とけ出した雪 1
嫌いだった人の良いところが見え始めると、
不思議と魅力的に見えますよね。
建物の外に出ると、辺りはすっかり暗くなっており、思わず深い溜め息がこぼれてしまう。
数日前の寒さほどはないものの、中間服のままでは、じっとしていると体が震えて出しまいそうである。
西の空の果てが橙色に染まっており、水平線から天上まで、薄い赤から群青のグラデーションが広がっている。
夕暮れはいつだって、自分の心をノスタルジックなものに変える。
普段なら、しばらくの間、夕日の名残を見つめていたいのだが、今日ばかりはそんな余裕はなかった。
「…疲れたわね」
「…はい」
学校が終わった後、二人で警察署に立ち寄って、件の被害届を出してきた。
だが、これが想像していた以上に時間はかかるわ、質問の内容が時折意味が分からないわ、同じことを何度も言わされるわ…散々な目に遭った。
…そもそも、盗られた下着の値段など覚えていない。
結局、後日警察が家に来るということであったが、正直もうどうでも良かった。
彼らの言うことには、早めに連絡していなかったことが原因で、指紋の採取だって結果を期待できたものではないらしい。
じゃあ、もう来なくていいです、と口にしたかったが、当然そんな勇気は自分にはなかった。
どちらからともなく歩き出す。
学校近くの駅へ向かう柊と、その道中にある自分の家に向かう冬原は、自然ともうしばらく同じ道を行くことになった。
昼間のこともあって、二人の間には居心地の悪い空気が流れていた。
まぁ、そもそも柊と心地の良い時間を感じたことなどないか、と虚しい笑いが漏れる。
それを敏感に聞き取った柊が、「何を笑ってるの?」と尋ねた。
思っていたことをそのまま直球に答えると、いっそう気まずくなるのは火を見るより明らかだ。
そのため、冬原は誤魔化すように曖昧に笑った。
「何でも」
その返しに、不満そうな顔つきになった柊は、わざわざ足を止めた。
「ねぇ、アンタ今日晩ご飯どうすんの」
「え、と、お米が炊いてあるから、何か適当にご飯を作るつもりだけど…」
「あ、そう」と興味なさげに呟いた柊。
「柊さんは、お家で食べるんだよね」
「いや、あー…」と歯切れ悪く答えた柊。
それを黙って見守っていると、柊は少しバツが悪そうに頭を掻いた。
それから、もうほとんど黒に近い青で染まりつつある、空の果てを眺めて言った。
「今日は家族に、友達と食べてくるかも…って伝えてるから、多分、私のぶん無いんだよね」
「あ、そうなんだ…」
こんな時間からでも、ご飯を共にできる友人がいるとは…。流石は人気者の柊蝶華だ。
だがそう考えると、予定があったのに自分のために時間を使ってくれた、ということになる。
冬原の胸には嬉しさ半分、申し訳無さ半分、といった気持ちが込み上げてきていた。
柊が一緒に来てくれなければ、もっと時間がかかってしまっていただろう。
自分にとって、知らない人間と会話するなんて、基本的に苦痛以外の何物でもない。
あんなに長い時間、他人と箱詰めにされるのは、非常に精神を摩耗する行為にほかならない。
柊が要所で言葉添えをしてくれたことで、話はスムーズに進んだ。
何より知っている人間が側にいてくれているというのは、強い安心感をもたらした。
ここは素直にお礼と謝罪をしておこう。
「柊さん、あの、時間を取らせて、ごめんなさい。あと、お友達にも…」
だが、柊は妙な顔つきになって唸り声を上げると、腹を括ったように冬原の目を真っすぐ見据えて言った。
「ここでいう友達って、どう考えてもアンタのことでしょ。何で分かんないのよ」
「え、と、友達?」
「何よ、嫌なの」柊は、ほんのりと頬を染めた。
どうして毎回、そんなに偉そうに言えるのだろうか、と何だか可笑しくなる。
仮にも虐めた人間と、虐められた人間だというのに。
しかも、今日の昼間にそのことを謝っていたくせに…。
自分も酷いとは思うが、柊だって変人だ。
