夜風、歌う
今回より、二章が始まります。
いつもの地の文スタートですが、
よろしくお願いします!
嗅覚を刺激する不快な生ゴミの臭いが、室内に充満している。
残飯の処理でも怠っていたのだろう。
臭いは、キッチンのほうに行くほど酷くなっていく。
どうやら、ここの住人は掃除が苦手らしい。
それというのも、キッチンだけではなく、リビングのほうでも、弁当の空箱や、パンパンに詰まったコンビニ袋が散乱していたからだ。
よくもまあ、こんな劣悪な環境で暮らせるものだ、と苦笑してしまう。
建物の周囲は閑散とした住宅街と、田んぼしか広がっていなかった。
とても静かな環境である、という点だけは評価できる。
しかし、それゆえに部屋を飛び回る、無数の銀蝿の羽音が、鬱陶しいぐらいに耳につく。
そのうちの一匹が、すっと私の目の前のテーブルに止まった。
カサカサと無様に動き回り、手を擦り合わせる姿を目で追っていると、不意に、叩き潰したくなる衝動に駆られた。
だが、静かに呼吸を止めて、その欲望を抑え込む。
こんな取るに足らない小事のせいで、大事を損なっては元も子もない。
正直、この部屋の人間も蝿と同じで、小事に含まれる程度にしか考えていない。
しかし、別の楽しみができたばかりなのだ。
焦ってはならない。
自分は、大好物は最後に取っておくタイプなのだ。
この些事を片付けるのが数週間後か、一ヶ月後となるかは分からないが、今はただ待つだけだ。
窓の外では、深い月が爛々と青い輝きを放ち、室内を照らしていた。
ただ、そんな心もとない光などなくても、部屋の様子を隅々まで観察するのは容易かった。
まあこれもどうでもいいことだ。
今日はあくまで、下調べに来ただけである。
前情報通り、確かに住人は一人暮らしで間違いない。
他の人間との交流も、極めて薄い。それは、部屋の荒れた様子からも窺える。
少なくとも、家に上げるような親しい友人はいない。
夕方仕事に向かい、明け方帰ってくるのは既に確認済み。
念のため、実際に帰ってこないかの確認も含め、もうしばらく待つかと考える。だが、やはり今は、危険を冒すべきではないと考え直す。
ただ、常に安全策を打っていくというのは、短期的に考えると、一見正しいように感じられるが、将来的な視点で捉えるとデメリットが大きい。
研ぎ澄まされた能力は、使わずにいるとすぐに腐っていくものだ。
特に、一度のミスが重く響くような場合はなおさら。
夜の暗闇を見通せる視覚も、明るい陽の下で生きていれば、次第にその光が必要になる。
息を殺した呼吸でさえ聞き取る聴覚も、喧騒の中で過ごせば、細かい音は聞き分けられなくなる。
理想通りの軌道を描く、しなやかで強靭な指も、ろくでもないものばかり握っていれば、やがて、精密かつ大胆な動きをしなくなる。
私は、今の私を手放したくない。
手放せば、理想には届かなくなる。
求めていた瞬間が、遠ざかってしまうばかりだ。
それは、自分にとって死よりも重い絶望だった。
部屋の外では、秋の夜を声を上げて歓迎する虫たちのオーケストラが舞台公演の準備をしている。
きっともう何度か、太陽と月が入れ替われば、盛大な合奏を響かせてくれることだろう。
無駄な足音を立てないようにして、玄関口まで進む。
音漏れを防ぐためか、やたらと重厚だったドアにピタリとくっついて、覗き穴から外の様子を窺う。
いくら深夜とはいえど、外出しない、あるいは、外出していない住人ばかりだとは限らない。
もしも、自分の姿が誰かに見られれば、出歩くには奇妙な時間であることも相まって、容易に相手の記憶に残ってしまうだろう。
今は、大胆さよりも繊細さに天秤を傾けるべき時期だ。
はやる心にそう言い聞かせ、安全を確認してから私は表へと出た。
夜風が気持ち良い。
ふわりとなびく自前の長髪を片手で抑えつつ、廊下を進む。
天上を仰いで月を眺めようとしたものの、雲がかかって、その荘厳な姿を捉えることはできない。少しだけ残念だ。
星々も薄い雲に遮られてしまい、私の目には届かない。
アパートの側面を囲うように設置された花壇には、秋桜が均等の間隔で植えられており、色とりどりの花を咲かせている。
そのまま敷地から出ようとしたが、一際強い風が吹いて、秋桜の花が舞い上がったのをきっかけに、その花吹雪を目で追う。
月に叢雲、花に風…。
人の心を揺さぶるほど美しいモノというのは、本当に刹那的だ。
強烈な輝きであればあるほど、一瞬。
そして、そのややもすれば、見逃しそうになる絶佳な閃光を、心に刻みつけるため、私は息をしている。
その瞬間を得られない人生は、虚しい。
私はそうならない。
散る花は、必ず見届ける。
月に雲が忍び寄るより早く、見つけてみせる。
それが叶わぬのであれば…。
かかる雲は払い、花はこの手で散らすまでだ。
車も通らぬ小径を渡り、夜闇の隙間に紛れるようにして、私はその場から離れた。
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