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闇夜の鼻歌

作者: 白沼俊


 神様に見放された気がした。

 手に取る果実はたちまち腐り、澄んだ泉に手を触れれば闇色の濁りが波紋となって広がる。

 彼はふと、幼いころからの教えを思いだす。悪い人間は、世界の外へ――地獄へと追い立てられてしまうんだよ。

 時間の問題かもしれない。夜の、濃霧のような暗闇の中で、彼はひざを抱えてうずくまっていた。


        *


 彼は森の中で、大きな木に背中をもたれて書物を読んでいた。

 木々は風に揺れ、笑い転げるようにざわめいている。飛び回り跳び回る虫たちも甲高い声で大はしゃぎしていて、毎度毎度のお祭り騒ぎだ。

「……うるせえな」

 書物から目を上げ、ため息をこぼす。

 少年の不機嫌を感じ取ったか、彼の寄りかかる木から拳ほどの果実が落ちた。

「いらねえよ」

 つぶやきながら、果実を拾って腰を上げる。口元をゆがめ、甘いらしいそれに苦い顔をしてかぶりつく。

 食事は苦痛だ。こんなものを美味しい美味しいと喜ぶ隣人たちの気が、彼にはどうしても知れない。

 木々の群れを抜け出して、町に出てくる。来たかったというより、森以外に知っている場所がここしかなかった。

 数時間歩けば一周できる町と、それを取り囲む森。少年の住む世界はひどく狭苦しかった。けれども森の外へは出られない。

「だめよ、食べ歩きは」

 じょうろを持って笑いかけてきた女は、志保といった。一見少女のようだが二児の子を持つ立派な婦人だ。

「よくやるね。毎日毎日」

 水をかけられ、花たちが上機嫌に揺れる。いまにも歌いださんばかりで、少年は眉をひそめて目を逸らした。これまた上機嫌に志保が胸を張るのに、うんざりと鼻を鳴らす。

「当たり前じゃない。こんなに可愛いんだから」

「可愛いねぇ。これが」

 むしろ今すぐにでも踏み潰してやりたい。愛されるべきものでなければ行動に移していたかもしれない。

 愛されるべきもの――世界はそんな忌々しいもので溢れかえっている。

「ねぇ、聞いたわよ。今日の埋葬、見ないで帰っちゃったんだって?」

 少年は果実をかじる。ほとんど咀嚼もせずに飲み下す。

「調子、悪かったから」

「こんなとこほっつき歩いてるくせに?」

「……悪いかよ」

 むっとして踵を返す。

 彼の通う学舎では森からやってきた小動物たちが育てられている。隣人たちの愛を一心に引き受けて、どれもこれもがすくすくと大きくなって死んでいく。その繰り返しだ。教育の一環だと教師は常々いっていた。だから、動物に近寄ろうとしない少年に対しては風当たりが強かった。

 今日はその小動物の一匹のために埋葬が行なわれた。参加しなかったのは学舎の中で少年ただひとりだ。

 ああいった生き物は見ているだけで悪寒がしてくる。いわゆる獣臭さというものも、彼には吐き気を催すほどだった。けれど、そんなことを話せば自分の首をしめるだけだ。共感してくれる者など現れない。下手をすれば外へと追いやられてしまう。それが恐ろしくてたまらなかった。

 悪い人間は、世界の外へ――地獄へと追い立てられてしまうんだよ。

 その教えだけが、大人たちの説教のなかで唯一、少年を縛り付けることができた。恐怖のためだけに、表面上ではできるだけ心得たふりをするようになった。実を言えば、今日の埋葬にも顔くらいは出すつもりでいたのだ。その決意すらもあっさり崩すほど、少年にとって小動物はおぞましいものだった。

 少年は足を止めた。大きな犬に子どもが顔をうずめ、飼い主らしき老婆が微笑んで見守っている。少年の口元が引き攣る。鼻に拳を当て、早足で通り過ぎた。やはり近くにいるだけで耐えられない。

 胃のほうから、食べたばかりの果実がせり上がってくる。しばらくその場に座り込んで、なんとか吐き出さずに済んだ。

「よく平気だな、あんなの」

 平気どころか進んで世話をして、さらには抱擁して顔を埋める。まともな感覚をしているとはとても思えない。

 周囲からすれば、少年のほうこそまともでないのだろう。

 少年は一人だった。育ての親や形ばかりの友人を持ちながら、だれひとり彼の心情を理解しようとしなかったし、彼もまた人と心から打ち解けようとしなかった。それができないことを知っていたのかもしれない。


        *


 初めて声を聞いたときから、どうにも気に食わなかった。心を通わすことなど絶対にできやしないという諦めが芽生えた。

 はなから人を見下したような声。動物たちへ向けるのは不快感を隠さない目つき。人を騙すのに慣れたうそ臭い笑い。そのどれもが、少年を愛すべき子として見ることを拒ませる。

 洋蔵は教師となってから十年ちかく、どんな生徒に対しても偽りのない愛を向けて相手をしてきた。教室の誰もが大切な生徒であり家族だった。

 そのなかであの少年だけは、たったひとり、よそ者だった。初めて声を聞いたときから、壊すことのできない壁が厳然として建っている。両者の間にある切り崩せない隔たりに、洋蔵は何度も立ち向かい、ついに諦めてしまった。

 少年は幼いうちに両親を亡くし、いまは母の妹のもとで暮らしている。正確には父の生死はわからない。おそらく、とうに死んでいる。

 彼の父は大罪を犯し、世界の外へ追放された。

 初めは彼の父を憎むあまり、少年までをも拒んでいるのだと考え、洋蔵は苦心した。けれども拒絶は正当なものだった。洋蔵はこの数年、彼の心を注視しつづけ、それを理解した。彼の、世界を見る目はひどく冷たい。美しい花畑や愛らしい小動物を前にしても、あたたかい心は探し出せなかった。それどころか彼は、吐き気を催すほどに嫌悪していた。

