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やがて、冬の雪がとけたら  作者: null
四章 死の献花

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月の無い夜と、アーティスト 1

この章より、空気感が変わるかと思います。


苦手な方、冗長な表現を好まない方もおられるでしょうが、

よろしければ、お付き合いくださいね。

 虫の音さえも聞こえないほどに、何もかもが暗闇に塗りつぶされそうな夜だった。


 月の光さえ通さぬ、分厚い雲のカーテンが夜空の大部分を覆って、星々の瞬きもろとも静けさの奥へと押し込んでいる。


 夜鳥の低いさえずりがどこかから聞こえてきて、私の耳朶に吸い込まれる。


 もう十一月が目の前に迫っていて、秋の真ん中に、ぽつんと死んだように眠っている寒い夜だった。


 急に冷えたことで、体もまだ追いついていないのか、口から溢れる呼気は白く、四肢はかすかに震えていた。


 この程度の気温で震えていては、真冬になったとき、凍りついて動けなくなってしまいそうだ。


 もう何度か通った住宅街を、遠くの一点を見つめながら進んでいく。


 途切れ途切れに連なっている塀を横目に、冷たい夜気を胸いっぱいに吸い込む。


 少しずつ、少しずつ自分の頭の中を切り替えていく。


 冷え切っているはずの指先が、徐々に熱を帯びていくのを感じながら、

 頬を切る風に細めていた目を、暗闇のベールの向こう側を見透かすため見開きながら、

 一歩、一歩、踏みしめるように、あるいは踏みにじるように地を蹴った。


 街灯の光が、コンクリートに映る人影を、夜の闇に同化させようと明滅している。


 切れかけの電球に命の終わりを連想してしまうのは、今から自分がしようとしていることに、感情が引きずられているからだろうか。


 住宅街を抜け、ついにまともな明かりもない街の端に到着した。


 絶海の孤島のように取り残されたアパートが、単身田んぼと隣り合わせで建てられている。


 その影をぼんやりと浮き彫りにする、無意味としか思えない信号の光。


 心を落ち着かせるためにも、ナンセンスとは思いつつ、赤くなった歩行者信号を前に足を止める。


 顔の半分が、不気味な赤で染まった。


 そうして呼吸を整えながら、ゆっくりと目蓋を下ろし周囲の音に耳を澄ませた。


 すると、今まで気が付かなかった虫の声や、遠くの大通りを通る車の音、踏切の警報機の音が耳に届いた。


 意識をしていないだけで、確かにそこにある。

 きっと、音だけじゃない。


 香り、景色、色…。


 思い出せないだけで、

 見えないだけで、

 知らないだけで…。


 自分の中から無意識の内に弾き出された数多の何かが、この世の中にはひしめいている。


 光に忘れ去られた深い海の底、

 ありもしない世界の果てを思わせる、高く美しい峰。

 遠いどこかで起こっている戦争と、死ぬほどの空腹。

 昔家族で行った、錆びついた遊園地と、今や跡形もない夕暮れの公園。


 死んでいい人間と、それを決める人間。

 何かに怯えて、大事なものを、大事だと胸を張って言えない人間。


 本当は、全ての人が心を澄ませる必要がある。


 だが、今の私たち人類にはそれが出来ない、出来るはずもない。


 数世紀前に、人間の進化は止まったのだ。


 人間はそれが出来る数少ない生き物だと、他人を踏み台にして、高みへと登った連中が口を揃えて言う。


 それが神聖なものか、邪悪なものかは、誰にも分からないままでいる。


 高みを目指し、努力しろと人は言う。

 みんなを平等に扱い、助け合うべきだと人は言う。


 誰も彼もが自分勝手だ。

 それはもちろん、私も例外ではない。


 横断歩道の歩行者信号から、妖しい青の光が放出される。

 再び足を前へと進めて、目的地に到達する。


 オートロックの扉の前に立ち、鍵をかざして、そこを何食わぬ顔で抜ける。

 檻のように並んだ格子の向こうに広がる田園を横目にしながら、迷いなく体を動かし続ける。


 連続する鎖の輪のように、全く同様のデザインをした扉の数を無意識に数えながら、奥から三番目の部屋の前に立って、もう一度周囲に気を配った。


