だって、自分のことも分からないから。 1
三章が始まります。
彼女らの秘密が語られるのは、もう少し先となります。
この章では、比較的和やかな雰囲気が続きますので、
よろしくお願いします!
「良かったわね」とずっと黙って本を読んでいた綺羅星が、唐突に口を開いてそう告げた。
何の脈絡もなく発せられたその言葉を、冬原は小さく「はい?」と聞き返した。
「名前、呼んでもらったじゃない」
「誰がですか?」
「誰って…。貴方以外、誰がいるというの」
「え、だ、誰にですか?」と冬原が、脳機能を枯渇させた問いを彼女に繰り返していたものだから、綺羅星は、緑灰色の瞳を眩しそうに細め、目の前の冬原を凝視した。
「あのね、そんなの柊に決まっているでしょう」
「え?ど、どういうことですか」
「私の尊敬する作家の言葉に、こういうものがあるわ」
綺羅星は、一度咳払いを挟んだ後、仰々しく片手を伸ばして、差し伸べるように掌を開くと、堂々たる笑顔で続ける。
「『質問は、その人の質を問うものだ』とね」
なるほど、つまり、『馬鹿な質問をするな、この馬鹿』と言われているのか。
冬原は、釈然としない気持ちになった。
そもそも、その構えは何だ。ライブ会場にでもいるアイドルか。
そんな文句の一つでも与えてやりたくなったものの、以前のように腕を強く掴まれてはたまらない、と思い直す。
きっとその作者が大好きなのだろう。
彼女はうっとりした顔つきのまま虚空を見つめていたのだが、冬原が興味なさげに、「そ、そうですか」と答えたため、不満げな様子のまま、再び本へと意識を戻した。
「あ、あの、待ってください、先ほどの話は…」
「知らないわ。ご自分で考えることね」
どうやら作家について語りたかったらしい彼女は、口元を真一文字にして黙ると、その後しばらくの間、口を聞いてくれなかった。
資料室の開け放たれた窓からは、秋の心地よい風が吹き抜けて来ていた。
人工の風とは全く違う、季節の匂いが薫る、優しい風だ。
清々しい秋晴れの広がっている中庭からは、ブラスバンドの金管楽器の音色が悠然と木霊してくる。
他にも、帰宅中であろう生徒たちの穏やかな笑い声や、悲鳴じみたふざけた叫び声も聞こえていた。
古い資料の臭いがロッカーの隙間から漂って来て、それが逆に落ち着く。
久しぶりに和やかで、静かな放課後だった。
柊のいない夕刻はいつぶりだろうか。
叩かれることも、罵られることもない。
万事上手く行っている、というにはちょっと惨め過ぎるが、少なくとも数週間前よりもマシだった。
冬原は、窓の向こうから聞こえてくる呼び声に誘われるかのように、のっそりとした足取りで窓に近寄った。
眼下に敷かれた景色は、自分が思っていたよりも閑散としていて、幸せそうに下校している人間よりも、機械のように黙々と足を進めている人間のほうが多かった。
誰も彼も首を折って、手の中の携帯に心を奪われているようだ。
こんなものか、と冬原は、かすかに眉をしぼませた。
結局、本や映画で繰り広げられる青春物語を送っている人間など、ほんの一握りに過ぎないのだろう。
大概の人々が、妥協して出来たそれなりの日々に、満足なフリをしているに違いない。
明日は、もう少しマシな一日になっていることを願いながら、心のどこかで、それが叶わぬことを知っている。
自分はどうだろうか。
充実している…はずはないか。
柊と二人でいた時間。
そして、綺羅星と柊と、三人でいる時間。
それから、綺羅星だけといる時間。
確かに様々なことが変わったはずなのに、心はその変化に追いつけず、未だ自分のことさえ理解できずにいる。それに苛立ちを覚えた。
何故私たちは、自分自身のことさえ制御できないのか。
自分の意志で動かしていると信じている、心と身体。
それなのに、容易く暴走して、自らの人生設計を狂わせる。
寂しいのか、腹が立つのか、苦しいのか、愛おしいのか。
鬱陶しいのか、赦しているのか、楽しいのか、憎いのか。
何もかも分からなくなって、
自信を持って、自分はこれだ、と指差せなくなったのは、いつからだったか。
その瞬間、脳裏に母の声が、蓋をした箱の中から響いてきて、思わず顔をしかめる。
一刻も早く私との会話を打ち切りたそうに、ドアの隙間から顔だけ覗かせ、私を送り出した母の姿と声が、次第にはっきりと輪郭を帯びてくる。
その口から放たれる言葉が私を斬りつける前に、早急に意識を遮断して、眠りの向こうに広がる虚無へと逃げ込みたかった。
だが、当然ベッドもなければ、機械のような緊急停止ボタンも、私の背中には付いていない。
駄目だ、と忌々しいあの唇が蠢くさまを、呆然と見つめるだけの私へ、鈴のような声が反響した。
「冬原さん」
「…え、ん、な、なに?」
「…どうかしたのかしら、顔真っ青よ」
「う、ん、大丈夫」
「それならいいけれど、今にも窓から飛び降りるのではないかと思えるぐらい、切迫した様子だったから」と冗談じみた口調で短く笑う。
「…はは…しないよ、そんなもったいないこと」
「え?」
しまった、と冬原は唇を噛み締め、逃げるように視線を宙空に漂わせる。
今の言葉は普通ではない、な。
もったいない、ではなくて、危ないとか、怖いとか…。
それが普通か。