 いつからか洋蔵は少年のことを恐れるようになっていた。このまま彼を世界に留めておくべきなのか、神父に相談したことすらある。あの男のように地獄へと追い立てるべきではないのかと。

 子どものことなのだからと誰しもがあしらう。みなに笑われようと洋蔵には本能からの警告が発せられていた。放置していればいつか必ず取り返しのつかない事態になる。あれは、化け物だ。

 きれいに澄んだ池のそばで、苔の生えた岩に腰かけながら花畑を眺める。蝶や小鳥が飛び回り、猫やうさぎや犬やたぬきが駆ける。明るい緑の草木を揺らす風に乗って、笛の音や子どもたちのはしゃぐ声がする。この穏やかな時間こそ、洋蔵にとって最上の喜びだった。

「守ってみせるよ、必ず」

 純白の空につぶやく。

 足元にやわらかいものが当たる。見ると、愛猫がすり寄っていた。頭を撫でてやると腹を見せて転がる。

「ああ、おまえもだよ」

 ずっとこの時間が続けばどれだけいいだろう。永遠はない。それを知っていながらも願ってしまうのは、先祖たちから受け継いだ大切な愚かさだ。

 そのとき、唸り声が聞こえた。この場にそぐわない、とても卑しく汚らわしい声。愛猫は気にせずに喉を鳴らしている。顔をあげると、すぐに異常に気付いた。

 池の澄んだ水は墨色に濁り、花畑からは色が消え奇妙な音がこだましている。洋蔵は声もあげられずに腰を抜かした。

 視界がぐらぐらとゆがむ。めまいではない。周囲の景色そのものがゆがんでいた。唸り声はやまず、草木や空は鮮やかだった色を失い始める。目に見える家がぐにゃぐにゃに傾き始め、木の壁に唇のような突起が現れる。それらが狂ったような笑い声を上げる。

 ところどころで悲鳴が飛び交うなか、愛猫は未だに異変を察知しない。あまりの能天気さが、洋蔵を恐怖から立ち直らせた。呆気にとられている場合ではない。

 家族を守らなければ。洋蔵は震えるひざを手のひらで叩いた。


        *


 少年がまだ幼かったころ、彼は両親を失い、母方の叔母に引き取られることになった。それまでにも幾度となく顔を合わせることはあったが、そのときほど叔母が彼を愛おしそうに撫でたことはなかった。そしてまた、憎悪に燃える瞳を向けることもなかった。

 そのときの彼には身のまわりで起きた事情を察する力が足りず、それゆえに両親がどこに行ってしまったのかすら理解できていなかった。何度も二人の居場所を尋ねては叔母を困らせた。

 ついに少年は二人を探しに森へ向かい、そこで小さな洞窟を見つけた。上のほうにいくつか穴があいていて、意外にも中は明るかった。

「うわあ……」

 奥まで行くと、岩の凹みを利用してたくさんの書物が並べられていた。背伸びしても届かないところにまでびっしりとある。彼は無邪気に目を輝かせた。

 まだ難しい字の読めなかった彼は、そのうちの何冊かを抱え込み、飛び跳ねるようにして家へ駆け戻った。

 叔母は彼を見るなり勝手にいなくなったことを叱ったが、書物を見せるとすぐに黙り込んだ。書物を奪い上げてぱらぱらとめくると、青ざめた顔で彼を見下ろした。

「これ、どこから持ってきたの?」

 彼女が少年の父を憎んでいることは火を見るより明らかだ。そして書物はすべて、父のものだった。

 洞窟に放たれた火の激しさが、少年の目のなかでよみがえる。どんなに泣いても喚いても、叔母は聞く耳を持たなかった。

 意識が苦い思い出から立ち直る。少年は古くなってボロボロになってしまった書物を眺める。これが最後の一冊だ。あの日、書物を抱えて駆ける途中に落としてしまったものが道に残っていたのだ。

 少年のなかで父の記憶は薄い。けれどもなんとなく、父だけは自分の気持ちを分かってくれていた気がして、そんな父の遺した最後の品は、肌身離さず持っていたかった。

 それなのに、何故分かってくれないのだろうか。

「あなた、まだ……」

 叔母が、道の先でわなわなと震えていた。肩をいからせ少年のほうへと向かう。有無を言わさず書物を取り上げ、頬を叩いた。

「まって!」

 少年が手を伸ばしたとき、すでに叔母の姿は小さくなっていた。

 甲高い笑い声があたりに響く。汚らわしい虫たちの嘲笑に顔をゆがめ、少年は宙を睨んだ。

「なんでだよ」

 なんで分かってくれないんだよ。

 近くで悲鳴が聞こえ始めたのは、それから間もなくのことだった。


        *


 愛猫を抱えて、洋蔵は家族の待つ家へと駆ける。まだ町のすべてがおかしくなったわけではない。池から離れるとすぐに日常の風景がもどってきた。

 だがそれも、異変を食い止められたらの話だ。まずは家族を避難させて、それから対策を練る。案が出れば再び向かわなければならない。

 息が切れた。洋蔵は愛猫をおろし、すこし休憩する。歳のせいか、疲れやすくなってきたらしい。

 一分ほどして歩き出すと、後ろから悲鳴が聞こえた。恐る恐る振り返る。

 波紋のように広がる異変が、洋蔵の目にははっきりと映っていた。道に生える若草が、紫やら黒やらと変色して、奇妙奇天烈な形にうねうねと歪んでいく。波紋はあっという間に洋蔵の足元にまで届いた。

「あ、先生」

 皮膚が粟立つような感覚に冷や汗が噴出す。いまだけは会いたくなかった。振り返ったら何もかも取り返しがつかなくなってしまう気がして、洋蔵は身動きが取れなくなっていた。

