第1話 ラーフェドラス国王の退廃
夜半を過ぎて、冷えた風が肌を撫でてゆくのに目を覚ます。
女と寝ているのに、この肌寒さには耐えられないのが不思議だった。
常夜灯のほのかな光が、青く室内を照らす。
迷宮のようなこの宮廷の、いくつもの隠し部屋のひとつ。
情交の余韻は唇にも、肌にも残るのに、焦燥感と氷が身体の奥に突き立てられているような心地に、耐えきれずにベッドから抜け出した。
着衣して、眠る女にもう一枚毛布を掛けて、そして空調が管理された設定温度になっているのを確認して、声も立てずに嗤う。
寒いのは気温じゃない。
自分の皮膚感覚が狂っているだけなのだ。
音も立てずに、その部屋を出る。
天窓から指す月の光。
天井が高すぎる回廊。
しんとした空気に、王はため息をつく。
小さい頃は、よく迷子になった。
侍女に手を引かれなければ、すぐに知らない場所に出てしまう。
途中で母親に会って、側に寄ろうとした時、母親はまだ幼かった少年を近づけず、すぐに側近に部屋に連れて行かせた。
なぜ、あんなに迷子になったのだろう。
侍女の手を離さなければ、駆け出さなければ迷わなかっただろうに、どうして。
そこは、西宮と東宮の中間の大ロビー。
現在、西宮はミスチア王太后、尊称リン=ガーレンディラの住まいであり、東宮は王と王妃の住まいである。
ロビーの中央に、噴水がある。
夜の間も、水は絶え間なく落ちる。夜間は幾分控えめになるように設計されているが。
床は大理石とタイルによって国土を現すデザインがされている。
ラーフェドラス王国は聖アムルテパン修道会の総本山が置かれる。
全アストレーデ教圏において宗主国の権を持つこの王国の主はまだ十七歳であるが、王位を継承してすでに七年。若年にして即位したが故に、王太后による摂政政治の弊害により宮廷及び議会の腐敗は酷く、そして宮廷人たちの権力争いと混乱する国政ゆえに、国情は荒廃していた。地域紛争の芽も絶えず、利権におぼれる軍人たちは役に立たず、各地の治安は修道会と騎士団によって辛うじて守られている状況だった。
国王は昨日紛争が起こった場所の地名のタイルの上に立ち、五体投地の祈りを捧げる。
流された血を思えば胸が苦しい。
無力感と寂寥感、思うことしか出来ない自分に憤怒する。
贖罪の思いは絶えず、自責の矢が己を苛むにしても、失われる命の尊さや悲しみに比べれば、どれほど小さなものか。
人の前で追悼の言葉も、祈りの姿も見せたことはない。
何も出来ないのなら、無慈悲で冷酷で、民を思いやらない愚鈍な王と誹られるほうがいい。そのどちらでも同じことだ。
費やされる命の量が変わるわけではないのだから。
「我が神ライドよ。
御身が太陽の光の情け、大地に降り注ぎたもう。
熱き矢をもって、地の厄災を払いたもう。
我が血、我が肉を御身にささげ、地に平安の満ちるを願う。
我、この地の国主なり。
我が名によって、地に贖う。
我が命によって、天に贖う……」
祈りの言葉は、水音にかき消され、何者もその祈りを聞くことはない。
祈りを終えて立ち上がり、床に描かれた国土を見渡す。
いくら物思いにふけっても、そのような事が無意味な事を知っている。
必要なのは祈りではない。この荒廃を拭う力を、国王は必要としていた。
西宮から、人影がやってくる。
その姿に、国王は心当たりをつけた。
「ライール卿もお散歩ですか」
少年の方から呼びかけた。
「これは、国王陛下」
呼ばれた男は、その前に跪いた。
「母上様は、お休みになられましたか」
「はい。ごゆっくりお休みでございます」
シド・エルバン。まだ二十代前半だが、三年前ライール赤貴爵の地位を得て王太后付きの侍従となった。早い話が、愛人である。
「ライール卿は、今宵は不寝番ですか」
「はい。リン=ガーレンディラのご命ですので」
「有能なのだな、卿は。母は、心の寂しい方だ。
卿のような忠義の者が側に在るのは、きっと良い事なのだろう」
空虚に響く声は、それでも噴水の水音に消されている。
「陛下は、まだお休みにはなりませんので。
夜更かしはお体に障ります」
「女官に寝かしつけてもらったが、目覚めてしまってね」
シドは、懐に手を入れ、一つの包みを取り出した。
「御前に参ります機会があれば、と用意しておりました。以前差し上げたお薬がもう無いのではと思いまして。
これできっと良く眠れましょう」
国王は唇の端を噛みしめて、そしてその身の震えを押し隠して包みに手を伸ばした。
