第5話 王女シェラ・エスファナの諫言
少年が学院に帰ってしまい、その日は王妃が公務に出たので、国王は無為な時間を庭を散策して潰していた。
よく手入れされた芝の上で、日の光を浴びて目を閉じているのは心地良かった。
ほんの少しの間、眠りに落ちていたのだと思う。
日差しが陰ったのを感じて目を開けると、そこに少女の顔があった。
「陛下、屋外は寒うございませぬか」
国王は、眼前の少女のアシャが顔に掛かるのを手で払った。
アストレーデ教圏の古い宮廷流儀として、上流の女性はアシャと呼ばれるヴェールで顔を隠すことが慣例になっている。だが、古式の宮廷装束以外では、昨今はあまり遵守されぬ作法ではあるが。
「妹君に陛下と呼ばれたくはないものだよ、シェラ。公式じゃないのだから」
そう云って、面倒臭そうに、また目を閉じる。
「東宮に来ると、王太后様の気に障るのではないか。早々に帰るがよい」
「お兄様にしか話せないこともあるのです。聞いていただきたくて来ました」
少女は、素っ気ない国王の態度に、気分を害した風情で云った。
「そうか。なら、手短に話せ」
「では、率直にお聞きします。お兄様は、ライラ様を愛していらっしゃいますの?」
突然の問いに、国王は返答に窮した。
「いきなり、何を…」
身を起こさざるを得なかった。
「お兄様だって、宮廷に一夜の情けをお与えになる方がおいでと聞きます。
王妃様に対して、気の毒とは思われませんの?」
国王の妹、王女シェラ・エスファナは十三歳。思春期真っ盛りである。
軽く咳払いして、王女の質問の意図を考える。
「どうして、そんな事を聞く」
「私とて、じきにアールシャドに嫁ぎますのに。
皇太子殿下は、すでに懇意の方がおいでと伺っております。私はどのように自分の立場を考えればよいかと思いまして、お兄様のご意見と今のお気持ちをお聞きしたいのです」
「嫁ぐといっても、あの国では十七歳にならなければ正式な婚姻は成立しない。
シェラは女子修道会の預かりとなり、希望すれば帝国大学女学院に編入もできる。
皇帝家の人権も一般と変わりなく保証されているから。
それに、ティムジン皇太子は真面目な方だし、現在付き合っている方も妾妃としてお迎えにはならないそうだ。
学生時代の恋愛なんて、市井の人々にはほんの通過儀礼に過ぎないよ。学校に入ってクラブ活動とやらをするのと一緒の事なんだろう。住む世界が変われば、人間関係も変わる。
シェラが気にする事ではない」
それでも、少女の恐れを知らない純粋な瞳が国王をとらえたままだ。
「妾妃として、宮廷に入らないとおっしゃいましても、人の気持ちとは、そう簡単に変えられるものでございますの?
つい先日まで心を通わせた方を、次の日から他人だとあっさり気持ちを切り替えてしまうような、そんな心根の方だとしたら、そのほうがもっと嫌です」
「シェラ、いいかい。王と王妃というのは、いうなれば、恋愛というよりは職業だ。
我々は、その職業を課せられているに過ぎないんだよ。
だから、リオン皇太子は、あの性格でおいでだから、シェラがご自分との恋愛対象ではないと思えばお前はお前なりの気持ちの許せる相手を探したからって、何か仰る方ではないよ。割り切ってしまえ」
「たとえば、お兄様。
私がもし、ルーサザン公に嫁いだフェイレンリーリア王女のように、アールシャドに嫁ぐのは嫌と云って、ダリルディーンを連れてきて、これと結婚すると宣したら、お兄様は私たちをお守りくださいますか」
「……ギルと結婚するって?