「あれ? 先生だよね」

 前に回って顔をのぞいてきたのは、やはり少年だった。

「これ、なんの騒ぎ?」

 体が小刻みに震える。軽く息切れをしていた。

「まさか、おまえが」

「なに」

 少年は怪訝そうに眉をひそめる。とぼけているのか、本当に元凶ではないのか判断がつかない。

 愛猫が彼の足元へ寄る。少年はちらりと洋蔵の視線をたしかめ、貼り付けたような笑顔でしゃがんだ。猫の頭に手を伸ばす。

「触るな」

 思わず口をついた言葉に後悔するよりも先に、少年の指先が猫に触れていた。瞬間、やわらかな毛並みが沸騰したように粟立ち始める。全身を覆っていた毛は砂のように風に消え、たちまち皮膚がただれだす。

「太郎!」

 愛猫の名を叫ぶ。きょとんとしたように振り返った太郎は、かつての愛されるべき姿を失っていた。皮膚はゴムのようになり、眼球はどろどろに溶けて変色している。足を動かすたびくちゃくちゃと粘着質な音が響く。

「触るなってなんだよ。おれだってこんなの……」

 少年の声は耳に入らなかった。太郎はガラスを引っ掻いたような音を立て、ぶよぶよした口元に笑みを浮かべる。身の毛のよだつような思いがした。これはもう太郎ではない。ただの醜い化け物に変わり果ててしまった。

 洋蔵は尻もちをつき、近くにあった石ころを投げつける。

「くるな! くるな!」

 化け物はうな垂れ、げっぷした。強烈な腐臭が鼻を突く。

「ひどいな。大事なんじゃないの」

 はっとして、少年の顔を凝視する。このガキが全ての元凶だったのだ。もはや疑う余地はない。たったいま、かつての愛猫を醜い化け物に変えてみせた。彼もまた、地獄へと追放されるべき化け物だ。

「ついに尻尾を見せたな。化け物」

「よくわからないんだけど」

「ふざけるな!」

 洋蔵が叫ぶのと同時に、太郎が飛び掛ってくる。反射的に蹴り飛ばしてしまった。それでも太郎は悪臭を放ちながら向かってくる。

「くるなと言ってるだろう!」

 近くにあったホウキで頭を叩きつけても、何度石をぶつけても、甘えたように駆け寄ろうとする。かつてのようにすり寄ろうとしてくる。洋蔵の胸のうちで、得体の知れない恐怖がわきあがる。

 このままでは、私は――おそろしい想像に洋蔵は震え上がった。

 尻もちをつき、大声をあげ、気づくと洋蔵は逃げ出していた。幾度も後ろを振り返りながら、いつまでもついてくる化け物に泣き喚きながら。

 狂ったような笑い声や人々の悲鳴を掻き分けるようにして走り続ける。歪んだ景色を抜けると、幼いころから慣れ親しんできた町に出た。まだ全てが壊されたわけではない。まだ守るべき者たちがいる。

 太郎もあとに続くように歪みから抜け出したが、元の姿には戻らなかった。美しいこの地に、その醜い姿はあまりにも不釣合いだった。そのくせ、人様の愛を引き受けようとはしゃぐように走ってくる。

 いつのまにか恐怖や不安は消えていた。もう、太郎は死んでしまった。それならば、その行為を恐れる必要もない。

 愛すべき者のためには、避けられない罪もあるだろう。幸福な想像のためには、必要な嘘もあるだろう。

 これを、家族の前に晒すわけにはいかない。

 薪を割る音が聞こえる。洋蔵は覚悟を決めた。


 罪を犯したという気はしなかった。家族の心を守ったことに対する達成感すらあった。

 腰を抜かした老人と頭の割れた化け物を置き去りにして、洋蔵はふらふらと道に出る。

 赤く汚れた服のまま歩いても目を見張るものはない。生きるために命をいただくことなら何度もあった。彼は救われるために狩った。普段の狩りとなんら変わらない。そうしないと生きていけないから、狩ったのだ。

 穏やかな景色にゆがみが広がる。深い霧が立ち込み始め、遅れて少年がやってくる。手に持った斧を一瞥し、べっとりと血を浴びた洋蔵を舐めるように見る。

「あーあ。殺しちゃったんだ」

 周囲を埋め尽くす声は気にも留めず、洋蔵は少年に向かっていく。

「おまえ……よくも、太郎を」

「はぁ? なんで先生がキレるわけ?」

 洋蔵は答えない。化け物と交わす言葉に意味などはない。

 少年の前では、どれほど大切な命も、愛すべき面影を残さない化け物に成り果てる。草木や動物たちはもちろん、家族さえも。

 殺さなければならない。追放しなければならない。

 洋蔵はふたたび斧をかまえる。


        *


 姉の忘れ形見を引き取ってから十年以上経つ。

 幼かったころの少年はひたすら無邪気で、人よりすこし怖がりなだけの子どもだった。忌々しい父親の血が流れていることを除けば、姉に似たいい子だ。頭ではそう思っているのに、なぜだか愛しいと感じたことがない。抱き締めたくてたまらないという気持ちも、他の子どもに対してはわきあがるのに、彼にだけは抱くことができなかった。彼に対してだけは、あらゆる愛情が芽生えなかった。

 姉が亡くなり彼を引き取ることになったとき、優子は彼の顔に姉の面影を探し、遠くへ行ってしまった姉のために頭を撫でた。そのときには少年のことは頭になく、ただ姉のことばかりを想っていた。けれども触れれば触れるほどに人の皮が剥がれ、あの男の姿が露わになっていく気がして、同時に優子の中の深い憎しみが引きずり出された。

