騒がしい昼食 1
これからようやく、三人の時間が進み始めます。
周囲の騒がしさに対して、その中心にいる綺羅星は、氷のように冷静だった。
だが、昼休みに突如として彼女に話しかけられ、騒ぎの渦中で顔を赤くして座していた冬原は困惑気味だった。
昨日の今日で、綺羅星は本を読了してしまったらしい。
彼女は、いつものようにお弁当を食べる準備をしていた冬原の隣に腰を掛けると、無感情にそう言った。
しどろもどろになって答えられずにいる冬原を、じっと見つめていると、何を勘違いしたのか、綺羅星は苦笑いを浮かべた。
自分の借りていた本の表紙を、優しく撫でる。
「私、上巻は引っ越してくる前に読んでいたから。下巻だけ読んだのよ」
そうなんだ、と答えたかったのだが、残念なことに、喉に異物が張り付いてしまったかのように、全く声が出ない。
コンビニの弁当を冬原の机の上に広げた彼女は、目の前で手を合わせて、当然のようにランチを始めた。
真っ白な雪の上に、昨日見た紅葉が舞い降りている。
そんな妄想をさせた彼女の唇が静かに開いて、口内へと卵焼きが吸い込まれていく。
あんなに美しいギロチン台なら、卵焼きだって喜んで首を差し出したことだろう。
そんなワケの分からないことを考えながらも、冬原の瞳は綺羅星の唇に集中していた。
「聴いているのかしら」
「え…」と間抜けな声がこぼれる。
すると綺羅星は、呆れたように口元を歪めた。
「え、じゃないでしょう?ちゃんと私の話、聴いているのかしら?」
「あ、う、ごめんなさい…」
綺羅星から放たれる、ありとあらゆる万象に圧倒されながらも、何とか首だけは縦に動かした。
「私は謝れと言ったのではなくて、聴いているのかと尋ねたのだけど…」
綺羅星はその姿をじぃっと観察すると、無表情に戻りながら、「まあいいわ」と呟いた。
周囲の喧騒と、綺羅星の圧倒的存在感とで、未だに混乱している自分の思考。
冬原はもう、何が何だか分からなくなって顔を俯けた。
「冬原さん、食べないのかしら?」
駄目だ、言葉が出ない。
情けないことに、簡単な質問にすら自分は答えられずにいる。
この場から逃げ出すことばかりを考えてしまっていた。
そんな彼女を救済するというか、徹底的に追い詰めるというのかは、限りなく微妙な行為をしたのは、二人のお弁当の間に、自前の水筒を落とすように立てて置いた柊だった。
「あら、冬原さん羨ましい。綺羅星さん、良ければ私もご一緒していいかしら?」
「ええ、柊さんも是非」
「ありがとう」柊は満面の笑みで、近くの椅子に座った。「でも駄目よ?冬原さんは人見知りなのだから、急に話しかけたりしては困ってしまうわ」
「…どうして?彼女にだって口はあるわ。嫌なら嫌と言うのではないかしら」
「そ、それをきちんと言えない人だっているのだから…ね?」
「あぁ…優しいのね、柊さん。彼女のこと、よく知っているみたい」と強烈な皮肉を放る。
柊は、最後の一言に、ぴくりとこめかみを反応させた。
「同じクラスメイトだから」
微笑みながら綺羅星に応じた柊の目は、もちろん笑っていない。
「それだけだとは思えないのだけれど…?」
わざとらしく小声で呟く様子を、柊は無理やり無視する。
どうして柊まで、と心労が二倍になった冬原は、誰にも気づかれぬように肩を落としながら、上目遣いで柊の顔を一瞥する。
一瞬交差した視線は、彼女の研磨された刃のような眼光の前に、なす術もなく轟沈した。
柊も綺羅星も、我が物顔で話を進めているが、ここは私の机だ。
何をするにも、まずは私に許可を得てほしい。
などと口にすれば、放課後どのような目に遭わされるかは想像に難くない。
冬原は、従順なペットのように口を閉ざすことを決める。
周囲が注目する中、二人は黙々と弁当をつつき始めた。