無理だな。ギルは、修道士として修道宣誓をしている。現状ではだれとも結婚できない。 余としても、アールシャドとの盟約は大事だからな。今は国情的にもお前を保護してやれる状況にはない。我慢して嫁げとしか云えない」
国王は、説得に別の理屈で応じる妹がやや疎ましく思えたが、王妃の事を思えば、その理屈はいささか愛おしく思えてくる。
「いいかい、シェラ。
なぜ、正妃が必ず古家の者か、おまえは理解しているか?
それは、王や皇帝が、アストレーデを担うからだ。
アストレーデを担うという事は、国の痛みを背負う事に他ならない。
その意味と重みを理解できるのは、古家の者しか居ないのだ。
だから、アールシャド皇帝の皇帝たるを支えるのは、皇后しか居らぬのだ。
それが古家たる者の義務。
理解せよ」
それは、兄としての言葉ではなく、王としての言葉であった。
言葉の重みの違いを理解したのか、王女はもう理屈は捏ねなかった。
「それでは、お兄様。
お義姉様にお優しくあられて頂きとうございます。
ただ、お義姉様お一人を思われるべきだと」
「お前は、人に誠実を望むのか。
人には、業というものがある。
思うように生きられるなら、人は迷いはしない。
……憶えておきなさい」
国王は、少女の頬に触れた。
「お兄様、それを逃げるというのです」
「お前は辛辣だ。
やはり嫁にやるべきではないのかもしれないな」
王女がかくも執拗に、王と王妃の関係に誠実を求めるのは、少女らしい真摯さのみの事ではない。
国王と王女の産みの母、ミスチア王太后の在りようが大きく影を落としているのに他ならない。
「云っておく。余は、王妃にのみ誠実な男だ。それは誓えるよ。
そして、お前は、私も、王太后様も許しはしないのだろう。
母上は、寂しいお人だ。この国を憎んでおられる程に」
ミスチア王太后が、この国を緩やかに死に至らしめる理由。
王太后が嫁いだのは、十三歳の事だった。故国に、幼い純愛を交わした相手が居たが、アストレーデのしきたりに従い、自分を捨てて嫁いできた。
そして子を成したころ、ミスチア王妃を守るべき前王は、ひとりの妾妃を宮廷に入れた。
素性の難しい相手だったので、前王は余計に思いを深くして、王妃への配慮を疎かにした。
ちょうどその頃、王女フェイレンリーリアがファーマムール王国への輿入れを嫌がり、ルーサザン公爵の元に身を寄せる事件があった。
ちょうど自分の境遇と重なった王は、王女とルーサザン公爵との婚礼を許し、そしてその代償として、ファーマムール王国からの盟約破棄を受けることとなり、両国の関係は混迷の中に叩き落とされた。
ミスチア王太后は、王の妾妃を迎えた事による裏切りよりも、フェイレンリーリア王女の我が儘が許された事に、大きな衝撃を受けた。アストレーデによる婚姻の条約は決して違える事を許されない掟。
その我が儘が許されるなら、ミスチアは王妃としてラーフェドラス王国になど嫁いだりはしなかったものを。
その一件から、父王と母王妃の関係が軋み始め、そして母王妃がまだ幼児だったカーレルを抱きしめることが無くなり、そして、息子と母の溝も深くなっていったのを憶えている。
母は、国王であるカーレルを国政の場に出さぬのは、決して王としての能力を認めていないからではなかった。認めているからこそ、王の王たるを許さぬのである。
最初の無垢な恋愛を奪われ、そしてまた楯となる王すら奪った宮廷と国を、ミスチア王太后は愛する事などできなかったのだ。
その事実自体は、王女は知っている。だが、そこにある人と人との深いところをどれだけ理解しているのか。
「お前にとって、この国はどう映る」
「国は、個人の持ち物ではございませんわ、お兄様。
人の情の事など、国の民には関係ございませんもの。