 愛した姉と同じ、さらさらとした黒髪や薄く柔らかな唇を見ても、なつかしむより先に憎しみが溢れてくる。父に対しての憤りが、やがてその息子へ向かってしまう。どれだけ愛そうと努力しても、思いは変えられなかった。

 それでも今まで育てられたのは、少年が紛れもなく姉の息子だったからだ。一目見ればわかる。それほど鮮明に姉の面影が現れていた。

 けれども、本当にこれでよかったのだろうかと思うことがある。学舎の先生から、教室で飼育していたうさぎの埋葬に、あの少年だけが参加しなかったと聞いた。人一倍動物好きだった姉なら考えられないことだ。

 あれは、姉から生まれた。だが本当に、姉の子と言えるのだろうか。

 たしかに最初は心優しい、人と笑顔を交わす可愛い子どもに見えた。愛すべき家族なのだと。だがそれも全て演技だったのではないかと疑わざるをえない。人を騙すことに慣れきったあの笑顔が、そんな疑念を駆り立てる。

 引き取ったばかりのころから、あれは他の子たちと明らかに違っていた。

 彼は食事を摂るとき、まるで痛みを耐え忍ぶような顔をする。どんなに手間をかけた料理を出しても、一口一口を拷問にでも耐えるように飲み下す。

 猫を飼えば化け物でも見るように嫌悪感を剥き出しにするし、すこしでも家に虫がわくと、敵討ちのごとく一匹残らず全力で叩き潰した。生き物に対するとき、見え隠れする残虐性に、優子は何度戦慄したかわからない。

 彼にとっては、世界の何もかもが鬱陶しく、見るに耐えないものなのかもしれない。彼はまるで、神様に見放された化け物のようだった。

 すこし冷めたコーヒーをすすって、窓の外を見る。いくつもの影が通り過ぎた。外の子どもたちがやけに騒がしい。たくさんの足音が家の前を駆け抜けていく。軽い音の中に重量感のある大人の男の足音が混ざっていた。

 眉をひそめ、カップを持ったまま窓のそばへ行く。

 手から滑り落ちたカップが、大きな音をたてて割れる。

 人々は逃げ惑っていた。ゆがみが、生きているかのように追いかけてくる。理解不能な、空間のゆがみとしか言いようのないものが、溢れかえった水のように広がっている。木も家も岩も何もかもが奇妙な形に曲がり、飛び回る虫たちが甲高い笑い声をあげる。

「助けて」

 苦しげな声がした。家の中にだれかが足を踏み入れる。そこから波紋のように広がる変色は、瞬く間に部屋中を埋め尽くした。床も壁も、たくさんのペンキで塗りたくられたようにめちゃくちゃな色に変わってしまう。それと共に、異臭が鼻を突いた。机のうえで、果実やパンがどろどろと腐りだす。

 姉の忘れ形見が、ついに化け物に成り下がってしまった――そう決め付けるには、少年のすがたはあまりに弱々しかった。

「これは……おまえがやったの?」

 少年は質問には答えなかった。泣きじゃくるようにその場に座りこみ、震える肩で息をしていた。

 少年も巻き込まれたのだ。だからここに逃げ込んできた。今起きていることは決して彼のせいではない。ひとまずはそう思い込むことに決めた。

 そのとき、へやのなかに鮮やかな青紫の蝶が入ってきた。それは少年に引き寄せられるように舞い、彼の背中にとまった。

 そして、みるみるうちに色を失い、形をゆがめて、見るに耐えない害虫に変わってしまった。


        *


 手に取る果実はたちまち腐り、澄んだ泉に手を触れれば闇色の濁りが波紋となって広がる。どこへ行っても悪臭や騒音が絶えず、心の休まる場所はない。人を愛せず、愛されることもできなかった。

 彼は咳き込みながら、生きることだけを考えた。ふしぎなことに、追い込まれるほど生きたいと思う。理不尽な怒りを向けられ、世界に絶望しようとも、この世に生を受けたことだけは後悔できなかった。

 少年は自分の名を知らない。正確には忘れてしまった。育ての親は、彼の名を一度も呼ばなかった。忌々しい名だと吐き捨てたきり、その名について触れようともしなかった。そのうちに彼自身も、なんと呼ばれるべきなのかを記憶の外へ追いやってしまった。

 名付けてくれた父はこの世界を後にした。母もすでにいない。両親のことを思うたび、彼の胸はいつもざわつく。彼の孤独を理解してくれるかもしれないかけがえのない存在。顔すらおぼえていない、愛しい人たち。

 少年は知らなすぎる。多くのをことを知らないままこの世を追われることが恐ろしくてたまらなかった。

 一番知りたいのは共感だった。心と心の触れ合い、孤独からの救い。けれどもその願いは、もう叶いそうにない。

「あのとき殺しておけばよかったのね……おまえなんか、育てるんじゃなかった」

 明確な殺意を持った狩人から逃げ延び、ようやくたどりついた場所で、少年は帰るべき場所を失ったことに気付いた。彼を忌み嫌いながらも懸命に育ててくれた叔母も、とうとう狩人になってしまった。

 家から逃れても、誰も彼もが殺意を隠しているように思えて、少年はひたすら逃げることしかできなかった。もう町にはいられない。

「化け物!」

 道の先で、震える男がいった。腰が抜けていて、襲ってくる気配はない。

「もうちょっとさぁ、気の利いた言い方できないわけ?」

 無論、助けてくれもしない。何もできない代わりに、口のなかでひたすら罵倒を繰り返すのだろう。

 少年は一人だった。


        *


 志保はかつての花畑を前に立ちすくむ。大切に育てていた花たちは墨色に染まり、茎は無数の黄色い腫れに覆われていた。よく見ると、ひとつひとつが目玉のように動き――志保を見ている。