冬原は首を横に振りながら、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「嫌じゃない」
「…あっそ」
これが柊の、精一杯の照れ隠しなのはさすがの自分でも分かる。
その証拠に柊は、さっきから耳まで真っ赤に染まっていた。
まるで薔薇の花のような横顔に、目を奪われる。
二人の関係が色を変えたのは、一体、どうしてだろう。
冬原は、明るい星の少なくなった、秋の夜空を見上げて思った。
真剣に理由を考えるつもりではなかったのだが、冬原の頭には、少し前に自分たちの側に落ちてきた一等星のことがよぎっていた。
あの星が二人にとって、幸せを招く吉星だったのか、それとも破滅を呼ぶ凶星だったのかは未だに分からない。
だが、そのおかげで、こうして自分たちが和解しつつあることは間違いない。
それについては感謝するべきなのかもしれない…。
例え彼女がどれほど不可解で、時に恐ろしくとも。
「それじゃあ、今日はご飯どうするの?」
「え?あぁ…。適当にコンビニ弁当か何かで済ませるわよ」
「そっか」
少しだけ、勇気がいる。
彼女と自分の関係が、本当に友達と称して大丈夫なのか。
それを確かめるには。
今ここにはいない彼女なら、自分たちを見て何と言うだろう。
笑う気もするし、無言の気もする。あるいは、興味無さげに雑な相槌でも打つだろうか。
馬鹿馬鹿しい、と冬原は内心で鼻を鳴らす。
彼女がいてもいなくても、行動できる自分で無ければ意味はない。
綺羅星ありきの友人関係など、まやかしに過ぎないのだ。
「じ、じゃあ、私の家で一緒に食べない?」
「は?」と心底驚いた表情を浮かべる柊。「あ、アンタの家で…?でも、もう米だって炊いてるんでしょ」
「私、いつも次の日のお弁当の分もまとめて炊いているから、きっと足りると思うよ」
さらに冬原が、「柊さんが食べ過ぎなければだけど」と冗談めかして呟いたので、柊のほうも冗談っぽく、「私のスタイルを見れば分かるでしょ」と答えた。
可能な限り自然な口調で、態度で、柊に接する。
そう意識している時点で自然とは程遠いのだろうが、そう努めることが、今の自分にとっての義務のように感じられた。
少しずつ歩み寄りつつある柊に対して、自分が払える最低限の礼儀。
チクリと、母の言葉が影を見せ、自分の心を刺激する。
大丈夫だ、見られなければいい。
柊は考え込むように地面を見つめてから、ややあって止まっていた足を動かし、冬原の隣に並んだ。
一瞬だけ向けられた目が、行くわよ、と語りかけてくる。
どういう意地を張れば、素直に、はい、と言えなくなるのだろうか。
こういうところも柊らしい、と思えるようになったのは、月日によるものか。
そうして冬原のアパートまで、他愛のない会話をしながら向かう。
ぽつり、ぽつりとではあるし、どちらかが返答に窮したり、黙ったり、と会話が滞ることも多かった。
ただそれは、不器用ながらも分かり合おうとし始めた証でもあった。
学校からアパートに繋がる道とは違った、車の多い大通りを冬原と柊は共に歩く。
車が横を通る度に、冷たい空気が全身を撫ぜる。
不思議と、今はそれも心地よかった。
冷蔵庫に何があるのか、何か嫌いな食べ物はないか、家族は心配しないのか。
明日は晴れるかとか、寒くなったねとか、でも今年は暖冬らしいよとか。
そんなどうでもない会話だった。
だが、彼女と自分では、一生出来ないだろうと考えていた、和やかな会話。
車のヘッドライトに照らし出される柊の横顔がとても優しく、穏やかに冬原の瞳には映った。
未だに網膜に焼き付いた、柊蝶華の冷酷な表情は消えない。けれど、何も消す必要もないとも思える。
何かの本で読んだことだが、初めからプラスの印象を持っている相手より、初めはマイナスで、やがてプラスに転じる場合のほうが、より好意的に見てしまうものらしい。
不良が良いことすると、やけに評価されるアレにきっと似ている。
それが事実なら、自分と柊の関係は並大抵の繋がりより、ずっと頑丈で堅固なものになるはずだ。




