第25話 戒律と遵守の狭間
ファーマムール王国の宮廷。
アギール公爵は、奥の部屋へと入った。
小さな男の子が、輸液装置を装備したベッドに横たわり、深く眠っている。
先に入った子どもの母、ルーリアは、筋肉が削げて細く頼りない小さな腕を取り、云った。
「トランザール大公、もうお役目は終わりです。
私のクラウサリに戻っていいのですよ」
優しい声で呼びかけた。
アギール公爵は、廊下を行き来する侍女、侍従らに目で合図すると、その者たちは、音もなくベッドを取り囲む宮廷侍医と看護師らを拘束した。
「リン=ルーレンシア。ドクターです。
一切の処置を担当して戴きます」
ルーリアは、医師を迎え、略式の挨拶を受けた。
「よろしゅうございますね」
医師の問いに、ルーリアは答えた。
「どうぞ、この苦しみから、私たちを解放してください。
おねがいします」
ルーリアは、立っていた位置を医師に譲った。
「それでは、ドクター、打ち合わせの通りに」
アギール公爵は、ドアのスイッチに手をかけた。
「私はサラディン殿下のところにご挨拶に。
穏便に逃げる手段を講じてまいります」
そう言い残して出て行った。
サラディンは、執務室に居た。
アギール公爵を待ちわびていたようだった。
「何処に行っていたのだ。この肝心な時期に」
「わが主のご容体がすぐれませんでしたので、見舞ってまいりました」
「何も、このような時に」
サラディンは嘆息した。
「それで、現在の状況はどうだ。
ラーフェドラス王国軍の援軍は、まだ到着していないようだが」
「指揮系統の乱れは事実のようです。
もう少し、統制されていると思いましたが。
王太后の元に遣わしたエル・シドの報告でも、最高司令官と、軍務大臣の仲は、表だって険悪なわけではございませんが、内情はそうとう亀裂が入っている様子でございます」
その時、アギール公爵の端末にメールの着信音が届いた。
懐より端末を取り出し、内容を一瞥するとメールと添付資料をメインモニターに投影した。
「我が軍は、そろそろ引け時のようでございます。
側面から、完全装備の通常編成艦隊が出現、敵本隊も、援軍四個艦隊で充分な防衛壁が出来ているとの事。
我が軍の経済的損失は、開戦前の八パーセント。十二パーセントを超えますと、実質、組織としての各人への補填費用の限界を超えますので、もしいくらかでも勝算があるのならともかく、これ以上は単なる浪費。
生産的行為に繋がらない戦争は、意味がありません。
国家が行う戦争は蕩尽と破壊を惜しみません。しかし、実質として、国際的な経済活動を支援する側の我々がそれを認めることは、自らの存在意義を見失うというものでございます。
これにて退却致します」
「戦費なら、いくらか負担するが。
一応契約だからな」
「誠に恐れながら、それは契約中の話でございます」
アギール公爵は、恭しく頭を下げた。
「我が主、トランザール大公は先ほど身罷りました。
今日まで、トランザール大公の保護を戴いていた我々でございます。その代償として、殿下の個人的な兵力として、お役にたつことに務めてまいりました。
ですが、トランザール大公亡き今、我々は殿下のお役目を戴く謂われも無くなりました。
よって、アギールと殿下の間には、もういかなる契約もございません。
リン=ルーレンシアともども、この宮殿からの退出をご許可いただきたい。
アギールの者はアギールとして、一族で葬儀を行いたいので」
充分に時間を稼いだと見たアギール公爵は、サラディンにそう告げた。
「トランザール大公が亡くなったというのは、事実なのか」
「どうぞ、ご自身でご確認を。
リン=ルーレンシアが、痛みに苦しまれる公を見かねて、認定医師を呼び安楽死をお選びになりました。
元々、細い命を無理矢理引き延ばしていたのです。
これ以上は自然戒律に違反する。違反すれば公はすべての称号を失う。
自然戒律を遵守しても、もういくらも命は長らえることは叶いませんでした。
そのことは、充分ご承知だったのでは」
サラディンは、鬱積した表情だが、感情を堪えて静かに云った。
「わかった。
ひとまず我が目で確認しなければ。だが、私は、リン=ルーレンシアの身柄も保護していたつもりであるが」
「我々は、アギールでございますれば、トランザール大公にお仕えするものであります。
いかに、前トランザール大公の妹君であり、無き公の母上様でありましても、トランザール大公への忠誠を越えて、その方自身をお守りする義務はありません。
もし、リン=ルーレンシアの身柄をこのまま殿下がお預かりしたいと仰せなら、どうぞご随意に。
それでは、私は、即時停戦と退却の命令を出します。
そして、艦隊をファーマムール領内を通ってタリアンファットへ向かい、そこで解散させます。
さすがに、現状でラーフェドラス王国内は通れませぬから。
それくらいは、ご許可して頂けますね」
アギール公爵は、サラディンの無言を了承として、サラディンを伴いルーリアらの幽閉されている部屋に伴った。
ベッドの上の少年には、もはや血の気もない。
サラディンは、少年に手を触れ、そして心臓の音を聞いた。
そして、すでに拘束を解かれた周囲の宮廷侍医らに状況を訊いた。
