プロローグ
鬱蒼と生い茂る木々、地面に生える草花は人の背丈ほど伸びている。
昼でも薄暗いそんな森の中、その場に似つかわしくない格好の男女が一組。
男はスーツ姿。疲れのせいか暑さのせいなのかはわからないが、ネクタイを若干ゆるめてはいるが、だらしなさはまったく感じさせない、そんな雰囲気をまとっている。
女の方はひらひらのメイド服姿である。鋭い眼光と、隠しきれない殺気を放っている事を除けば、どこにでもいそうな普通の少女のようだった。
二人とも、ただジッと、その先にある山小屋を凝視している。
人が三・四人くらいなら普通に生活できるような、木造で何の変哲もない小屋。それこそ、今この場では一番しっくりくる外観だ。
沈黙に耐えられなくなったかのように、男が大きく息を吐く。
「ミア……私が手伝えるのはここまでだ、後は君の好きなようにするといい」
そう一言呟くと、小屋から視線を逸らし、その場に腰を下ろす。その表情は何ともいえない複雑な顔をしている。
「ありがとうございますマスター、感謝します」
そんな男を見て、ミアと呼ばれた少女は深々と頭を下げた。
その一言ずつの言葉の応酬でも、二人の間では十分だったのか、再び沈黙が訪れた。
無言のままミアは、視線を山小屋へと戻すと、左手の親指を口元に持っていき、その指先に歯を立てる。
指先から血がにじむ。
傍から見れば謎の行動ではあるが、これこそが彼女が戦う時の準備動作である。
ゆっくりと指先の血が地面へとしたたり落ちる。
それと同時にミアは飛び出していく。まるで弾丸のような勢いである。百メートル近くあった小屋までの距離を一足で詰める。
小屋の入口のある玄関扉ではなく、側面の壁に勢いを殺すことなく突っ込んでいく。
そして、壁に向けて大きく左手を振るう。親指から血が飛び散り、それが壁に付着する。その瞬間、爆音とともに壁が吹き飛び煙を上げる。
穴の空いた壁から、爆炎を蹴り飛ばしながら、ミアは小屋の中へと侵入し、素早く中の様子を確認する。
「……いた! 氷室アヤ!」
襲撃を受けているにも関わらず、腕と足を組んだまま椅子に深く腰掛けたままでいる標的の女を視界に捉え、ミアは思わず呟いた。
標的の女もまた、ミアと同じようにメイド服を着ていた。ただ、ミアとは違い、あまりにヒドい着こなしだった。
長袖の服を乱雑にまくっているだけの上半身はまだいい。問題なのは下半身である。長いエプロンとスカートは、太もも部分ほどまでビリビリに破かれており、そこから伸びている足にはジャージが履かれている。靴に至ってはただのスニーカーと、メイド服にはミスマッチ極まりない格好である。
そんなメイドとは思えない格好のメイドの氷室アヤを、初対面で『氷室アヤ』として、ミアが認識できたのは、メイド服の左胸に付けられたエンブレムのおかげだった。
笹の葉をモチーフにした氷室王家のマークをバックに『N1』と表記されたエンブレム。それは、氷室王家の精鋭部隊『ナンバーズ』の証であり、長年欠番となっていたナンバー1。欠番理由は単純に、当時ナンバー1だった氷室アヤが部隊証を携帯したまま消息不明となったからだ。
つまり簡単な話、このエンブレムを持っている人物こそが、イコール氷室アヤなのだ。
ミアは襲撃した相手が人違いでなかった事を、そういった理由で確認した。
しかし、確認したからこそ、ミアにふと疑問が浮かぶ。
歴代最強とまで言われている氷室アヤが、奇襲を受けたとはいえ、椅子に腰かけたまま無反応なのは何故なのか? そもそも気配で奇襲に気付いていなかったのか?
本気で気付いていなかったり、気付いていてもとっさに対処できていないだけなら問題はない。が、全てわかったうえで、対処するまでもない、と考えていた場合は大問題である。
とはいっても、ミアは既に壁を突き破り、標的に突進している真最中である。アヤの対応の理由が後者だったとしても、今更止まる事はできない。
一瞬の迷いはあったが、ミアはすぐに気持ちを切り替え、壁を破った時と同じように、アヤに向かい左手を……
「――え?」
思わず声が漏れた。何が起きたのかまったくわからなかった。
先程まで椅子に座っていたアヤが、いきなり視界から消え、気が付くと自分の目の前にいたのだ。振り上げた左手は肩の先から切断されている。
そのまま、左脇腹を凄まじい威力で蹴り飛ばされ、何もできないまま、入ってきた時と同じほどのスピードで壁の外まで吹っ飛ばされる。
たったの一撃くらっただけなのに、身体全体が悲鳴を上げ、切断された腕の痛みもかさなり、起き上がる事もできず地面を転がる。
少し遅れて小屋から出てきたアヤは、そんなミアの胸ぐらを掴み、強引に引きずりあげた。
「その服……野上王家のメイドか? 野上に狙われる覚えはないはずなんだが……何で私を襲ってきた?」
答えられなかった。狙った理由はただの功名心。どんなに武勲を立てても、周りの評価はあくまでも『史上最強は氷室アヤ』という言葉だけ。十年以上も表舞台に上がっていない、半分伝説と化している人物を超える事ができないのだ。
そんなものは、所詮は過去を美化して、過大評価された噂が独り歩きしているだけにすぎない。そう思っていた。仮に多少強かろうと、そこまでの実力差はないはずだ。
そう仮説した結果がコレである。
気が付くとミアは笑いが止まらなくなっていた。もう自嘲しかでてこなかった。
自分がいかに、井の中の蛙だったのか思い知らされた。いや、実際は大海を知ってはいた。ただ、広い海の中、他の生き物の目に付かないように隠れ住んでいた、規格外の化物に遭遇しなかっただけなのだ。
そう、こんな化物は蚊帳の外に置いておくだけでよかったのだ、誰もこんな化物を退治する事なんてできるわけがない。
高い授業料ではあったが、人生の最後に、化物の実力を肌で感じる事ができた事を冥土の土産にしよう。そう考え、ミアは笑うのをやめて、そっと目を閉じた。
「ミア、そろそろ時間だ。準備してくれ」
急に声を掛けられ、自分が寝ていた事に気が付く。
真夜中の高速道路、その路肩に止められた車の中でミアは目を覚ます。恐ろしいほどの静寂に包まれていた。
「君にしては珍しく深く眠っていたようだね? 笑っていた様にも見えたが、何か良い夢でも見ていたのかい?」
夢の中と同じように、スーツを優雅に着こなしている男が問いかける。夢の中よりも年齢とともに実績を積み重ねてきた、そんな顔つきである。
「昔の夢を見ていました。氷室アヤに挑んだ時の夢を」
服を整えながら男の問いかけに答える。男は一言「そうか……」と返答すると、窓の外の暗闇に視線を向ける。
ミアは、右手と口を使い、左腕の袖を邪魔にならないようしっかりと結ぶ。あの日以来、無駄に持っていた自信と共に失った左腕に、そっと手をおき目をつぶる。
「マスター、もう大丈夫です。準備できました」
大丈夫……落ち着いている。そう自身に言い聞かせる。
「あれから五年。氷室女史とは短いようで長い付き合いだった」
男が静かに語りだす。
「友人として、彼女の願いは我々が叶えてやろうではないか」
ミアはただ静かに、男の言葉に耳を傾ける。
「殺されてしまった彼女に代わり、氷室王家に捕まった、女史のご子息……私の親友でもある氷室佑を助け出す!」