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やがて、冬の雪がとけたら  作者: null
四章 死の献花

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月の無い夜と、アーティスト 2

 しかし、本当に良く寝ているな、と刃を手にして感想を抱く。


 人間など大抵がこうだ。


 自然から生じた、泥と血に塗れた生き物のくせに、

 気がつけば、自分たちは全ての連鎖の頂点に君臨している、と勘違いしてしまっている。


 それゆえに、命の危機においても、こうも幸せそうに眠っていられるのだ。


 みんな、死が自分たちに必ず降りかかるものだと知っているのに。

 それが唐突に訪れることは、ありえないと信じ込んでいる。


 死というものは、軍靴が鳴らす仰々しい足音を伴って、自分たちの目の前に姿を見せてくれるのだと、確たる証拠もないまま、ある意味で信仰のように抱えている。


 だが、それは間違いだ。

 生き物は突然死に、突然殺される。


 だからこれは、別段不幸でも何でもないのだ。いや、それどころか、幸運とも呼べるだろう。


 本来あるべき、生き物としての理の中で、苦しむことなく安らかに、それこそ眠るように終われるのだから。


 片手を高々と掲げて、正確に狙いを絞る。


 急所を外せばこちらの身の危険だけではなく、直後の創作活動にまで支障をきたす。

 作品のクオリティを著しく低下させかねないのだ。


 全身全霊で集中し、速やかに済ませたい。


 空気を吸い込む音が、空気を少しでも震わせてしまわぬように注意する。


 肺が、限界まで膨らむ。

 渾身の力で、横たわる人間の首にナイフを突き立てる。


 数コンマだけ聞こえる、空気を切り裂く音。

 見開かれる、白濁した目。


 差し込んだナイフの刃を間髪入れずに引き抜き、もう一度だけ突き刺す。


 生々しい感触と、流血、吐血、流血。


 飛び散った血液が、自分の顔に付着したのを感じる。

 拭き取る手間も惜しい。


 そのままの姿勢でぼうっと動かなくなった体を見下ろした。

 悲鳴をあげる暇すら、彼にはなかった。


 静かに、また目蓋を閉じる。


 脳裏を巡る、月のない晩に煌めいた鈍色の三日月。

 色など視認できないはずの暗闇に舞った、真紅の花びら。


 カーテンの間から侵入してくる、脆弱な街灯の光。

 まるで、静謐(せいひつ)を讃える棺桶のように口を閉ざしているベッド。


 この世のものとは思えない美しい光景に、自分の体の奥のほうが、小刻みに痙攣するのが分かる。


 思わず、甘美な吐息が口の端からこぼれた。


 今すぐに両腕で自分の体をかき抱いて、体内を駆け巡る刹那的な衝動に身を任せ、叫びだしたい。


 ただ、それをすれば、自分がいかに貴重な機会を失うかを分かっていたため、歯を食いしばって昂揚感を抑えて、固くつむった瞳を見開く。


 汚れていないほうの手をポケットに突っ込む。

 中から、ぐしゃぐしゃになった懐紙を何枚かまとめて取り出す。

 それで慎重にナイフの血を拭ってから、丸めて再びポケットに仕舞う。


 最後に、ナイフを納めていた鞘に戻して一段落…。


 全ての動きが、機械のように正確であったが、終わりに一息こぼしたことで、人の形をした生き物であると分かる。


 作業に移るために、布団を剥ぎ取り、部屋の隅に放り投げる。


 初めて男の全身をはっきりと見たわけだが、何の興味も湧かないまま、素早く意識を切り替える。


 寝台のヘッドボードに携帯を置いて、ランプ代わりに使う。

 そうして創作スペースを整え、頭の中で構図を練った。


 一分足らずの間、彫刻のように固まっていたわけだが、突然、思い出したかのようにまたナイフの柄に手を伸ばし、抜き取った。


 刃が鞘を滑る音が、死んだような静寂の中に響いて、再び全身が熱くなる。


 赤が足りない。


 考えるが先か、動き出すのが先か。


 切っ先を右足の付け根目掛けて振り下ろし、そのまま反対側の付け根にも刃を立てる。


 引き抜かれた傷口とナイフから赤い鮮血が舞い上がり、次第に周囲は血の海へと変貌していく。


 血の滴る刃先をベッドに垂直に向けて、適当な間隔で赤い花を咲かせる。


