぐに分かった。
スライド扉は、人間が体を横にすればギリギリ通れるぐらい開いており、中からはかすかに光が漏れている。
室内の明かりは点灯していないため、外の街灯のわずかな光が差し込んでいるのだろう。
その隙間から室内を、息を止めて覗き込む。暗闇は思ったよりも濃く、よく見通せない。
仕方がなく扉を全開にすると、臭いがいっそうきつくなった。同時に、キッチンの明かりで室内がぼんやりと照らされた。
嗅いだことのない臭気に、とてもじゃないがまともに呼吸ができない。
自分の影が、ゴミだらけのフローリングに投影されており、その先には、ベランダの窓を塞ぐようにしてベッドが横向きで置いてあった。
その中央には、明らかに人の形をした影が横たわっていた。
目を背けたいのに、薄闇の中に眠る人影に、冬原の瞳は釘付けになってしまっている。
自分はこの状況を知っている。
何度も、本の中で目にしてきた。
鼻が曲がるほどに、異様な臭気。
不自然に開きっぱなしの部屋。
微動だにしない、人の形をした影。
今すぐこの場を離れて警察に連絡を、と頭では考えているのに、足は出口とは逆方向に進んでいく。
何かに操られているかのように、それか、憑かれているかのように。
距離が近くなることで、次第にその全貌が明らかになる。
ひゅっ、と空気を吸い込む音が、自分の鼓膜を打つ。
それを機に震えだした手足や唇も、上手く酸素を吸えない喉も、気が遠くなるほどに激しく拍動する心臓も、何もかもが他人事のように感じられた。
初めは孤独死なんて単語が脳裏に浮かんだものだが、すぐにそれを否定した。
とても人だったとは思えないほど、醜く体の一部が膨れ上がってはいたが、喉元、両足の付け根が、腐敗に混じった赤黒い傷口を辛うじて残していた。
刺されたのだ。
だが、傷口以上のあるものに、冬原の意識は吸い寄せられていた。
カラカラに乾いてはいるが、これは…。
「…花びら」
声を発したと同時に、強烈な刺激臭が体内に入り込んでしまう。
凄まじい吐き気が込み上げてくる。
慌てて回れ右をして、現場から走り去り、自分の部屋のトイレに遮二無二なって駆け込む。
先ほど食べたカレーが便器の中に垂れ流されていき、その中に、自分の涙と鼻水とが滴っていく。
何、あれ。
死んでいた?
死んでいただろう。
血が、出ていて。
違う、腐敗していたんだ。
腐敗した、人間の体液。
あぁそれを触ったんだ、私。
何で、あんなところで勝手に死んで。
いや、それも違う。
殺されていたんだ。
しかも、そいつは、殺した後に、花びらを置いたんだ。
何のために、何のためだ。
殺した理由?
ベッドに寝かされていた理由?
何箇所も刺した理由?
違う、何を考えているんだ。
だが、何のために、花びらなんか撒いたんだ。
さっきの光景がフラッシュバックする。
その拍子に、また胃の中のものが音を立てて便器に流れ込む。
ぬらりと怪しく光る体液、干からびた花びら。
顔を見なくてよかった。本当に、よかった。
見ていたら、自分は帰ってこられなかった気がする。
誰かの声が、遠くから聞こえる。
あぁ…柊だ。
彼女の元に行かなくちゃ。
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