「きゃっ」

 悲鳴をあげ、しりもちをつく。

「なんなのよ、これ」

 花たちは志保の持つじょうろを凝視して上機嫌そうに笑っている。奇妙な声を立てながら、はやく水を飲ませろと訴えている。彼女が水をやらないとわかると、無数の目をぎょろぎょろと回して駄々をこねる。

 気持ち悪い。素直に不快だった。

 なぜかしら、ふと志保の視線が道のほうへむいた。それからすぐに人影が現れる。変色し、ぐにゃぐにゃに歪んだ町の中を歩いてくる。洋蔵が忌避していた少年だった。そういえば、名前を聞いたことがない。

 道を歩いてくる彼の眼差しは、ひどく静かで寂しげだった。慰めを必要としていると、一目でわかるくらいに。

 助けなければ。そう、とっさに思ってしまう。それなのになぜか、背筋は凍りつき、ひざは震えだした。

「いや……」

 いちど恐怖に気づくと、たちまち震えは止まらないほどになり、志保は這うようにして逃げ出していた。足も腕もがたがたと震えてうまく動かない。焦りが全身をかきむしり、我を忘れて暴れるように這った。

 何度も振り返るうち、いちどだけ彼と目があった。泣いていた。

 彼は何も言わずにきびすを返し、来た道をもどっていく。

 待って。呼びかけたいのに声が出ない。そして、志保の体は逃げたまま。


        *


 少年は小さくため息をつく。

 木々は文字通り唸り声をあげ、小さな化け物たちは甲高い音を立てて踊り狂う。どこに目を向けても視界はぐらつくようにうねうねと歪み、さまざまな色の付いた霧が充満している。

「うるせえな」

 ふて腐れて呟いても、お祭り騒ぎは終わらない。

 耳元や目に虫がつきまとってくる。鬱陶しい。思った途端、虫の羽音が消えた。考えなしの虫たちにさえ見捨てられた。本気でそんな思いに駆られるまでに、彼の心はよりどころを失くしていた。

 森の中は不快なものが多い。それらには飽き飽きするほど見慣れていた。問題なのは体のほうだ。手にとる果実も川の水も彼を拒絶するように腐り出し、ほんのすこし口をするだけでやっとだった。そんな状況で散々走り回ったおかげで、体力がすぐに底を尽きた。

 孤独だった。けれども、町で感じた寂しさに比べればどうということもない。町には帰れない。糾弾され投石されることは、想像するだけでも耐えられなかった。

 どこに行っても少年の心は休まらない。遠くから眺めるといかにも優雅に振舞っていそうな森も、いざ来てみればどこよりも騒々しい。朝昼晩とはしゃぎ通しだ。

「おまえら、すこし黙れ!」

 怒声が森に響く。みな、驚いたように口をつぐむ。それも束の間のことで、しばらくすると再び騒ぎ出した。

「黙れって言ってんだよ。おまえらだよ、おまえら」

 ようやく見られていることに気づいたらしく、化け物たちに緊張が走る。少年は鼻を鳴らして腰を降ろした。

 大人たちは子どもがバカ騒ぎしていると咎めるのに、森に向かって叫ぶようなことはしない。それがどうにも理解できない。彼には、この醜くか弱い生き物たちの方がずっとやかましく、鬱陶しいものに思える。

 それでも、こうしてじっとしている間は、人々の糾弾からは逃れることができる。しばらくはここで休もう。口元を緩めて息をつく。

 静まり返った草の茂みから子猫が頭を出した。糞尿のような悪臭を放ってすり寄ってくる。慌てて蹴り飛ばすと、全身の毛が蛆虫のように膨らみうねりだし、黄ばんだ目玉がどろりと垂れ下がる。臭いはますます強くなった。

 少年の口元から笑みは消え、見下ろす目が自然と険しくなる。少年の変化に気づくと垂れた目玉を膨張させ、甲高い声をあげて逃げ出した。

 いつものとおりだ。不快で醜い動物たち。こんなものを愛でる隣人たちの気持ちが彼にはわからなかった。

 下手に身動きも取れず、しばらくその場でじっとしていると、次第にあたりが見づらくなってきた。慌てて飲み水を探そうと立ったが、あまりしないうちに本格的に周りが見えなくなる。濃霧のような闇が押し寄せ、孤独と不安を掻き立てる。しかたなく元の場所にもどった。

 ねちょねちょとした苔の上に横たわり、頬を引き攣らすように微笑む。何も見えない。真っ暗だ。そのほうがいい。もう何も見たくなかった。

 ときどき思い出したように騒ぎ出す化け物たちを何度も黙らせながら、ひたすらに夜がすぎるのを待った。

 いや――むしろ少年は、この時間が過ぎ去らないよう願っていたかもしれなかった。

 今の彼には、森を覆う闇夜こそが寄り添うべき友だった。そうしているあいだだけ、神様から見放された事実を忘れられる。

 ――真夏。

 心の奥底で、だれかの声がする。真夏という言葉が何を意味するのか、少年は忘れていた。耳を傾ければ傾けるほど、声が遠のいていく。

 声のことはすぐに忘れて、町の人たちへ思いは移った。帰りたい気持ちはある。生まれてからずっと生きてきた世界に、思い入れなら十分にある。けれども、それは許されない。少年は追い立てられたのだから。

 化け物。そんな罵声が、まさか自らにぶつけられるとは思ってもみなかった。小動物や花たちに対していつも抱いていた嫌悪が、自分に対し向けられている。慣れ親しんだ気持ちなだけに、その事実は容赦なく胸を貫いた。

 おれだって、好きでこんなふうに生まれてきたわけじゃない。少年の弁解は誰にも届かない。

 人を愛せたらどれだけいいだろう。愛したい。なんども思った。動物や花たちだって、できることなら心から愛でてやりたい。けれど、望んだからといって好きになれるわけじゃない。彼の無意識はいつだって全てを見下し、拒絶していた。