外は穏やかな秋晴れだったのだが、冬原は顔を上げることもできずに、いつまで経っても、机の木目を見つめるしかなかった。
食べ物を口に運ぶ両人の所作は、とても洗練されたもので、育ちの良さを見る者に感じさせた。
コンスタントに手を動かしている彼女らは、すでに半分ほどを食べ終わっていた。一方で、自分はちまちまと食べ始めたところだった。
校内では数少ない自分の居場所だというのに…。
ようやく窓の向こうを眺めた冬原は、気晴らしに外の空気でも吸って、心を落ち着けようと施錠を外して窓を開けた。
ほんの少しだけ肌寒いものの、陰気になっていた自分の心を晴らすには、充分なまでに澄み渡った空気だ。
ほうっ、と一息吐く。
ここは、ビシッと言うべきときなのかもしれない。
無謀な勇気が胸にむくむくと湧き上がってきて、キッ、と目に力を込めて二人のほうへ向ける。
「どうしたの、冬原さん。寒くはないのかしら?」
言外に、閉めろ、と伝えてくる柊からさっと反射的に目を逸らしてしまう。
駄目だ、私はやはり負け犬根性が染み付いている。
もう片方の綺羅星へと目を向けると、彼女はほんのかすかに口元を歪めた。
「いいじゃない、秋の風は気持ちがいいわ」
「…そうかしら」と柊がぼやく。
「冬原さんも好きなの?」と綺羅星が言う。
特段、好きでも嫌いでもない冬原は、何と答えるべきか迷っていた。だが、秋と聞いて昨日の紅葉の絵を思い出し、頭を縦に振る。
綺羅星は表情を変えないままで、「そう」と呟いた。
それから、彼方に響いている音を聴こうとしているかのように目を閉じ、今にも消えそうな声を発する。
「春夏秋冬、いつが好きかしら?」
「え…その、ふ、冬かな」
自分の名字に入ってるし。
綺羅星は、「私もよ」と呟いた後、間を置いて、「本の事といい、私たち、気が合うのかもしれないわね」と意味ありげに微笑んでみせた。
その台詞は、体の奥底まで届くように鼓膜と空気を震わせた。冬原自身の指先さえも、小刻みに微動させる。
「は、はい…」
「嬉しいわ、転校してすぐに、気の合う友達に恵まれるなんて」
「と、友達…?」
気は確かだろうか、と首を傾げていると、机の下で柊に太ももをつままれて、危うく飛び上がるところだった。
ちらりと柊を一瞥すると、彼女は満面の笑みのままで、もう一度太ももをつねった。
これは、余計な真似をするな、ということであろう。
もしも、そう、もしものことだが、自分が誰かと交流を持つようなことになれば、柊はストレス発散の相手を失うことになるのだ。
これ以上、太ももをつねられては、悲鳴が出そうだったので、仕方がなく彼女の意に沿う言葉を告げる。
「いや、そのぉ、綺羅星さんと友達なんて、自分の身の丈にあ、合わないと思いますけど…」
卑屈がすぎるが、本音でもある。
「あら、どうしてそう思うの?」
「どうしてって…」無意識に、柊を見そうになるが、相変わらず太ももに置かれたままの柊の手に力がこもり、慌てて答える。「き、綺羅星さん、綺麗すぎて、目立ちますから…」
ぎゅっ、とつねられ、太ももが反射的に動く。机を膝蹴りしなかっただけ良くやったほうだ。
一体、何と言うのが正解だったのか…。
「まぁ、嬉しい」と綺羅星が両手を頬の横で重ねる。
とてもではないが、女子高生がする喜び方じゃない。
でも、と前置きして綺羅星は尋ねた。
「冬原さんは、どうやら友達の作り方を知らないみたいね」
「う…」
事実だが、お前に言われたくない。
「そ、そういうのは、冬原さんのスピードで――」
「友達って、どうやってなるものか教えてあげましょうか?」
綺羅星に無視された柊は、ぴくりと青筋を立てて口を閉ざした。
自分の身の振り方が分からなくて、きょろきょろと彼女らの顔を見比べる。すると、綺羅星は冬原の言葉を待たずに声を発した。
「貴方が私を友だと思い、そして私が貴方を友だと思う」ふわり、と微笑む。「それだけよ?」