とけ出した雪 2
アパートに辿り着き、キーをかざして扉をくぐる。
途中でポストを覗くも、よく分からない葉書しか見当たらず、取り出すのも億劫で、再び蓋を締める。
「冬原、捨てなさいよ、今の」
柊の指摘を、冬原は曖昧に微笑んで受け流す。
ふと、今朝ポストに入れた鍵のことを思い出して、まだ隣の部屋の鍵は開いたままなのだろうか、と引っかかった。
ただ、考えても仕方がないことなので、すぐに思考を切り替えた。
「お邪魔します」と前回もそうだったが、何故か小声で柊が呟く。
「狭くて、ごめんね」これも前回と同じ。
ぎゅうぎゅうになった玄関口で靴を脱ぎながら、そう柊に告げる。
柊は少し困ったように、眉を斜めにして、「冬原は小さいんだから、気にしないでいいでしょ」と、先に上がった冬原に続いて、奥へ足を踏み入れた。
そんなに小さくないし。
余計な一言だと思わないでもなかったが、柊なりの気遣いだろうと受け止める。
とりあえず荷物を置くため、奥の部屋へと移動する。
適当なスペースに荷物を下ろす。
それから、柊にはゆっくりしてもらうよう告げて、キッチンに戻った。だが、柊はその提案に異を唱え、冬原の隣に立った。
「さすがに手伝うわよ」
「で、でも…」
「一人で待ってるほうが嫌よ。逆の立場で、アンタ待てる?」
返す言葉もなくなったので、冷蔵庫の中身をチェックして、いくつか候補を浮かべ、晩御飯のリクエストを柊に窺う。
彼女は、その中でも一番簡単なカレーを選んでくれた。
これなら、失敗することはまずないだろう。
柊が人参の皮をピーラーで剥いている間に、冬原が玉ねぎを薄切りにしていく。そうしてジャガイモの用意まで終わると、冬原は、冷蔵庫から豚バラを取り出しながら柊に尋ねた。
「柊さんは――」
「柊でいいから」
本題に入る前に、柊の口から間髪入れずに発せられた言葉には、有無を言わさぬ圧力があった。
そんな急に、呼び捨てで呼べるものだろうか。
普通の人は、そうしている?
確かに、綺羅星と柊はすぐにそう呼び合い始めた。
…あぁ、やっぱり、人付き合いは難解だ。
「ひ、柊は…、お家でこういうこと手伝ったりするの?」
奇妙なむず痒さを感じながら、柊の私生活について触れる。
ただこうして料理をしているときの手際を見るに、日頃から、母親の手伝いをしている姿が容易に想像出来る。
「まあね、私の家、母親がいないから。自然とやらなくちゃいけなくなるのよね」
「あ…そ、そうなんだ」
失言だった、というのが顔に出ていたのか、柊は呆れ混じりの微笑みを浮かべると、冬原の手から豚バラのパックを奪い取り、ラップを破って開け始める。
「何よ、別に珍しい話じゃないでしょ?私が物心付く前に死んじゃったから、あんまり覚えていないの。だから、変に気にしないでよ」
そんなことを言われても、気にしないということのほうが難しいだろう。
柊の横顔は、本当に大したことはないんだ、と言わんばかりにいつもどおりだった。
当の本人がこの調子なのに、第三者が気を遣いすぎるのも、かえって悪い。
「うん、分かった」
柊の言葉に短く返事をして、再び料理に戻る。
カレーのほとんどが完成し、残りは煮詰まるのを待つだけとなった。
タイマーをセットした二人は、洋室のほうへと移動して、冬原はベッドに、柊は座椅子にそれぞれ腰を落ち着ける。
普段、コミュニケーションを怠っていたツケが回ってきて、レスポンスは悪かったものの、一言二言、短いやり取りは絶え間なく続けることが出来ている。
これなら、『友達』として及第点を与えても良いのではないか。
柊は、壁にぴたりと背中をつけて並んでいる本棚に目を移し、隙間なく並んでいる一冊一冊を見つつ、おぼろ気な口調で声を発した。
「ねぇ」
彼女らしくない口調を怪訝に思った冬原は、ベッドの上で膝を抱えたまま、柊を横目で確認した。
目線は先刻から本棚に向いてはいるものの、どこか虚ろな眼差しだ。
柊の意識の焦点は、本ではなく、自分の頭の中に定められているようだ。
「どうしたの」
「アンタにはさ…」とそこで言葉を区切った柊は、座椅子をクルリと回転させて、本棚からこちらへと体を向けた。
その際、座椅子の正面にあった炬燵に背もたれがぶつかり鈍い音が立った。だが、柊は一切気にせず、淡々とした口ぶりで続ける。
「誰にも言えない秘密とかってある?」
「…・ど、どうしたの、急にそんなこと聞いて」
「いえ、単純な興味…かしら。冬原って自分のこと、ほとんど話さないから」
鼓動が止まるかと思った。
いや、止まるには程遠い。
今も心臓は激しく拍動し、呼吸を荒立てようとしているのだから。
どうしてそんなことを尋ねられたのか。
並べていた本の中に、妙なものがあっただろうか。
チラリと本棚を一瞥するが、やはり思い当たる節はない。
それもそのはずだ。万が一に備えて、大事な画集や小説は、あのクローゼットの中にしか保管していないのだから。
耳の奥や目の奥が、酷い鈍痛に苛まれて、ベッドの上に横になりたくなった。だが、ここでそんな真似をして、柊に余計な勘ぐりをされるのは避けたい。
少しでも秘密を臭わせてしまったら、柊はきっとその中身を知りたがる。
人が、そういうものだ。
両親がそうだったように。
そして、自分から望んで開けた箱のくせに、難癖をつけるのも、また人だ。
柊に知られては、タダでは済まない。
秘密を覗かれた自分も、覗いた彼女も。
好奇心で匣を開けたパンドラのように、柊にだって災厄が降り注ぎかねない。
冬原は努めて明るい声を出して、それに答えようとした。
だが、思った以上に焦っていたようで、開かれた口からは、かすかな呼吸以外は何の言葉も出てはくれなかった。
そんな自分を見つめていた柊は、何かに気がついたかのように目を細めて、さっと逸した。
全てを、悟られたような気がする。
そんなことは絶対にありえないのに。
ただ少なくとも、心の中に巣食う疚しさは見破られたはずだ。
「…そう」
「あ、いや」
柊は、またクルリと座椅子を回転させてこちらに背を向けた。
もう話す気がないのか、それとも、こちらから何か言うべきなのか。
冬原が頭を悩ませていると、再び座椅子が回転して柊と視線が交差した。
やや切れ長の瞳が、いっそう細められる。
まるで自分を観察しているような鋭い目線に、冬原はさっと目を背け、フローリングの継ぎ目を見つめた。
「あ、あの、私…」
妙な強迫観念に襲われて、必死で声を絞り出そうとする。それを遮るように、柊が口を挟んだ。
「ごめん。誰にだって、人に言えないことの一つや二つあるわよね」
随分、物分りがいいではないか。
普段の彼女であれば、『何よ、言えないわけ?』とか何とか言って、根堀り葉掘り問いただしてきそうなものなのに。
妙なことに柊は、少しだけ安堵した顔つきで宙空を見つめていた。