 人を知りたい。心を知って、共感して、対等に向き合いたい。自分を知ってほしい。互いに受け入れ受け入れられる。そういうものを、本当はずっと夢見ていた。

 それも全て、今さらのことだ。今となっては、形だけ向き合うことさえも許されなくなってしまった。

 少年は孤独感から逃れるように眠りにつく。夜になっても騒ぎ出す木々や草花に幾度となく叩き起こされ、その度に怒鳴り散らして再び目を閉じる。その繰り返しは無限に続く気配すらあったが、朝はあっという間にやってきた。最後に彼を起こしたのは、化け物の声ではなく、人の悲鳴だった。

 追っ手が来た。理解すると、寝起きの頭はすぐに冴えた。少年はこそこそと逃げだす体勢になる。

「なんなんだこいつら」

「これも皆、あの少年がやったのか」

 狩人たちはかなり近くまで来ているらしく、会話の内容まではっきりと聞き取れる。少年は立ち止まり息を潜める。隠れるためではなく、話を聞くためだった。

 追っ手たちの話しぶりは、まるで森の化け物たちに初めて会ったかのようだった。少年が化け物を作り出したとでも言いたげだ。

 少年はようやく悟った。この醜い世界を、やっと彼らは見ることができたのだ。醜い生き物たちのすがたを――彼の目に映ったままのすがたを、ようやく人々に見せ付けることができた。

 少年は生まれてからずっと、違和感に包囲されるようにして育ってきた。悪臭のする萎れた果実をいかにも美味しそうに齧る子どもたち。蛆虫を全身から生やしたような化け物を愛しそうに撫でる男。奇声をあげては泥水を求める黒ずんだ花たちに毎日欠かさず水をやる女。理解しがたいことであったが、そもそも彼らと少年とでは、目に映る景色が違っていた。それにもかかわらず共感しようなどと望むから、余計に孤独を感じてしまったのだ。

 それでもどうにか、自分を知ってもらいたかった。少年のその願いが、人々に少年の目を与えるきっかけになった。

 その確信は一種の希望となり、少年を元気づけた。もしかすると、今このとき、追っ手たちは殺すことではなく、受け入れることを考えているのではないだろうか。

 少年の足は自然と活気付いて、追っ手の足音に引き寄せられていく。

 人々の目の前に出ると、彼はぎこちない笑みを浮かべた。

「みんな。これが、おれだよ」

 両手を広げ、一歩二歩と前に出る。人々は青ざめ、武器を抱えたまま後ずさった。

「そいつだ!」

 叫び声の後、集団の後ろから洋蔵が姿を現した。斧を構え、少年を指さす。

「先生……」

「躊躇うな! 早くその化け物を追放するんだ」

 一瞬の戸惑いのあと、人々は口々に雄たけびをあげ、それぞれの武器を振りあげた。


        *


 やわらかな暖かい風が首筋を撫でる。

 先ほどまでからからと笑い声を立てていた壁の目には、すべてに釘が打ち付けられていた。死んでしまったのか、もう声は聞こえない。それらを隠すように布を貼り付け、志保は複雑な気分で息をついた。

 ようやく静かな時間が訪れる。そのためにどれだけの悲鳴を聞いただろう。

「ねえ」

 外でもらってきた布団に、洋蔵は子どもたちを寝かしつけている。志保はその肩に手を置いた。

「聞いたよ。教え子くんのこと」

 町の混乱はすっかり収まったが、変色し歪んでしまった景色は元に戻らない。何よりおぞましいのは、変わり果てた生き物たちの姿だった。そして、それらに斧を振り下ろす男たちの罵声。

 その元凶があの少年だというのが、志保には未だに信じられなかった。

「なにも数十人がかりでやること? まだ子どもなのに」

 声の調子の変わったばかりの、あどけなさの残る顔を思いだす。想像のなかで、その顔にヒビが入った。

「ああ。やることだ」

「ちょっと過保護すぎるんじゃないの」

「過保護? 誰に」

「この町に」

 洋蔵の場合、家族だろうか。彼は昔から、教え子がつまづいて転んだだけで血相を変えて駆けつけるような人だった。志保自身、そういうところに惚れてしまったというのもあって、本当はこんな言い方はしたくなかった。

 洋蔵は幼い子たちの頬を撫で、俯いた。

「見ればすぐに化け物だとわかるさ。助けようという気持ちなどなくなる」

「化け物――」

 志保に洋蔵を責めることなどできない。少年を哀れむことも許されない。志保は彼を助けるどころか、恐れて逃げ出し、深く傷つけた。偽善で何を言おうとも、犯した罪は消えない。少年はきっと化け物などではない。ごくふつうの子どもだった。

 地獄へと追放されるにはあまりにも若すぎる。しかしながら、誰一人として庇う者は現れなかった。


        *


 一歩踏み出すたび、砂煙が舞う。右手に引きずられる斧が絶えず音を立てる。

 少年の目の前には荒れた大地と青い空が広がっていた。からからに渇いた喉が悲鳴を上げ、彼の足取りは頼りなくふらふらとしていた。

 彼は世界から追いやられた。幼いころから聞かされた地獄へほうり捨てられ、孤独はより確信的なものとなった。

 洋蔵たちに襲われそうになったとき、町の神父が少年の前に現れた。白いひげを長く生やしたその老人は、慈悲をもった瞳で少年に相対し、町から、さらには森からも出て行くように命じた。

 それから少年は人々に見張られながら森を進み、世界の端にたどり着いた。少年にはすでに外の世界が見えていたが、人々には薄い膜のようなものが見えているらしかった。それより外に踏み出したとき、神からの加護を完全に失うのだと、老人は言った。それこそが地獄なのだと。

