ジレンマ 2
少しだけ肌寒い廊下を二人で並んで歩き、資料室へと足を進める。
他の生徒とすれ違う際に、『今日は三人じゃないんだ』とか、『綺羅星さんは?』とか何回も質問されるものだから、途中から柊も、説明するのが面倒になったようで、「ちょっとね」と、簡単な返答をしていた。
当たり前のように、二人のセットにされてしまっているなぁ、と複雑な気分を味わいながら、資料室の扉を開ける。
先に自分が入って、お弁当を机の上に下ろした途端、ガチャリと鍵が落ちる音が聞こえた。
それで、思わず音のしたほうを勢いよく振り向いてしまう。
それで、後ろ手に鍵を掛けた柊と目が合ってしまったのだが、その瞳からは、先ほどまで上っ面の優しさは消えてしまい、今では苛立ちに滲んだ炎が揺らめいていた。
久しぶりに二人きりになったことを思い出して、つうっ、と背筋に冷たい汗が流れた。
柊は、大型の獣のように足音を鳴らして冬原の正面にあたる席に移動して、バッグの中からお弁当を取り出すと、ふてぶてしく腰を下ろした。
ジロリ、と立ち尽くしている自分を睨みつける。
彼女の口の動きがスローモーションに感じられるのに、自分の体の中心で拍動する心臓は、早鐘を鳴らしていた。
もしかすると、自分は柊と友達にでもなったつもりだったのかもしれない。
そんなわけがなかったのだ。
彼女が、自分と対等になどなるはずもない。
そんな可能性のある人間を、あんなふうに扱ったりしない。
耳を塞ぎたくなる衝動を感じつつも、体が言うことを聞かない。
それで、彼女の言葉を真正面から受け止めることとなった。
「何で、ちゃんと警察に届けなかったの?」
「…え?」
「え、じゃなくて。アンタ、分かってるんでしょうね?妙な変質者に目をつけられているのよ」
「あ、いや、う…、うん」
「分かってなさそうね…、全く。あのね、こういう犯罪はエスカレートしていくものなのよ」
柊の口からこぼれたのは、今朝の正論の続きで、罵詈雑言が飛び出してくることを予想していた冬原は、呆気に取られ、雑な相槌しか打てなくなっていた。
まさかとは思うが、自分を心配しているのだろうか…。
その反応を見て、話をまともに聞いていない、と判断したらしい柊は、お弁当を食べる手を止め、頬杖をついて冬原を睨んだ。
「ちょっと聞いてんの、冬原」
あまりに反応が鈍かったためか、柊は冬原の名前を呼びながら、手をひらひらと左右に振った。
柊の目は、疑念によって細められており、これ以上気の抜けた発言をすれば、それこそ罵られそうだった。
気を取り直し、きちんと謝罪してから、後日警察に届けることを彼女に伝えた。
しかし彼女は、そんな冬原の素直さにはやはり懐疑的であった。
「後日って、いつよ」
「いや、それは、まぁ…」
「駄目よ、アンタに任せておくと、いつまで経っても先延ばしにするでしょう。今日の放課後、行くわよ」
「え、ほ、放課後?いや、そんな急に…」
「私も行くから、安心しなさい」
胸を張って柊が口にした発言に、困惑の表情を浮かべた冬原は、何度も首を左右に振って断りの意思を示した。
だが、柊の鋭い視線に圧倒されて、黙り込んでしまう。
「アンタねぇ、イヤイヤ期の子供じゃないんだから、大人しく言うこと聞きなさいよ」
「だって…」
「だって、じゃない。いいから、さっさとお昼を食べなさいよ」
そうして、ほとんど強引に話は打ち切られた。
柊は、食事を済ませることに意識を切り替えてしまったようで、もうこちらを見向きもしなかった。
そんな彼女に引きずられるように席に着き、コンビニ弁当を広げて食べ始める。
そしてどちらともが箸を置いて昼食を済ませた頃には、昼休みは残り十分といったところだった。
冬原は柊に急かされて立ち上がり、せかせかと小動物のように忙しなく、お弁当を片付け、出入り口の扉の前にいる柊の横に並んで立った。
鍵を開くのを従順に待っていた冬原だったが、不意に、柊がこちらを見つめて手を止めた。
その目は呆れるような、可笑しがるような色で染められていた。
そこには、普段の彼女の仮初の愛嬌も、本来の姿である(と私は思っている)粗暴さも無かった。
「もう…、何してんのよ」
そのあまりにも柔らかで、悪戯っぽい笑顔に驚いて、思考が止まってしまう。
作られた意図の一切ない、本当の彼女を映し出した表情はとても魅力的で、ずっとこの顔をしていればいいのに、と思うほどだった。
