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ある猿の記

作者: RiePnyoNaro

 私は生まれた時から、他の仲間とは少し違っていた。毛色が薄く、毛艶も悪く、何よりひ弱だった。


仲間達に限らず兄弟たちまで皆、しなやかな筋肉と強靭な肉体をもっていた。


彼らは、高さ三〇メートルはあろうかという大木のてっぺんに軽々とのぼり、木々の五メートルもの間隙を苦もなく飛びわたって見せた。私は自分の虚弱な筋力と臆病な心性を省み、ついていこうとさえしなかった。


自分がのぼり切れることを信じられなかったからだ。のぼるたび、枝をつかむ手はだるく力が入らなくなり、幹をける足はしびれ硬直し、すぐに思い通りに動かすことができなくなった。


そんな私にとって、素早く木のてっぺんまで駆け上がり、自由自在に木から木へ飛び移ることのできる仲間達は、憧れの対象というよりも絶対的な存在を示していた。彼らが絶対的な勝者だった。


中でも特に力が強く、俊敏で、たくましく、毛並みもひときわよい、将来のリーダーともいえる仲間がいた。


彼は私が持たない全てを持ち、そしてそのことに対して特になんの謝意も疑問ももたないように見えた。


彼にとってそれはあたりまえだった。生まれながらに強くたくましいことも、素早く木に登り、誰よりも多くの木の実を得られることも、誰よりもすぐれたメスを手に入れられることも。


彼は生まれながらにして王者だった。もっとも猿の王者に適した猿だった。


彼と彼の手下の楽しみの一つは私をからかうことだった。あるときは尻尾をつかんで木の上から私をぶら下げたあと、泥の池に放り投げ、私が恐怖の悲鳴を上げるのを満足した表情で眺めた。


またあるときは、熟して芳香をはなつ果実を私の目の前で思う存分食べた後、種を顔にぶつけたりして無邪気に笑った。


彼には私のような無力な猿がいることが信じられないのだろう。私を木から落とそうと脅かして、私が必死に逃げると、少しあちこちの枝にぶらぶらと寄り道をしながら追いかけてはすぐに追いつき、私を木から引きずり落として楽しんだ。


私の無力さは私の存在意義だった。少なくとも彼にとっては。


無力で虐げられるためだけにあるような私という存在は彼が王者であるための証明であり、彼という王者が必然であるように、私という無力は必然であった。私の無能は彼の有能を映す鏡でありそれ以外の何物でもなかった。


 しかし、私自身さえ、自分の無能をすぐに認めたわけではない。


同じ親から生まれた兄弟たちがうまく木に登れるのを見るにつけ、私だってやればできると思い、何度も木にしがみついた。


指が痛いだの、足がしびれるだのはただの怠け心からでた泣き言であると信じた。もちろんうまく登れる仲間だって、痛い思いや苦しいのは同じだろう、私だけが苦しいのではないと考えた。皆私より我慢強いのだと。


私だって我慢さえすれば素早く登れるはずだと。同じ猿であるはずだから、いつか同じことができるはずだという思いにとらわれ続けていた。


 あるとき私は「なぜ自分はこんなにも無能なのだろう」と考えた。


同じ猿に生まれながら、なぜこんなにも虚弱で、臆病で、遅鈍なのだろうと。答えは容易には見つからなかった。


私の部族に、他の部族との争いで腕を負傷し、腐って使えなくなったオスがいた。


彼は木に登れず(私と同じかそれより酷くしか)、しばらくは落ちた木の実をあさっていたが、やがて体力がなくなり飢え死にした。


猿にとって木に登れないことは死を意味する。それは痛いほどわかっているが、私は自分にそれを認めるのが怖かった。何遍もその意味を考えた。木に登れなければ私は死ぬのだと。そして、死に物狂いで木に登る練習をした。


死にたくなければやるしかないのだと自分に言い聞かせて。能力の差は努力で埋められると信じた。


しかし、だめだった。絶望に駆られながら、私はある方法を思いついた。それは、何とかリーダーにとりいって、守ってもらう方法だ。彼の機嫌を伺い、顔色を見て、彼の気に入るようにふるまう。そして、餌の一部を分けてもらう。


それは生きていくために私に残された唯一の方法に見えた。それを実行して私は何とか彼の手下の最も下位にくわえてもらった。


相変わらず私は虐待されていたが、果実の豊富な気候が続いたせいでどうやら飢え死にせずにすみそうだった。


ある日彼はアカコロブス狩りの一員に私を加えた。私は自分の方へ逃げてきたアカコロブスの素早い動きについていけず、逃がしてしまった。彼は残虐な狩りの余韻のまま怒りにまかせて私を殴り始めた。殴り殺される寸前で何とか逃げのびたのだが、彼の餌を分けてもらうことは二度とできなくなった。