 近くには誰もいない。


 他の部屋から人が出てくる様子もないと確信してから、その場にしゃがみ込む。


 持ってきていたシンプルな黒のバッグから、ピックガンを取り出す。

 その先端を差し込み、十数秒間作業に集中した。


 わずかな手応えの後、もう一度だけ周囲を見渡し、安全を確認してから扉に手を掛ける。

 当然、手袋は装着済みだ。


 解錠自体は成功したのだが、想像していた以上に扉は重く、力を込めて引かなければならなかった。


 部屋の電気が一切点いていないのを確認すると、音を立てず、蛇のように隙間から室内へと侵入した。


 玄関の壁には拙いキーボックスが掛けられており、風を受けて鍵が音を出した。


 自分以外の気配を確かに感じつつも、靴を履いたまま中に上がる。


 息を潜め、暗闇に目が慣れるまでその場を微動だにせず、バッグを置いて待機する。


 そうして、静寂を身に染み込ませるようにしゃがんでいたのだが、そのうち薄闇の中を這うように動き始めた。


 ほんの小さな足音さえもやけに大きく聞こえ、研ぎ澄まされた神経がかすかに脈動する。

 ただ、凪のような冷静さは保っていた。


 過剰な緊張感は感覚を鈍らせ、暗闇とシナジーを発揮し、間違った選択や幻覚・幻聴を引き起こしてしまう。


 聞こえもしない、見えもしないものに邪魔はさせない。


 スライド式のドアに手をかけて近づき、耳をそばだてて中の様子を窺う。どうやら、住人は熟睡しているようで、物音一つ立てていない。


 腰に巻いたベルトに手を伸ばして、道具の位置を確認する。


 大丈夫だ、何もかもが普段と同じで変わらない。


 脈拍、視覚、聴覚、嗅覚、道具の位置…。

 全てが計算されたままだ。


 ただ…、一つだけ違うことがある。


 壁の向こうの部屋のことを思い浮かべる。しかし、すぐに目を閉じて気持ちを切り替えた。


 今は、目の前の仕事に注力しよう。


 扉を開けて、低い姿勢のまま、床に散らかっている物に触れぬように気をつけて進む。


 汁が残ったカップ麺の空が、いくつか放置されており、嫌な臭いが漂っていた。


 お世辞にも過ごしやすいとはいえない環境の中でも、自分の集中は申し分なく保たれている。


 部屋の隅に置いてあるベッドの中心に、緩やかな丘が出来ている。その中腹が規則的に上下すると共に、寝息が聞こえてくる。


 彼にとっては、普段と変わらない安らかな夜なのだろう。


 そんな安寧の中で逝ける彼を、少しだけ羨ましく思う。


 すり足で極力気配を消して近づき、誰に邪魔されるでもないのに、逸りだした気持ちを抑えて、腰に手を据える。


 この瞬間だけは、どうにも慣れない。

 きっと、一生そのままなのだろう。


 もう、両の手では足らないほどに味わって来た。

 その何百倍といった数のシミュレーションを、頭の中で絶えず思い描いてきた。


 いや、それでは語弊がある。

 自分が想像してきたのは、この後の光景なのだから。


 熱り立つ血潮はひたすらに体内を蹂躙し、その時を急かす。

 それなのに、自分の両目と繋がっている脳の大部分は、その一瞬を正確に焼き付けるため、じっくりと鑑賞することを望んでいるから困ったものだ。


 少し体を前に倒せば、顔が覗けるというところまで来て、腰のベルトに当てていた手をゆっくりと、自分の正面へとスライドさせる。


 今日が月夜の晩でないことが、悔やまれる。


 月明かりが、白刃に反射される様を見ていると、独特の恍惚を生まれる。

 それが、この後の創作に向けたイマジネーションを加速させるのだが…。こればかりは仕方がない。


 持ち手をしっかりと、しかし、必要最低限の遊びを保たせた状態で握り締める。

 しゃがんでいた姿勢を元に戻し、男のぼんやりとした影を捉え直す。


 とても生気があるとは言い難く、病的なまでに細く白い。不健康、という言葉がしっくりくる男であった。


 写真で抱いた印象通り、楽しく人生を謳歌しているとは思えない顔つきだった。


 だからこそ、あんなくだらない真似をして、他人の怒りを買うのだろうが。


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