お母様も、お兄様も、国を愛していらっしゃらない。
ご自身をのみ哀れんでいらっしゃる。
王妃様が泣きはらした眼をなさって、普段より濃いアシャを被って公務にお出かけになったのをご存じですか。
私はお支度の間に参上し、この前頂いた髪飾りのお礼にまいりましたの。
お義姉様がお労しい。
お一人で、この宮廷をあるべき形に支えていらっしゃる。
王妃様をお守りするのは、お兄様の務めです。
国を憂うより他に何もなさらないのなら、せめて王妃様にだけは、お優しく、支えて下さらなくては」
まだ幼い姫とばかり思い込んでいた国王は、王女の言葉に打ちのめされた。
わずか十三歳であっても、嫁ぐ日を前にして、国王の公務を王妃が、その公務に重なる王妃の公務を王女が務めるうちに、深く思いを巡らせ、見識を養っていったのだろう。
「若輩の身で、出過ぎた言葉でございました、陛下。
不愉快と思われましたら、どうぞ処分を下さいませ。なれど、陛下は聡明なお方。
これを一族の末席の者の言として、お心にとめて下さいましたら幸いでございます」
王女は威儀を正し、上位の者に対する跪礼の姿勢で深く頭を下げた。
国王は立ち、君主としての立礼をもって受けた。
「……王女の言葉は正しい。
先ほどの言葉は撤回するよ。
皇后に相応しい見識と知性を持っている。
その言葉、余は肝に銘じておこう」
国王が手を伸ばし、妹を立たせると、建物のほうから人影が寄って来た。
「ご歓談中、失礼致します」
離れた場所で跪礼した彼女は、昨年より王女の教育係に加わった、帝国大学教授カレン・メイベル女史である。
アールシャド帝国の前皇帝のブレーン兼上級女官として伺候した人物であり、本来なら皇太子の教育係の一人に加わるべき人材である。それを敢えて王女の許に寄越したのは、帝国の宮廷儀礼に明るく、そして短期間で帝国議会に皇后と認めうる最高の教養を叩き込める女官職の女性は他に例がない。
普段は、王女自身が西宮より出ることが少ないので、その細身の黒の連邦風パンツスーツをトレードマークにする女史の姿を見るのは、数える程にすぎない。
「王太后様が、国王陛下のお邪魔になりはしないかと仰せです。
至急、西宮にお戻り下さいませ」
「王太后様のお迎えだ。
早くお行き、シェラ」
「ええ、そう致しましょう、お兄様」
王女が、メイベル女史の許に駆け寄った。
「メイベル教授」
国王は女史を呼んだ。
「そなた、優秀な教師であるな。
王女の言葉により、余の国の姿の外からの姿が見えた。
余は成さねばならぬ事、成しては成らぬ事の判断が付きかねていた。
だが、その件について、深く考えるべきなのだろう。
正しい見識を王女に与えた女史に深く感謝する」
王女に遅れて、その方に進み出た国王は、女史に云った。
「勿体のうございます。この身はただ、事実ばかりをご教示したに過ぎません。
ご理解なさったのは、あくまで王女様、リン=レーゼタークの聡明さゆえでございます」
女史は宮廷儀礼に従い、深く頭を下げ、答礼を述べた。
「シェラ。お前の兄は莫迦者だ。
この宮廷に、余を支える者が居ないとばかりに思っていた。
余は、何も見えてはいなかったのだな」
「ええ、お兄様は、お莫迦様です。
それでは、ご機嫌よう」
王女は女史を従えて、スタスタと去って行った。
幼い妹の意見に目が覚めた思いだった。
いや、幼いからこそ、率直で迷いもない。
国王はその純粋な心に報いたいと思った。
現在の宮廷と施政を変えるための最も大きな権力。
昨日、王妃にそれを求める可能性を否定しておきながら、その方法が最も効果的であり、そして、他に手が思いつかない。
昨夜、王妃に扇で打たれた後の痛みを思い出し、自分の頬を撫でた。
あの痛みが愛おしいと思う。