 繁殖期が訪れ、メスのお尻が大きくはれ上がり、いやがおうにも自分の性欲に気付かされた。


餌をえられず、いつもおなかをすかせて、やせ細った私にメスを得ることなぞ夢にも思えなかった。


ただ単に果たせない欲求を持て余す苦痛よりも、たとえメスを得られたとしても、私の子供に私と同じ境遇を味あわせるという苦痛の方が大きく、繁殖したいとは思わなかった。


自分の無能を心に深く刻印されていたために未来に自分の何物をも残せないのだと漠然と理解していた。


これは、私と私の存在条件との静かなる和解だった。自然に与えられたものをすべて受け入れ、範を越さないということは、自然の法則を疑わないということであり、絶対的な何かを信じるということだと思った。我がリーダーのような猿が、最も王者にふさわしい彼が、最も多く子孫を残すべきであり、すぐれた猿族の祖先になるべきなのだ。


同じ猿としてそれは喜ぶべきことであり称賛すべきことであった。自然はうまくできていて、当然のごとく彼は一番多くのメスと交尾した。メスの中にも変わり者はいて、リーダーと交尾しながら、他のオスとも交尾する者もいた。一匹のメスで最たる変わり者は私に秋波を送ってきた。


言ったように私は繁殖する気がなく(本能は嫌と言うほどメスの尻を求めたが)、彼女を冷たくあしらった。


彼女もまた私と同じ敗者なのだ。私を選ぶ時点でそれを証明できるが、そのほかにも、枝をつかみにくい指を持っていた点で、肉体的に劣っていたのだ。劣ったもの同士、共感し慰めあうことはできるだろうが、何もすぐれたものを未来に産めないという意味では不毛だから、私はそれを望まなかった。


もう少しでも木登りがうまければ、私はほかの猿同様にメスと交尾し、子を持ち、少し劣った猿として生きることに満足していたかもしれない。


しかし生存競争の厳しさや自然のおきての厳しさを身にしみて分かっていた私は、未来を生きるものは今のものより優れているべきだと信じたのである。


そして、客観的に自分はそれに達していないと判定し、みじめな敗北者の一生を送るつもりであった。


それでも寛大な自然が常に豊かな恵みをもたらし続け、弱者を養うことを惜しまなければ、私はどうにか糊口をしのげただろう。


しかし、自然はやはり厳格だった。あらゆる弱きものを無駄とみなし、排除しようとするかのように、

雨期に雨の恵みをもたらさず、過酷な寒気をもたらし、草を枯らし、木々を不妊にした。我々の食料はごくわずかになった。


甘い果実を食べていたリーダーはじめ上位の猿たちも、何とか残った葉を食べて飢えをしのいだ。


食べられる葉をつけた木をめぐる縄張り争いが日常となった。力あるものが勝ち、餌にありつけず弱ったものから死んでいった。


強暴さは強さの一側面だった。残酷さという能力は仲間を食うこともいとわせず、生き残るために不可欠な美点となった。


そのどれも持たなかった私はなんとか見張りの目を盗んで葉を食べた。しかし飢えつづけ、そして考え続けた。


考えることしかできなかった。適者生存とは何か。それは適した者のみが生存できるということだ。


木々があり、それを登ることでしか食料を手に入れることができないなら、その能力を持たぬ者は生存できぬということだ。


もっともうまく、食料と棲みかとメスを手に入れられるもののみが、未来を夢見ることができるということだ。


その能力をもたぬものから死ぬのだ。私はその能力をもたぬからもうすぐ死ぬのだ。猿にあるまじき私の非力と、遅鈍と、柔弱とのせいで。


空腹と疲労による意識の混濁のさなか、突然、雷のようにある考えにうたれた。


はたしてこれは正しいのか?私は本当にこのまま死ななければならないのか?


自然の法則は絶対なのか?今まで成立したからといってこれからも正しいのか?


答えは「否」だ。なぜなら、適者生存とは適した者が生存できるという意味だからだ。


適さなかっただけなのだ、私にこの木の上の暮らしが。



私は木に登ることをやめた。



登ろうとすることさえもやめた。


私は草原を歩き、そして草原でなら他の猿よりうまく移動できた。


なぜなら、他の猿が木に登っている間に草原を歩いて餌を探していたから。


そうしなければ生き延びられなかったから。


猿がもつべき力強さ、しなやかさ、素早さ、凶暴さをもたないがゆえに私は猿ではなかった。


猿ではありえなかった。一人で私は草原へ、2本の足で歩き出した。


(二〇一一年六月三日執筆)


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