 そして老人はこうも言った。少年はすでに神から見放され、その加護を喪失している。今より失うものはない。安心して旅立つがよい、と。

 ぼんやりと青い空を眺める。そこでは、白く輝く灼熱の球が全てを照らしていた。

 餞別として老人がくれた斧も、こんな殺風景な場所では何の役にも立たない。それなのに少年は、重たい斧から手を離せずにいる。

 地獄の業火に身を焼かれている気分だった。悪を裁こうとでも言うのだろうか、容赦のない光でみるみるうちに体力を消耗していく。人々の生活から隔離された景色だ。けれども何故だろう。身の苦しみに反して、込みあげる笑みが止まらない。彼を罰する業火は、同時に彼を祝福するようにも見えた。

 彼にとってこの時間は、まぎれもなく最上のひと時だった。

 昔からずっと、少年自身にも、人の何を見下しているのか分からなかった。

 彼はようやく気付いた。絶対に交わることのできない異質の人々に、ただ憧れていたのだ。けれどもそれを認めてしまえば、それらと異質であるはずの自身を否定することになる。そう思い込んでいた。無意識の恐怖が自身の感情をゆがめ、他人を貶めることで自らを保とうとした。

 だが、そんな間に合わせの自尊心にも限界がきた。いくら己を保とうとも孤独は消えない。憧れは日に日に膨らみ、孤独はいつしか彼に力を与えた。異質の人々が当たり前のように持つ、共感というものを手に入れるために。

 おれの見ているものをお前たちにも見せてやる。少年が手にしたのは、そういう力だった。世界も彼自身も何も変わってなどいない。そもそも世界は地獄だった。まがい物の楽園のなかで、彼はそれらの真の姿を目にしていた。

 けれども力を得たところで、決して分かり合うことはできない。少年が訴えても、誰の心にも届かない。隣人たちは彼を拒絶し忌み嫌い、地獄の外へと追放した。地獄の外の、楽園へと。

 灼熱に身を焼き尽くされ、ついに少年の足が止まった。

 これは浄化だ。祝福の業火が、化け物としての自分を浄化してくれる。新たな存在として生まれ変われる。少年は勝手にそんな想像をして、空を仰ぎ、そして倒れた。


        *


 昨日までの騒ぎが嘘のように、町の様子は元通りになっていた。生き物たちの姿が異常に少ない、ということを除いては。

 けれども、注意して観察すると、家の壁の至るところに打ち付けられた釘や、道に放り出された血まみれの斧はそのままになっている。自分たちの罪を忘れるなとでも言われているようだった。

 道の端に、踏みしだかれて無残に散った花たちが残っていた。志保はその前に膝をつき、手を合わせる。

 きゅっと口を結び、志保は立ち上がる。

 本当に少年を追放しなければならなかったのか。この問いだけは、あやふやにして終わらせるわけにはいかない。

 志保が向かったのは教会だった。町の中心、世界の真ん中に位置する、神に最も近いとされる場所。畑に挟まれた道を越え、緩やかな坂道を数十分かけて上がっていくと、教会を背景にして神父が立っていた。真っ白な空からの光を一身に引き受け、祈りを捧げている。

 志保が道の枝を踏む音で、神父はゆっくりと目を開けた。

「志保ちゃんか。頼もしくなったね」

 もう何年も会っていなかったのに、老人は一瞬の躊躇いもなく彼女の名を口にした。慈悲に満ちた眼差しに、彼女の中の緊張がほぐれる。

「きみのことだ。来ると思っていたよ」

 訊きたいことなら分かっている。そう呟くように頷き、老人は教会へ足を向ける。彼女もつづいた。

「この世界は神によって守られている。世界が楽園でいられるのは神の加護を受けているからだ」

 歩きながら、老人は空を仰ぐ。隣に並んだ志保の目には、彼の瞳が少し寂しげに映った。

「少年はその加護を、肉の皮を剥ぐように引き裂き、地獄を呼び寄せた。そうして見えたのが、あの歪んだ世界だ。黄色い目を剥く花も、皮膚のただれた獣も、本来私たちが見てはいけないものなんだ。それを少年が見せてしまった。その結果どうなったかは、志保ちゃんも目にした通りだ」

 志保の目に、振り下ろされる斧、罵声をあげる男たちの姿が浮かぶ。

 本来見てはいけないもの。つまりあれは、元々存在していたものだというのだろうか。

「それじゃ、神様はわたしたちに、まやかしを見せてるってことですか?」

「口を慎みなさい。私たちは神の寛大なお心があってこそ、この世界で生きることができるんだ」

 二人は教会の中へ足を踏み入れる。神父は祭壇の前に立ち、志保は行儀よく並んだ会衆席に座る。

「神が守るこの楽園は、そもそも人のものではなかった」

 神父は語る。この世界に初めに住んでいたのは、人々から蔑まれた化け物たちだった。体中から蛆虫を生やした動物や、からからと笑い声を立てる木々のようなものが、数百年前には当たり前のように溢れていたという。

 神は、人々に醜いと蔑まれる生物たちのために、この世界を守り続けてきた。乗り込んできたのは人間たちのほうだ。人々は醜い先客を虐げようとした。本来ならばそこで天罰を受けるはずだったが、神は寛大にも人々を受け入れた。そして先客たちを見捨てることもしなかった。神は人々から彼らを守るために、仮の姿を与えた。

「例えそれが偽りの姿だろうと、その偽りがあってこそ、人々との共存が成り立っている。何も知らなければ、ここは確かに楽園なんだ」

「でも、それじゃああの子は――」

 その平和を保つための生贄にされたことになる。

 神父は志保とは目を合わせず、普段は見せない険しい表情で、光の差し込む天窓を仰いだ。

「それが、神の御意志だ」


        *


 灼熱の輝きが地へと降りていく。青かった空が急速に暗くなり、ようやく少年は目を覚ました。けれども体に力が入らず、起き上がることすらままらない。最後の力を振り絞っても、仰向けになって空を仰ぐのがやっとだった。

