月下の人魚姫 2
我ながら殺風景な玄関とキッチンだ。そこを通り抜けて、部屋を出るまで着用していたパジャマに着替える。
落ち着いたシックな黒のデザインを個人的には気に入っており、お世辞にも明るいとは言えない自分に似合っていると、自嘲するのではなく本気で思っていた。
買ってきたアイスの袋を手早く破り捨て、アイスにかじりつく。
氷菓の冷気は、秋夜の空気にあてられた身体をいっそう震わせたのだが、冬原の中の感情をリセットするには、ちょうどいい刺激であった。
続けて缶コーヒーを開ける準備をしながら、ネット通販で頼んでいた小袋を、電源の入っていない炬燵の上まで軽やかに運ぶ。それから、飛び込むように座椅子に腰を下ろした。
わざわざアイスや珈琲を買ってきたのは、この至福のひとときを、より素晴らしいものへと昇華させるためにほかならなかった。
アイスによって甘さ一杯になった口の中を、ブラックコーヒーの深い苦味が通り抜けていく。
いつもより苦味が強く感じられたその味わいは、冬原の脳をゆるりと覚醒させていく。
これから始まるお楽しみへの準備は、万端といったところか。
小袋を丁寧な手付きで開封していく。
袋から出てきたのは、大判サイズの画集だ。
いつもは陰々滅々とした光を丸い目に宿している冬原であったが、その画集を手にしたときの彼女は、まるで別人のようであった。
童女のように無邪気な笑顔を浮かべ、せかせかと、しかし、初めの一ページは特別だと言わんばかりに、丁寧に表紙をめくる。
画集の大まかな説明文と共に描かれた最初の一枚は、紅葉がテーマになった色鮮やかな配色のものだった。
赤、黄色、朱、赤、紅、橙、黄、赤。
色彩豊かな花びら。最早、何の花びらかは分からない。
その中に、大輪の赤い華が咲いている。
その森の中には、太陽もなく、月もない。
朝も夜も、共に眠っているようだ。
初めて同じ床につく二人の神秘性を描くように、森には光も闇もない。
その絵画を見て冬原は思わず息を呑み、頬を上気させた。
今、彼女がある種の興奮状態にいるということは、誰の目から見ても明白だ。
こういった画集は、本来手にすることが難しい類のものだ。
冬原は、古本屋を巡ったり、ネットオークションを見たり、フリマアプリを駆使したりして、可能な範囲で収集していた。
それもまた、日頃の彼女からは想像できないほどの行動力であったため、いかに彼女にとってこの趣味が大事か、容易に分かる。
落葉の中眠るように、あるいは、目覚める直前のように咲いている花を堪能する。それから、最初の一ページ目と変わらぬほどに丁寧な手付きで、次のページへと進む。
そうして一枚、また一枚とめくっていく。
画集の絵は千変万化の様相を呈して、冬原の目を楽しませた。
同時にコーヒーの中身が減っていく。
アイスなどは、すでに胃の中でドロドロだ。
微動だにしないカーテンが、何かをきっかけにかすかに揺らめいた。
隙間風か、他の何かが原因だったのか。とにかく、彼女の瞳には全くかすりもしない。
本の中の景色に夢中になって、その他の一切を自分の中から追い出していた彼女だったが、パタリと、突然電源が切れたかのように本をめくる手が止まった。
その視線は画集の最後のページに釘付けになっており、凍りついたかのように全く動かない。
吸い寄せられるというのは、このようなことを言うのかと、頭の隅でおぼろげに思う。
しぼんで波間にたゆたうゴムボート。
海の中に、ぽつんと一つだけ置き去りにされた岩礁。
その上を、青白い月光がスポットライトのように浮き彫りにする。
海の果てにあるステージ、そこに横たわっている人魚姫…。
自分がその絵に引き込まれたのは、見事なタッチや、シンプルかつ美麗な構図も当然あったのだが、それ以上に、人魚姫の美しく長い髪が原因だった。
鴉の羽毛のような黒い髪に、混ざり込んだ灰色の髪。
そしてこちらを見つめる、グレーの中に宿るグリーンの瞳。
彼女だ。
いや彼女のはずがない。
偶然、偶然だ。
しかし、月光に照らされた人魚姫の髪を、冬原は見たことがあった。
脳裏に、先ほど外で見た後ろ姿が蘇る。
目の前の岩礁に横たわる人魚と、ぴったりと重なった。
絵のモデルにでもなっていたのか?
