ブラックコーヒーとカフェオレ 3
柊のその姿が、目に焼き付いて離れそうにもない。
冬原は、胸の奥で唸る、今にも暴れだしてしまいそうな奇妙な感情に、頭の中をかき乱されていた。
怒りに近い感覚が彼女らに対して湧き出る。
綺羅星亜莉栖という人間がしでかしたことが、許し難かった。
「そんな目で見ないで欲しいわ、冬原さん」
綺羅星がそう口にしたことで、自分が刺すような視線を相手に向けていたことに気がついた。
自分らしくないと分かっていながら、気持ちが抑えきれず、続く言葉を発するために呼吸を整える。
部屋の外からは、放課後を送る生徒たちの声が、青春の讃歌のように響き、風と共に室内へと運ばれてきていた。
制服は未だに夏用のままだったので、やはり少しだけ肌寒い。
そろそろ中間服に変えて登校したほうが、体調を崩さずに済みそうだ。
「…本当に、な、何が目的ですか」
「だから、それを知ってどうするの」
「どうって…その…」
「私、意味のないことはしない主義なの」と興味が無さそうに無機質な口調だ。
「…そ、そんなもの、私だって同じです」
あまりに無愛想な物言いに、ついふくれ面になって冬原は反論した。
肩までで切り揃えられた短い黒髪が、風に乗って左右にたゆたう。
それを目で追っていた綺羅星は、猫のように丸く大きな瞳を輝かせて、その光を冬原の瞳に反射させる。
「意外ね、彼女には従順なくせして」
「だ、だって、貴方が柊さんをお、怒らせたら、私がもっと酷い目に遭うんです…。もしも、中途半端な正義感を振りかざしているつもりならば、や、止めて下さい…」
「ふふ、正義感ねぇ?」綺羅星は、口元に手を当てて上品に笑う。「全く良く喋る…」
途端に歪んだ微笑みを浮かべた綺羅星は、組んでいた腕を解き、冬原の二の腕をぎゅっと強く掴んだ。
あまりに急で、しかも、綺羅星の見た目からは想像もできない力で、彼女の指が自分の腕の肉に食い込んでいく。
「い、痛い…!」
「え、何かしら?聞こえなかったわ」
「離して、痛い!」
「ごめんなさい、私、正義感って言葉嫌いだから、ついつい力が入っちゃったわ」
悪びれない微笑をたたえた綺羅星は、冬原に顔を近づけた。
そして、彼女に警告するように一言、一言区切りながら、スローペースでそう口にした。
近距離で覗いた綺羅星の瞳からは、暴力的な輝きが感じられる。
その間も、力こそ緩んだものの、掌は自分の腕を掴んだままだ。
有無を言わさぬ態度に怯みつつも、冬原はおずおずと相手を見返していた。
「とにかく、別に悪いようにはしないから、二人と一緒にいさせてほしいのよ」
「そんな言われ方されたら、よ、余計に理由が気になると、思うんですけど」
久しぶりにこんなに喋っている、と冬原はどうでもいいことを考えた。
綺羅星は、これ以上話すつもりはないといった様子で、掴んでいた冬原の腕から手を離し、何事もなかったかのように、本へと視線を落とした。
本当に勝手気ままな人だ、と鈍い痛みが残る二の腕をさする。
青痣が出来てしまっていた。
どおりで痛かったわけだ。
冬原は、綺羅星の真っ白な彫刻のように美しい、洗練された掌を一瞥した。
一体どこにあんな力があるのかと、不思議でならない。
冬原は、目を閉じてため息を吐く。
どんなに自分や柊が、綺羅星の同席も嫌がったとしても、彼女の手の内に柊を脅かす情報がある以上、その提案を断ることはできない。
いくら柊の信頼が厚いとはいえ、嘘を吐く理由が皆無である転校生の告発が看過されるとは思えない。
今分かっているのは、彼女は自分を救ってくれる英雄ではないということである。
何の目的があって自分たちのそばにいるのか、皆目見当がつかない。
その後、黙って二人で本を読みながら時間を潰していると、十分程が過ぎてようやく柊が戻ってきた。
涼しい顔をして無言で入ってきた柊は、自分の飲みかけであろうカフェオレを一本、未開封の同じものが一本、さらにブラックコーヒーを抱えていた。
何だか普段使い走りにされている身としては複雑な気持ちだ。
どうやら飲み物は、数から考えて自分と綺羅星の分だということは明白である。
「これ、良かったら」と綺羅星に差し出したのはブラックコーヒーで、彼女はそれを受け取ると不思議そうな顔をして、「なぜ?」と短く尋ねる。
「これからは、貴方とも仲良くせざるを得ないと判断しました」
突然機械的な喋り方を始めた柊は、目をつむると、立ったままの状態で綺羅星の方へ向きなおる。
気力をいくらか取り戻したような柊の表情に、冬原は不思議とほっと胸をなでおろす。
未だ柊の片手に握られている飲み物を見て、自分もブラックコーヒーが良かったなぁ、と呑気に考えていた。
「もちろん、こっちはアンタと本心で仲良くするつもりはないから。アンタが私を脅そうが脅すまいが、理由もまともに話さない間は、絶対信用しない」
強く言い放った彼女は、カフェオレを威嚇するようにテーブルにドンと置いた。
おそらくそれは、私のものとなるはずだ。
もう少し、丁寧に扱ってほしいものだ。
綺羅星はその啖呵を耳にすると、不敵に口元を歪めた。それから、小さく頷くと、また黙り込んで、本を読み始めた。
彼女が納得したのかどうかは別として、二人の間には、ある種の妥協的関係が構築されたようである。
ただ、冬原は二人だけで完結したやり取りに些か不満を覚えた。
しかしながら、すぐさま彼女の注意は、机の上に墓標のように立てられたカフェオレの缶に釘付けになる。
ついつい、綺羅星のブラックコーヒーと何度か見比べてしまう。
彼女の白い指がプルタブに掛かる。
空気の抜ける小気味の良い音がなってから、飲み口が、綺羅星の艷やかな唇へと吸い込まれる。
火の明かりに虫が引き寄せられるように、彼女の口元へと視線が動く。
思わず、喉が鳴ってしまいそうな、不可解な緊張感を胸に抱きながら、そのときを待っていた。