 少年は息を呑んだ。見渡す限りの空に、青白い光の粉がまぶされている。まるで楽園の景色だ。

 随分前に神父に聞かされた話を、少年は朦朧とする意識のなかで思い出した。両親を失ったとき、少年はまだ幼かった。そのせいで真実を理解することができずにいた。そんな彼に話をしてくれたのが、教会の神父だった。

 楽園の中で人々は、世界の外は地獄だと教えられてきた。それを大きな声で否定したのが父だった。森の外にはさらに大きな、そして美しい世界が広がっている。父は目を輝かせて主張したという。

 けれどそれを、誰も信じようとはしなかった。そのなかでただ一人、少年の母だけが興味津々に耳を傾けた。周りの者たちはそんな二人を馬鹿にしたが、父は主張をやめなかった。そしてとうとう母を世界の外へ連れ出した。だれも見たことのない、水の塊のような果実を取ってきてやると叫んで。

 帰ってきた父は、血まみれの死体を抱えていた。

 地獄に落ちろ。隣人たちの激しい投石が父を襲った。中には武器を振り上げるものまで現れ、神父は父に地獄行きを命じた。そこまで望むなら、おまえの愛する地獄と生涯を共にするがいい、と。

 罵声や投石を受けながら、父はその命を拒んだ。妻を死なせてしまった哀れな私に、正当な罰を与えてくれ。この胸に杭を当て、突き破るまで木槌を打ち下ろして欲しい。その恐ろしい願いが叶えられることはなく、父は地獄へと追放された。

 どうしてそんな話をしてくれるのかと尋ねた少年に、神父は罪滅ぼしだと言って寂しげに笑った。

 ――真夏。

 心の奥底で、だれかの声が響いた。真夏。その言葉の意味を、少年はようやく思いだす。

 真夏は、少年の名だった。真実の親から授かった、少年の本当の名だ。

「いいかい、真夏。外の世界は、地獄などではなかったんだよ」

 淡い記憶の中の父が、少年の頭を撫でる。話に聞いて思い描いていたよりも、ずっと穏やかで優しい声。父は嘘などついていなかった。

 ここは、地獄と呼ぶにはあまりにも美しすぎる。

 その景色にはそぐわない糞尿のような悪臭が、突如、少年の鼻を突いた。すねのあたりに、森で見た化け物、もとい子猫がすり寄ってくる。

「なんだ、ついてきたのか」

 体中から蛆虫を生やしたような姿は、見ているだけでも吐き気がしてくる。神に騙されていなければ、だれもこんな動物――。

 いや、彼らこそ、愛されるべきだったのかもしれない。

「さあ、おまえは帰れ。おまえには愛してくれる神様がいるんだから」

 掠れた声でつぶやく。子猫が首をかしげる。突然思い立ったように少年の周りを走り出す。あまりの悪臭に少年は鼻をつまむ。

 跳びはね走り回る子猫に目をやる。ついて来いと訴えているようだった。

 これで最後になるかもしれない。そう思うと、不思議と動かなかった体が起き上がり、頼りない足取りながらも、なんとか子猫のあとにつづくことができた。斧を杖代わりにして体を支える。

 命を振り絞るようにして歩いた先に、巨大な穴が空いていた。穴の端に坂がつづいている。そこから降りろと子猫が示す。そこでようやく少年は、子猫の意図に気付いた。

 少年は斧を投げ捨て、坂を下る。自然と足は速くなり、いつの間にか走り出していた。

 大穴の底には、たったひとつの立派な木が立っていた。その木の下に、鮮やかな赤をした水の塊のような果実が落ちている。

 少年はそのひとつを拾い上げ、貪るように齧りついた。溢れる果汁の甘味が口いっぱいに広がり、飲み込むと、全身に、指の先まで活力が染みこむ。少年はそのとき初めて、物を食する喜びを知った。

 ひとつを食べ終え、次の果実を手にとる。赤い果実は瑞々しさを保ったままで、剥がれ落ちた幻の下から腐敗が広がることもない。

 一旦力がみなぎると、みるみるうちに生きる意志が湧いてくる。神の祝福から逃れた世界で生きていく。揺らぎのない決意が少年の心を満たす。

 大穴から上がり、森を振り返って彼は微笑む。今日までを過ごしてきたあの楽園のなかで、愛すべき隣人たちは神を崇めつづけるのだろう。

 少年は神様に見放された。完全なる自由の身だ。

 足元で子猫が甲高い音を立てる。その音で別れでも告げたのだろうか、そのまま森の方へと走り去っていく。醜いと蔑み蹴り飛ばした獣に、命を助けられてしまった。少年はくすりと笑う。神や人々に愛されてきたのも分かる気がした。

 その笑みは長くは続かなかった。

 風に乗って、低い唸り声が聞こえる。穴のほうからだった。

 少年が振り返ると、それはすぐそこまで忍び寄っていた。

 女の人の髪のように美しく流れる毛並みをした大きな獣が、少年の首を見据えている。

 黄金色に輝く瞳や艶やかな黒い毛はとても妖しげで、少年をうっとりと見惚れさせる。すらっと伸びた長い足や風格のある佇まいは、あの森の中では出会えない種類のものだった。

 黒い獣は鋭い牙と大きな爪を剥き出しにして唸る。優雅さの裏に隠された凶暴性が露わになった瞬間だった。

 彼は瞬時に理解する。この美しい獣が爪を立て牙を刺し、母を無残に殺してしまったのだ。

 外の世界は、祝福されるばかりではない。神の保護を逃れ自由を手にした以上、自らの力で生きていかなければならない。

「上等だ」

 少年は傍らに落ちていた斧を持ち上げ、構える。

 黒い獣は黄金色の目を光らせ、身の毛もよだつ咆哮をあげた。





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