月下の人魚姫 1
毎日更新していますが、
少しずつお読み頂けると光栄です。
冬原は、コンビニの明かりに寄せられる羽虫のように、ふらりと駐車場に足を踏み入れた。
この辺りに住んでいる人間の数を考えたら、あまりに過剰とも言えるサイズの駐車場だ。案の定、そこには3、4台の車しか停まっていない。
覗くつもりはなかったが、一台の車の中には、やたらと身体をくっつけているカップルの姿が視認できてしまって、逃げるように空を見上げる。
薄い雲が空の果てにどこまでも広がっている。
星の光も、月の光も、冬原の元には届かなかった。
だが、彼女の瞳の奥にはその輝きが映っていたのか、二つのオニキスが煌めいていた。
彼女は小さな虫の声を背にしながら、店内へと入った。
聞き慣れた自動ドアの開閉音。それを脳は認識しないままで、冬原の身体は飲み物コーナーへと導かれていく。
彼女は迷うことなく、ブラックの缶コーヒーを手にし、そのままアイスコーナーへと身を移す。
お気に入りのアイスを探す。
いつものパッケージではなかったため、少しだけ探すのに時間がかかったが、わずか十数秒普段より長かっただけだ。
二箇所あるレジのうちのどちらに並ぶかと顔を上げると、人のいないほうは、自分の苦手な店員だったことに気がついた。
冬原は、もう片方のレジの列に入った。しかし、妙な親切心を見せた件の男性店員が、「お待ちのお客様どうぞ」と声をかけてきたので、仕方なく移動する。
おずおずと商品を台の上に置いて、相手のマニュアル通りの問いかけに、惰性で頷く。
お釣りを受け取る際に、チラリと店員の顔を覗こうとする。それより先に、お釣りを渡してきた手が、彼女の手をぎゅっと覆った。
唐突で、不快なスキンシップに肌が粟立つ。
そのまま、袋をひったくるように受け取る。
脱兎のごとく、店を出た。
視界の隅に入った、長髪に隠れた店員の顔がどうにも生理的に受け付けられず、外に出た瞬間、大きく息を吐き出す。
何も、直に触れてこないでもいいではないか。
私が、もっと怖い顔をして相手を睨みつけられるような女であったならば、こんな嫌な思いをせずにすんだのかもしれない、と冬原は胸に手を当てたまま考えた。
強い女性像として浮かんだ柊の姿に、思わず笑みが零れる。
自分を蹴ったり叩いたり、罵ったりする人間のことを評価するようになったら、それはもう負け犬としては、プロフェッショナルを名乗ってもいい領域に達しているのではないだろうか。
駐車していた車の横を通り抜けたとき、まだ中では、カップルが仲睦まじく寄り添い合っていた。
あんなに他人と距離を縮めて時間を過ごすなんて、自分には考えられない。
他人の存在感は、基本的に自分を緊張させるだけなのを、彼女は自覚していた。
しかし、そこまで考えたとき、冬原の脳内には、今日の放課後の長いようで短いひとときのことが思い起こされていた。
そういえば、図書室の片隅で彼女に手を握られていたときは、不思議と振り払おうとか、嫌悪感とか、恐怖といったものは感じられなかった。
きっと、彼女から日頃受けている圧力や、暴力(というには少し過剰だが)の影響で、自然と柊に対して、反抗的な態度をとれないのだろう。
冬原は俯きがちな視線のまま、上の空で自分を納得させた。
ちっぽけな光を小径に落とす街灯に、羽虫がたかっている。
街灯を追い抜く。
自分の影に追い越されてしまう形になって、冬原は闇に影が溶け込むまでずっとその姿を追っていた。
そうして薄闇の中を無心に歩いていると、自分の住んでいるアパートの形がぼんやりと遠くに浮かんでくる。
ここ数年のうちに建てられた三階建ての鉄筋アパートで、オートロックが採用されているため、女性の自分でも安心だ、ということで母親に用意してもらった。
どうせ、そんなこと心配していなかったくせに。
今更当時の苦々しい感情が蘇ってしまい、ただでさえ薄暗い視界が、いっそう暗くなっていく。
そもそも、一階の部屋なのだから、大した防犯効果にはならないだろう。
徐々に建物の形が鮮明になっていく。
自分の頭の中は、次第に母親のことからアイスは溶けていないだろうか、という間抜けな心配事に切り替わっていた。切り替えた、といったほうが適切か。
申し訳程度にある横断歩道を越えようとしていると、急に強烈な風が吹いた。
冬原の肩まで伸びた黒髪が、風に煽られて舞い上がる。
彼女は反射的に目蓋をぎゅっと閉じて立ち止まった。
ようやく風が収まったところで、前髪を手櫛で整える。そして、再び自分のすみかへと歩き出したのだが、ふと、自分とは逆にアパートから遠ざかっていく背中に目が行った。
どこかで見たことのある後ろ姿だ…。
キラリと、その人物の長い髪が月光を反射して、闇夜の中でも、その鮮やかさを取り戻した。
(綺羅星さんだ)
確信は無かったが、自然とそう思えた。
雲に阻まれながらも降り注ぐ月の光と、図書室で感じた彼女のイメージが、異様なまでにマッチしてしまっていたからかもしれない。
冬原に本の交換を申し出た、綺羅星のミステリアスな微笑みが脳裏に蘇る。
どうしてだろう、頬が熱くなる。
別に好意を抱いているというわけではないけれど、やはり同じ女性として、例の二人は羨望の的だ。
その感情を口に出すことすら、躊躇するほどに。
この近くに住んでいるのかもしれないなぁ、とぼんやり考えながら、オートロックに鍵をかざして建物内へと足を踏み入れる。
そのままの足取りで、自分の部屋の前まで移動し、鍵穴に鍵を突っ込む。
入り口から二番目に遠い自分の部屋は、廊下を移動するだけでもちょっとした運動になる。
風の影響か、いつもよりさらに重く感じる扉を、自分の痩せた身体で体重をかけて、押し開けた。