ブラックコーヒーとカフェオレ 1
来てほしくない放課後がやってきてしまった。
何も言わずに逃げてしまおうか、とも考えたのだが…。
冬原が動き出すよりも早く、柊が机の隣に立って、「行きましょう、冬原さん」と爽やかに逃げ場を塞いだことで、その夢も潰えてしまった。
ふと周囲を見渡すと、綺羅星の姿はなかった。
もしや、あんなに話をややこしくした癖に、勝手に帰ってしまったのだろうか。
それなら、たまったものではない。
せめて今日ぐらいは、柊から自分を守ってもらわなくては困る。
冬原がキョロキョロと教室を見渡していたからか、柊は彼女の言いたいことが理解できたようで、顎で小さく廊下のほうを指し示した。
彼女の促すままに教室の外を見ると、綺羅星がクラスメイトに話しかけられながらも、腕を組んで壁にもたれかかっていた。
「あれで待っているつもりかしら…」と柊は忌々しそうに呟いた。
語尾に『生意気ね』と、声にならない言葉がくっついているのが分かってしまう。
教室を後にすると、クラスメイトと話していた綺羅星は片手を振って二人に合図を送った。
それをきっかけにして、蜘蛛の子を散らすように級友たちが帰っていく。
やはり、綺羅星と友達になりたいと考えている人間は多いのだな、と他人事のようにして冬原は考えていた。
「それで、いつもどこで時間をつぶしているの?」
「案内するわ、綺羅星さん」
「まあ嬉しい」
綺羅星は、発言とは一転して、無感情な表情浮かべている。
教室が並んでいる廊下から離れて、職員室の前を通り過ぎた辺りから、明らかに柊の態度が豹変した。
「何のつもりなの」
「何って?」
「…とぼけるんじゃないわよ」
視線は正面の資料室の扉に向けられたまま、独り言のように柊は呟いている。
冬原を蹴っていたのを目撃されたので当たり前のことだが、綺羅星に対して柊は、もう優等生の仮面を被るつもりは毛頭ないらしい。
今までは冬原だけが目の当たりにしていた、柊の獰猛性を見せつけられても、綺羅星はつまらなさそうに無表情でいる。
燃え盛る紅蓮の炎のような気性の荒さを秘めている柊と、未だに神秘のベールの向こうから姿を見せない綺羅星は、冬原の中ではどこか対象的に映った。
まあどっちにしても、彼女の平穏を脅かすという意味では、似たりよったりではある。
綺羅星は、生徒とすれ違う度に声をかけられている柊を見て、感心したように、「人望があるのね」と言った。
その言葉を皮肉と捉えたらしい柊は、小さく舌打ちして資料室の鍵を開けた。
それに対し綺羅星は、「どうして鍵を持っているの?」と尋ねた。
それを無視して、柊は室内へと消えていった。どうせ、生徒会権限でも使っているのだろう、と冬原は睨んでいた。
彼女は中に入ると、いつものように机に向かって鞄を放り投げてから、椅子を引いてふてぶてしく腰をかけた。
教室にいるときとは別人としか思えないその態度に、冬原の隣に立っていた綺羅星は、ほんの少しだけ笑い声を漏らして、柊の正面の席に座った。
「ここなら誰も聞いてないわ、いい加減理由を喋りなさいよ」威圧的な顔で柊が尋ねる。
綺羅星は、一度だけゆっくり瞬きすると、魔力のこもった宝石のような瞳で、未だ立ったままの冬原へと視線を向けた。
「貴方は座らないの?」
その質問に、冬原は困ったように眼球を右往左往させた。しかし、最終的に許可を求めるため、伏せたまつ毛の間から柊を覗いた。
柊は不機嫌さを隠す様子もなく、「早く座って」と冬原に命じる。冬原は、一体どこに座れば良いのか分からず、挙動不審になっていた。
二人は呆れたように彼女を見つめると、「何をやっているの」とどちらからともなく言った。
仕方がなく綺羅星の隣へと移動し、椅子を引く。
以前、柊の隣に座ったときに、椅子を蹴り飛ばされたのがトラウマになってしまっていて、どうしてもあちらに座る勇気を持てなかった。
おずおずと座り込み、バッグを胸の前で抱くような姿勢を取る。
斜め前の柊の顔が、明らかに憤りに満ちたものへと変貌していて、怒らせてしまったのだろうか、と冬原はいっそう落ち着きを失う。
「何でそっちに座るのよ」
「ご、ごめん」
「いやさ、何でなのって、聞いてるの」
何で、と言われても困る。
どちらに座れとも命令されていないし、向こうに行ったら、蹴られるかもしれないではないか。
柊は、要領の得ない返事に苛立つように頬杖をついて、残りの手で机をトントンと規則的なリズムで叩いている。
すると、隣で本を取り出していた綺羅星が、不思議そうな口調で尋ねた。
「逆に、何でこちらでは駄目なのかしら」
壁の両側一面に広がった、資料を整理するために設置された事務機の味のないグレーが、彼女の無感情な表情にリンクするようだ。
沢山の資料をまとめるために仕切り板が何段も積み重なっていて、透明窓の向こうにはびっしりと隙間なく資料が詰め込まれている。
時折忘れてしまいそうになるが、ここは学校の資料が蔵書されている部屋であって、自分を追い詰めるための裁判所でもなければ、処刑場でもない。
それなのに、いつもこんな使われ方をしてしまっているのは、おかしな話である。
「何よ、文句あるの」
「そのやり方は、私には通じないわよ」
力押しで乗り切ろうとする柊を、冷淡な調子でさばく彼女は、依然として能面を着けたままで、つまらなさそうに目にかかった前髪を払った。
「何よ…」
「言えばいいのに、そんなワケの分からない女の隣ではなく、自分の隣に座れって」
「アンタ、本当に変な勘違いしないでもらっていい?私とコイツは――」
そこで柊は冬原を一瞥すると、どうしてか口を閉ざした。
「コイツは?」と先を促す。
私たちは何なのか、それは冬原も気になっていることではある。
普通に考えれば虐めっ子と虐められっ子なのだが、それだけでは説明がつかないものも確かにあった。
クラスでは空気のように扱われてきた自分を、唯一人扱いして話しかけるのは彼女だけだ。
きっと彼女がいないならば、それこそ自分はいてもいなくても変わらない人間へと戻るであろう。
それが幸せなのか不幸なのかは、今の私にはもう分からない。
こうなる前の自分のことなど忘れてしまった。
人間の全身を構成する六〇兆個の細胞が、二月あまりで全て入れ替わることで、私たちは毎夜毎夜少しずつ死んで、少しずつ生まれ変わっている。
そんな円環の輪を巡るうちに、全てが死んでしまう夜が来るのだ。
そのときの自分はどんな風に死ぬのだろう。
どんな風に、いなくなることが出来るのだろうか。
せめて、美しくありたい…あの人魚姫のように。
冬原が束の間の空想に浸っている間に、柊は誤魔化すように咳払いを一つした。
「アンタには関係ない」
綺羅星は、それをさも予測していたかのように間髪入れず、「そう」と答えて再びハードカバーの本へと視線を戻した。
そのやりとりを聞いていなかった冬原は、決定的な一言を聞き漏らしてしまった、と勘違いして右往左往していたのだが、鋭く柊に睨まれ、諦めて再び口を閉ざした。