だからこそ、冬原はぼうっとしてしまっていて、柊の指先が頬に触れる直前になるまで、それに気がつかなかった。
そして、そのしなやかな指先を認識した、瞬間に慌てて手で振り払ってしまう。
「あ…」
互いに大きく目を見開いて、何が起こったのか理解出来ていないように、瞳をパチパチさせた。
柊は事態を飲み込むと、バツが悪そうに顔を逸した。
冬原は、そんな彼女に対して怯えたように肩を竦めて俯いた。
砂を噛んだような、気持ちの悪い沈黙が二人の間に流れた。
どちらとも、相手が口火を切るのを待っているかのようだった。
「何よ、アンタのほっぺに、米粒がついてたから…」
言葉だけは、いつもの強気な彼女そのものだった。
だが、語気は完全に萎れてしまい、どちらかというと、弱々しい印象さえ相手に与えた。
柊の言葉を聞いても何も言えずにいた冬原に、苛立つような表情をした彼女だったが、しばし逡巡するように、口を開いて、閉じてを何度か繰り返した後、諦めたように、一つ深いため息を吐いた。
「…なさい」
何か聞こえたような気がして、彼女のほうをおずおずと見上げるも、柊は何も言おうとしないままに見えた。
自分の勘違いだった、と目線が下がりそうになったところで、今度こそ柊の声がしっかりと聞こえた。
「その…今まで、ごめん、なさい」
10センチ以上ある身長差から、自分に降り注いでくる星屑のような言葉が、ズドンと胸の奥に落下して、冬原の心を激しく揺さぶった。
相手の顔を、じっと見つめていると、ついに柊は、耐えきれないといった様子で顔を背けて、斜めに立った。
その面持ちには、拭えぬ不安がこびりついており、彼女自身、きっとあまりに都合が良すぎると分かっているようだった。
落ち着かぬ様子で、眼球を右往左往させる柊。
冬原が怒りをぶつけるのを怖れているのか、あるいは、建前上の赦しを与えられることを怖れているのか。
「都合が良いのは百も承知よ。許して、なんて言わないわ」
声だけは毅然としていた。ただ、顔は明後日の方角を向いている。
言葉とは裏腹に、本心では、この関係の修復を諦められているようには思えなかった。
そこまで考えて、ふと自分で自分が滑稽になる。
関係の修復とは何だ。
初めから、私と彼女の関係は、この歪んだ形しかない。
どうして、私たちはこんな繋がりを持ったのだろう。
きっと、普通の友達としてだって始められたはずなのに…。
いや、どうだろう。
私には、こんな関係こそ、お似合いなのかもしれない。
だって、母が言うことが正しいのであれば私は…。
暗い目をした自分の姿が、頭の奥に広がる闇に浮かぶ。
少しだけ昔の格好をした自分、それはあの日、母の濁った瞳に反射した己の残像だった。
その癪に障る幻を、固く目をつむることで打ち払い、何も見えなくなったところで、力無く目蓋を上げる。
すると、こちらを怪訝に見つめる柊と目が合った。
不思議なことに、柊の瞳にも、自分に似た暗闇を感じてしまう。
それが、瞳に反射した自分の姿なのか、柊自身の鬱屈した感情なのかは、日頃、人の心を想像する機会のない冬原には全く分からなかった。
「どうしたのよ」
「何も…」
「そう…」
短いやり取りの後、冬原は、決心したように体を柊の真正面に向けて問いかける。
「柊さん」久しぶりに、彼女の名前を呼んだ。
「何よ」
「一つだけ聞いてもいい?」
「…答えられることなら」
空気を深く吸い込み、速くなる鼓動を抑えながら、言うべき言葉を頭の中で反芻する。
どう伝えればいいのか。
自分は何を聞きたいのか。
一つなんて、前置きするべきではなかったと後悔した。
それでも、半年以上前から、ずっと胸に抱いていた問いが、何よりもの最優先項目だと判断して、その質問をぶつけた。
「どうして、私だったの」
この質問にさえ答えてくれれば、もうそれだけでいい。
納得の出来る回答でなくていい。
何か答えてもらえれば、きっと形式的にでも和解を果たせる。
大丈夫だよ、これから仲良くしようね、とか。
こちらこそごめんね、友達になってくれる、とか。
いや、そんな台詞、綺麗には言えないだろうけど…。
たどたどしくとも、赦しの言葉は伝えられるはずだ。
だが…、柊は渋面を作って、こちらを弱々しい瞳で一瞥した後、何も答えることはなかった。
そして、逃げるようにしてドアの向こうへと消えていく。
扉を開ける音に混じって聞こえた謝罪の言葉は、冬原の中にある澱みを洗い流すには、不十分であった。