「気が利く奴。本当に良い下僕をお持ちだな、母上は」
言葉を口にするたびに、痛みを感じる。
それが何処なのかは解らない。
緩やかに、闇に捕らわれていく。
そう、此処は深い井戸の中だ。
寒いのも、焦燥感も、薬物依存によるものだ。
十五歳の頃までは、自分が成人したら少しでも国情を良くする事に対してまだ希望を持っていた。学者も積極的に招いて、知識を得る事にもどん欲だった。
だが、国王が政治に参与したいと願い出る度に、王太后はそれを諫めた。まだ経験が浅い事を理由にして。やがて形ばかりの閑職を与えられ、王太后は完全に国王を宮廷の中に閉じ込めてしまった。本来の政治の場から興味を失わせようと、臈長けた女官が次々と東宮に配置され、芸人や様々な娯楽メディアを王に与える。
もし、女たちに手を付けなければ、今度は精神的に破壊する手段を取られ兼ねない。まさか薬物まで、とは思いたくもないが、王弟は今年十歳を迎え、自らが王位を継承した年頃になろうとしている今、己れを腐らせ、廃王に追い込む事を画策していてもおかしくはない。
そして、何よりも、国王は王妃を守りたかった。
聡明な王妃は誰よりも活発に公務をこなす。今や、王室の存在感は彼女をもって支えられているといってよかった。だから、王妃を諫める権利を持つ国王が、王太后の手の中に在ると思い込ませることは、とても大切な事だった。
だから、享楽に溺れるふりをする。心の奥では、少しも楽しんではいないし、むしろ苦痛だ。難解な数式や理論に埋没するほうが、いくらもマシである。
だが、国王に薬物をもたらしたシドの考えは別のところにあるように感じる。
シド自らの保身のみを考えるならば、息子にとって、母親の愛人は消してしまいたいほど嫌な存在である。よって、国王を薬漬けにして特別な立場を得る事で、追われぬように算段するつもりなのだろうか。
もし、自らの保身ゆえでないなら、背後にはもっと他の意志が働いているのだろう。
背後に居るのが王太后というのはあり得ない線ではないが、最も薄い。
なぜなら、王弟にアストレーデ聖典が開示される保証は無い。アストレーデ聖典が開示されなければ、王権は別の王位継承者に渡るからである。
現在のところ、国王には修道会の保証付きで確実にラーフェドラスアストレーデが開示されており、そして心を許す権力を持つ側近は居ない。さらに王弟にアストレーデを継承させようとすれば、修道会の干渉を受けざるを得ない。現状を維持する事のほうが得策なのだ。
夜の宮殿の散策を終え、自室に戻る時、王妃のフロアに立ち寄った。
王妃の寝室の扉の前に両膝を付き、大理石の床にキスをする。
本心をこのような形でしか表せないにしても、王妃のみが、この宮廷においての少年の真実である。
少年が自室に戻ると、副女官長メイラ紅貴爵夫人が拝礼して迎えた。
「お着替えをなさいますか」
少年は言葉を言わず、ただ両手を方の高さまで差し上げた。
着衣を脱がせ、用意した夜着を着せる。細身で長身の少年の世話をするために、副女官長は少し背伸びをしなくてはならなかった。
「肌に紅がついておりますが」
「いいよ、放っておけ。
さっきの娘には、いつもの通り手配を」
少年は、手を付けた女官はその夜のうちに宮殿を追い出させた。追い出す女官の親には、それなりの官位やら、事業やらが与えられるが、そこに感情が介在することは無かった。
「はい。侍従に申しつけておきます。
今夜は御酒は嗜まれますか」
「ああ、軽いものでいい。ソーダ割にしてくれ」
副女官長は果実リキュールをソーダで割ったものを用意し、脱いだ服を衣装盆に入れて退出した。
ベッドの横に置かれたコップの中に、先ほどシドから手渡された包みを開け、結晶をひとかけら落とす。
泡立って溶けてゆくのを待つ間に、包みを引き出しの奥に仕舞う。
そして、それを飲み干して、ベッドに横たわり目を閉じる。
王妃が笑う。夢に落ちてゆく向こうで、優しく少年に笑いかける。
夢の中でしか、その笑顔を抱きしめることを許さない。それが自身に課した罰である。
「僕は明日もきっとあなたを怒らせる」
抱きしめた王妃の耳許で囁き、耳朶にキスをして、それから……
夜がまだ明けきらぬうち、国王は目を覚ました。
国が上げる悲鳴が聞こえたので。
アストレーデが開示されるという事、すなわち、国が己の血肉そのものとなる。
銃声も、悲鳴も、身のうちに起こる事だから。