「はい。
そちらの医師が、我々が拘束されている間にトランザール大公に何やら輸液を」
「お前たちも確認したのか」
「はい、現在のバイタルモニターでは、生体反応はございません」
「それでは、致し方あるまい」
サラディンは、腰にした儀礼用の剣を抜いた。
そして、少年に突き立てようとする。
ルーリアが小さく叫んだ。
その剣を、アギール公爵が素手で受け止める。
「何をなさいます、殿下。
いかに身罷られたとはいえ、我が主の身体に傷をつけますのはお控えいただきたい」
制したアギール公爵の手の中から血が滲み、少年のブランケットの上に滴った。
「古代であれば、首を切り落として確認したものを、だだ剣にて貫くのをなぜそう慌てて止めねばならぬ」
「お母上の前でございます。リン=ルーレンシアの気持ちを考えれば、かような真似は出来ぬはず。
それとも、サラディン殿下は、人としてのお情けはお持ち合わせでいらっしゃらぬか。
とても慈悲深きエストリダ大司教の兄君とは思えぬ所行でございますな。
我々は、この葬儀を、わが同胞の本拠を置くタリアンファットにて行う所存でございますから、当然葬儀はエストリダ大司教にお願いするべきと考えておりました。
もし、この幼い我が主の身体の傷をお見止めになり、その所以をお尋ねになられたら、私は真実を申し上げるが、よろしいか」
弟の事は、サラディンには大きな弱みであった。
アギール公爵は、その事を良く知り尽くしているので、交渉材料にはなる。
「仕方あるまい。
あいつの名を出されてはな」
「それでは、退出のご許可を」
「手荒な死亡確認は赦してやろう。
その代わり、二十四時間宮殿内にて留め置き、再度死亡を確認した後、退出を許可する」
「では、リン=ルーレンシアの処遇はいかがなさいます」
「好きにするが良い」
サラディンは苦い顔で部屋を出て行った。
アギール公爵が連れて来た医師、彼の名はオズといい、修道会が示した自然戒律の違反の境界を認定することのできる医師である。自然戒律を犯し、延命治療を行う、あるいは、行ってしまった場合、その身分に留まることが出来るか否かの判断をする。
彼は、アギール公爵の依頼を受けて、自らここまで来た。
そして、今、少年を仮死状態までバイタルサインを落とし、死を偽装した。だが、この状態で長く置くことはできない。
サラディンは、仮死偽装の可能性を考慮して、二十四時間の時間を設定したのである。
そして、周囲には本来の宮廷侍医らがおり、工作は難しい。
「さて、宮廷侍医の方々」
ドクター・オズは云った。
「さすがに、私を売るような輩はおらぬようじゃな」
ドクター・オズは、少年の身体に別の措置を施すと、一時間ほどでバイタルサインは元に戻り、安定した。
そして、侍女に変装していた者が押してきたワゴンの下の、引き出し部分をゴトッと外した。そこには死体とおぼしきものを取りだした。
「これは、連邦領内から手に入れたバイオロイドで、顔だけすげ替えた」
ルーリアは、それを見て、顔をそむけた。
「アギール公、これをお持ちくだされ」
ドクター・オズは、バイオロイドをアギール公爵に手渡した。
そして、ベッドで眠る少年を抱き、箱の中に入れた。
「少々きつうございますが、暫くの辛抱でございます」
少年は、薬によって深く眠ったままである。
小さくなっている少年はすっぽりとその中に納まり、ドクター・オズはワゴンを元の形に戻した。
一方で、アギール公爵は、バイオロイドをベッドの上に寝かせた。
宮廷侍医たちは、一連の事をただ見守るだけであった。
なぜなら、ここで通報すれば、ドクター・オズが捕らえられる。
宮廷侍医らも、王族、古家の診察にあたるので、認定医が何名かいる。
彼らは直接でなくても、ドクター・オズの弟子でもあるのだ。
そしてまた、医師として、現在のトランザール大公である哀れな少年に、真に同情する気持ちもあるのだろう。
ドクター・オズは、変装した侍女の数名にワゴンを押させ、退出させようとした。
「廊下には、この部屋を見張る監視がいるでしょう。
私がご一緒します」
宮廷侍医の一人が名乗り出た。
「さすが、いい心がけであるな。それでは、お任せしよう」
ドクター・オズは彼らを行かせた。
そして、後を追おうとするルーリアを止めた。
「さて、リン=ルーレンシア。
貴方は時間ぎりぎりまでここに留まらなくてはなりません。
その間に、トランザール大公をできるだけ遠くまでお逃がしします。
あなたは、いうなれば囮。
ここに大公がいるという証であります。
あのバイオロイド、いささか気色の悪いものではありますが、あれを大公と思って大切になさるのです。
どこまで逃げられるか、それは貴方にかかっています。
大公は、宇宙艇まで逃げ延びたら、私の部下が早速延命処置を致します。
絶対に、またお引き合わせしますので、どうぞ我々を信じて戴きたい」
ルーリアは頷いた。
アギール公爵とドクター・オズが見守る中、ルーリアは母としての務めを果たすべく、ベッドの横に座った。
六時間後、アギール公爵の端末が鳴った。
一同は、バイオロイドを置いたままその場から脱出した。