 多少やり過ぎたかもしれない、と反省しつつも、先ほどと同じ動作で血を拭き取り、今度こそナイフを仕舞う。


 そして、最後の締めに、ポケットから取り出したものを彼の上に散らした。


 上出来だろう。


 一旦、入り口に置いてきていたバッグを取りに戻る。


 それからまた部屋に入ると、どこか座れる場所を探して周囲を見渡した。


 ちょうどパソコンデスクの前にあったオフィスチェアに目がいき、片手でそれを引き寄せる。


 ゆったりとした動作で腰を据えると、バッグの中から長方形の板と鉛筆を取り出した。


 一辺が45センチ・60センチぐらいある画板だ。そこには、すでに真っ白の画用紙が挟み込んである。


 呼吸を整え、横たわる体に、否、画材に向き直りチェアを近づける。


 鉛筆を手にして、視線をひたすらに、用紙と画材とに入れ替えながら作業を続ける。


 色を付けた後のことも考えながら、一つ一つ、目の前の情報を取捨選択して、筆を進める。


 筆先に神経を集中して対象をなぞることは、ナイフを振るうよりも、ずっと精神を摩耗させるし、比較にならないぐらい、体感時間を加速させる。


 時折、力の入りすぎで鉛筆の先が折れて、代えの鉛筆が必要になった。


 実際の風景画や肖像画と違って、自分の描く絵の場合は、画題を生で見られる機会は、基本的には一度きりだ。


 しかも、ほんの一時間にも満たないことがほとんどであった。


 だからこそ、この限られた時間の中で、どれだけ自分の表出したいものを下地に残せるかが重要になってくる。


 他のことを考える余裕などない。

 それこそ、作品のために散らした命への侮辱にあたる。


 どれくらい時間が経ったか、時計を確認しようと首を曲げて壁を見渡す。

 どうやら彼は壁掛け時計を使わないタイプだったらしく、どこにもそれらしいものはない。


 仕方なく立ち上がり、照明代わりに使っていた携帯の元まで移動して、スクリーンの時間を確認する。


 作業を始めてから一時間あまりが経過していたらしく、夜よりも、明朝に近い時刻になっていた。


 他の部屋の住民が活動を開始するには、まだ早すぎるとは思うが、急がなければならない。


 ここを出て帰宅するまでの道中で、人とすれ違う可能性だってあるのだ。


 そう判断すると、バッグからデジカメを取り出して二、三枚、フラッシュを焚いて目の前の被写体を撮影する。


 それから荷物を全てバッグの中に戻して、あからさまな証拠を残していないかだけ確認。


 玄関のほうへと向かい、壁に掛かっている鍵を拝借する。


 最後に、外へ出る前に服を脱いで、用意しておいた別の衣装に着替えてから、着ていた衣類をバッグに押し込んだ。


 外の気配を窺い、安全を確かめてから扉を開け、廊下へと出る。そして、拝借したキーを鍵穴へ突き刺しておく。


 こうしておけば、そう遠くないうちに彼の遺体は発見されるはずだ。


 何食わぬ顔をしたまま廊下を進み、裏口から建物の外へと抜ける。


 先ほどよりも冷たく感じられる風を受けながら、素早くマスクと眼鏡を付ける。


 腕時計の短針は、もう午前三時を回っているものの、夜更ししている人間の部屋には、まだ明かりが点いている。


 こんなところで目撃されてしまっては、間抜けもいいところだ。


 さっさと、この場を離れよう。


 見頃の終わりが近づいてきた秋桜の脇を通り抜けながら、月が出ていなかったのは、今となっては幸運だと微笑む。


 明日は日曜日、休日である。


 秋の夜風に当たって、この興奮が冷めぬ間に作品の手を進めよう。


 アパートからだいぶ距離が出来てから、ふと、何でもなく振り返って建物の方向を眺めた。


 視線は、先ほどまで自分がいた部屋ではなく、その隣の真っ暗な部屋に向けられている。


 彼女のあどけない表情が脳裏に蘇り、かすかに眉をしかめる。


 まさか、あんなところに住んでいたとは。


 不幸にも、この一件に巻き込まれないといいのだが…。


 遠くの方で、また踏切の音が聞こえている…。


 赤い光が、左、右、左、右とめまぐるしく明滅している情景が浮かぶ。


 点いては消えて、点いては消えてを繰り返す。


 リィンカーネーションの光だ。

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