いや、そんなはずがない。
こういった絵のモデルになんてなるはずがない。
開いたときと同じように緩慢な動作で画集を閉じると、冬原は深く空気を吸い込んだ。それから、肺に溜めた空気を全て放出するように深く息を吐く。
奇妙な感覚を覚えて、自分の掌に視線を落とす。それが小刻みに震えているのが分かって、思わず渇いた笑いがこぼれる。
自分は何を考えている。
彼女をこの絵に投影しているのか。
違う。
もしも、この絵のモデルが彼女だったならば、実際にその姿を見たいと願ってしまったのだ。
何という妄想をしてしまったのか。
冬原は激しく首を左右に振り、自分の頭の中に浮かんだものを打ち払う。
でも…もしも、彼女が本当にこの絵のモデルならば…。
私にも、そうした絵を描かせてくれるかもしれない。
描きたい、彼女の姿を。
いや、ダメだ。色々と問題はあるが、そもそもそれを確かめる術さえないのだ。
絵のモデルになったことがあるか尋ねてみる?
そこまで考えて、冬原はもう一度力なく身体を揺すって、自分の計画を否定した。
無理だ。私は、最低限のコミュニケーションすらまともに行えないのだ。それなのに、こんなにハードルの高い問いはできない。
もう一度だけ、最後のページを指でつまんで覗く。
美しい絵だ。
間違いなく、この画集で一番の作品だと断言できる。
作者が載っていないか調べるものの、この手の絵には、それが直接記入されていないことも珍しくはなく、例に漏れずこの一枚もそうだった。
今日はもう寝よう。
歯を磨いて、外界を恐れる小動物よろしく、さっさと布団の中に潜り込むのだ。
そうして夜を跨げば、今日の記憶も薄れるはずだ。
彼女に尋ねることなんて、出来るわけがない。するべきじゃない。結果は目に見えている。
自分を追い出すようにして、実家の玄関から見送った母の言葉を忘れたわけじゃない。
あんな思いは、もう二度と御免だ。
歯を磨く途中、鏡に映った自分の顔つきが真っ青で、まるで死んだ人間みたいだ、と意味もなくニヒルな笑みが漏れた。
いつもは爽快感を覚えるミントの香りが、今日は何だか不快に思えてならなかった。
ベッドに戻り、布団を蹴り上げ、隙間に身体を滑り込ませる。
早く意識を失って、眠りの淵に沈みたかった。
そうでなければ、忌々しい過去の記憶に苛まれてしまうからだ。
死体に近づくように何も考えられなくなって、動けなくなるのが待ち遠しかった。
眠るのが気持ちいいのは、きっと人間が、本来は死んでいる状態なのが自然だからだ。
死ぬのが怖い、というのが世間一般の認識なのに、それでもみんな毎日、死体同然に喜んで意識を手放しているのが何よりもの証拠だ。
明日また、いつもどおりに目覚める保証など、一体誰がしてくれる?
分かっている。
こんな考え方は…異常だ。
どうせ、周りはそう言う。
鳴り響く耳鳴りを遮るように、頭の横に両手をやる。でも、音はちっとも消えてはくれない。
必死になって目を強く閉じると、その永劫の暗闇を写したような目蓋の裏に、先ほどの絵画が蘇った。
優しく微笑む顔が、図書室で見た彼女のものになっていくのを、ぼんやりとした意識で眺めていると、いつの間にか穏やかな眠りに導かれていった。
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