ブラックコーヒーとカフェオレ 2
それから無言の時間が流れて、二人は各々やりたいことを始めた。
現代文の宿題プリントを広げた柊に、こんこんと、冬原の知らない題名の本を読み耽っている綺羅星。
そんな光景を上目遣いでこっそりと観察する冬原は、一体、今は何の時間なのだろうか、よく分からない時間の使い方をするのであれば帰らせて欲しいと、肩を落としていた。
そうして、数分ほど固まっているうちに、仕方がなく自分も読書を始めることにした。
借りていた本を開き、鉄でできた細長いブックマーカーを抜き取る。
先端が下向きに湾曲したデザインの栞の先に、雪の結晶を象った飾りが付いている。
それがゆらゆらと小さく揺れるのを見るのが、冬原は好きだった。
しかし、彼女がやっと数ページほどめくったところで、唐突に隣の綺羅星が、視線は本に落としたままで透明感のある声を上げた。
「私のことは気にせず、始めて構わないわよ」
何の話をしているのか分からず、二人は互いの顔を見合わせた。
綺羅星が続けて、「別に誰にも言わないわ」と呟いたことで、事情を察し、冬原は怪訝に眉をしかめた。
彼女は、ここで柊に自分を叩けとでも言うのか…。
誇張なしで、意図が一切読めない。
冬原は絶句したまま、綺羅星に視線を移す。
少し遅れて言葉の意味が理解できたらしい柊は、呆れたように鼻を鳴らし、両手で頬杖をついた。
「馬鹿じゃないの、そんな手には乗らないわよ。アンタがいつ周りに漏らすか、分かったものじゃないし」
「密告するくらいなら、昨日のうちにしていると思わないのかしら?」
「…とにかく、アンタの思い通りには動かないから」と柊が強い口調で言い切る。
綺羅星は、じっと相手の瞳を見据えたままでいたかと思うと、一つだけため息を漏らして、再び黙り込んだ。
そもそも、彼女の目的が分からない。
あんなことを口走った以上、決して自分を助けよう、などといった善良な心遣いではないことは明瞭だ。
しかし、だからといって柊を脅すわけでもなく、今も一人で読書に熱中しているようだから、いよいよ分からない。
どんな理由があれば、今大注目を浴びている転校生が、奇妙な暴力関係で繋がっている二人の間に割り込んでくるのだろうか…。
興味本位にしては、どう見ても彼女は淡白に感じられる。
勝手にどうぞ、というスタイルが全身から滲み出ているのだ。
冬原はそんな彼女の不気味さや、ある種の神秘性とも呼べる一面を覗いて、思わず口を開いて声を発してしまう。
「あの…」
「どちらに声をかけているの?」と冷徹な口調で綺羅星が言う。
「き、らぼしさんです」
「はい、どうぞ?」
「い、一体、何が目的なんですか…?」
同級生なのに、ついつい敬語が出てしまう。
ただ、それはとても自然なことに思えた。
彼女の容姿と、沈着な雰囲気は、やはり同年代には見えない。
「それを知ってどうするの」
「え、いや…、その」
「冬原の言う通りよ、アンタ何が目的なのよ」
柊も同じことを考えていたのか、怯んだ冬原の代わりに言葉を続ける。
「私の行動を誰かに言うわけでもなく、かといって距離を置くわけでもない。わざわざ二人の間に割り込むような真似をして…。これが不自然じゃなくてなんなのよ」
「割り込む、ねぇ?」
「…いいから、答えなさいよ」
「そうね…」
わざとらしく考え込む素振りをした綺羅星は、人差し指を頬の横に添えてから、「お友達になりたい、では駄目かしら」と真面目なトーンで言った。
「いつまでふざけてんの…。そんなの誰が信用するのよ」
「どうして貴方の信用が必要なの?」
「はぁ?アンタ友達いないでしょ、友達っていうのはね、互いに信頼している人間関係のことを言うのよ」
「貴方がそれを語るのは、何だか滑稽ね」
「何が言いたいのよ」
綺羅星は背もたれに深くなだれかかると、腕組みをして、柊を値踏みするような眼差しを向けてから、ゆっくりと目蓋を閉じた。
「私が見た限り、貴方は誰も信頼していない。裏を返せば、他人に興味もなければ、必要ともしていない。貴方にも…友達なんていない。そうでしょう?」
冬原は、今回も綺羅星の言いたいことが全く分からなかった。
転校してきて日が浅い彼女は、まだ柊蝶華という人間のことが正しく理解できていないのだろう。
そうでなければ、多くの人間に声をかけられている柊を目の当たりにして、あんなことが言えるとは思えない。
綺羅星の的外れな指摘に柊は、数秒口を閉ざして真っすぐ目の前の人物と相対していた。それから、ふっと息を漏らすと小馬鹿にするように声を高くした。
「その綺麗な目は、節穴なの?」
「…だから、冬原さんは手放したくないのね」
時間が、一瞬だけ止まった。
自分が突然、異言語社会に突き落とされたような錯覚を覚えて、冬原は何度か瞬きを繰り返した。
冬原は、理由は自分でも分からなかったが、柊に今の言葉を強く否定してほしかった。
そんなわけがない、こんな人間に興味はない、と。
そう毅然と、答えてほしかった。
そんな冬原の願いとは裏腹に、柊は徐々に顔を青くしながら、口と目を開けて綺羅星のほうを見つめた。
先ほどまでの睨みつけるような視線は跡形もなくなり、今では驚愕と、かすかな恐れに染まってしまっていた。
しかし、少しずつ冷静さを取り戻しつつあったらしい彼女は、綺羅星に反論するよりも早く、首だけでこちらを振り向いた。
ただ、そこには顔色を窺う卑屈さのようなものが明け透けになっていて、普段の傲慢で誇り高い、柊蝶華の気配は微塵も感じられなかった。
彼女は私と目が合うや否や、顔を背け、「ちょっと飲み物買ってくるわ」と言ったきり外へと出ていってしまった。