第15話 死の王国
……長い旅路であった。
それは、王女達が砂丘で泣き暮らしていた日々を過ぎ、王子が生きながらにして砂に埋められていた日々を過ぎた。生きている屍が、二人の心を乱した王女を連れて旅する姿は、誰の目にもとまることは無かった。その砂丘は人の住む場所では無く、人の至れる領域でもなかったゆえに。
砂丘の奥地には、地上を守るを任された神々でさえ、決して入ろうとはしなかった。その地は神々の皇帝たる黒き龍の后、この世界の創世者たる鬼神アーヤキの住まいであった。
その砂丘は水もなく、食べるものもない。木乃伊となった王子はともかく、王女達には苦行であった。だが、三人を歩ませているものは、生きながらに砂に埋もれたナーダヴィラの民の苦しみと、憎悪の炎であった。
そしてようやく、鬼神アーヤキの宝珠の城に至り、巨大な門の前に立った生きる屍となった王子に、姿定めぬ門番は問いかけた。
「何者ぞ」
王子は応えた。
「我は苦しむ者、生ける苦しみを知る者、生きながらに屍となった者、屍となっても生き続ける者」
「その姫たちは」
「この者たちは我が妹たちにして、悲しむ者、悲しみを知る者、悲しみながら我を失った者、我を失いながら悲しみ続ける者」
「この城に何用か」
「生きるより他に知らぬ我らと我が民の苦しみを解き、悲しみを絶つこと乞い願うものなり。
創世の神にして、黒き龍の后たる、鬼神の前に乞い願うものなり」
門番は、しばしの沈黙ののちに是れに応じた。
「汝らは砂の王国ナーダヴィラの王子カーラギルス、そして二人の姫らは、ナーダヴィラの王女ガルディナーダとルワナラーダであると認めよう。
我が主の許しは得たり」
門番が門を開くと、夜の天幕のなかにあまたの星の灯火が輝く広間を進み、玉座の前に出た。
一人の背の高い男が戦士の装束で座していた。
「我が名はアーヤキ、いかが致した、王子らよ」
玉座に在る少女が云った。
「我が王国、ナーダヴィラを襲った厄災をご存じでありましょうや」
ひからびた老婆は応えた。
「この身は、今し方まで黒き龍の御前にあったゆえ、地上の事など預かり知らぬ」
臈長けたつややかな唇をして、艶然とした声が城に満ちる。
鬼神は姿を定めず、様々な者に変じてゆくが、それはいずれも鬼神の真の姿。
アストレーデの世界の以前、滅ぼした世界に在って喰らった者たちの姿であると伝え聞く。
王子はナーダヴィラに下った変事についての事を語り聞かせた。もとより鬼神は厄災の下った時より知っていたが、王子の語りに耳を澄ませた。
王子の語り終えて後、鬼神は聞いた。
「王子よ、そちに問う。何を求める」
「生きる事しか知らぬ地中の民の苦しみを除いて頂きたく」
「ナーダヴィラはもとより余を崇める地。余を崇める返礼に、余が守護を与えし地。
かの地を滅ぼすは誰ぞ。
王子よ、かの者の名を云うてみよ」
問われた王子は鬼神に告げる。
「この身、もはや一介の屍なれば、その者の名も知る由はございませぬ」と。
「ならば、云って聞かせよう。それは森の王国ニーヴァの向こう、アリアンテュレスの丘に生まれた淡い娘の、その一族の仕業なるぞ。
かの娘の名はラティザリと云い、眼の閉じたる青白き肌をした色のない髪を持つ娘である。
さて、王子よ、再び問う。
汝、かの者とその一族に、何を与える」
王子、空洞となった眼に怒りの光を宿して云った。
「至上の不幸の種を」と。
「王子よ、そちは王女らに命じ、その者達に不幸の種を蒔くを許す。
そして王女らが復讐の種を蒔く間、我は砂に埋まりし汝が王国に赴き、かの王国の王となろう。
そして、汝が国を生きる事から解き、それを『死』と名付け、『死』の訪れた者の住む王国としよう。
そして、汝に新たなる称号を授けるものなり。
汝、王子カーラギルスよ。新しき称号『死の宰相』の権威を以て、かの国を采配せよ」
王子と王女らは、その声とともに元の国へと帰還していた。
かくて、死の王国はこれより誕生したのである。
『アストレーデ神話集より抜粋』
ラヴィロアは、マーブリック大司教として修道会の正式な書面を携えて、総教主を補佐する副教主他数名を従えて王宮を訪れた。
国王は玉座の間にてこれに応対し、ラヴィロアはそれを頼もしく見た。
ラヴィロアは、その席でグランヴィルの大聖堂の下見を願い出た。
一同でグランヴィル大聖堂の施設の点検を行っていると、東宮からの使いの者が来た。
王妃が庭での午後のお茶に、ラヴィロアを誘ったのである。
ラヴィロアは一人で、東宮に至る回廊を降り、国王の居住部分の庭へと至る迷宮作りの植え込みの小道を歩いていたが、ふとの途中立ち止まった。
「ライール卿、いるだろう」
ラヴィロアは、植え込みの向こうに声を掛けた。
「見え透いた罠だね。
修道騎士団のトップの私が、ずいぶんと嘗められたものだ。
きみが仕掛けたとは思えない。当然、王太后派の間抜けな者にやらせた事だね。
でも、きみは、私がこれくらいの罠には掛からない事を知って、そこに居るはずだよ」
その言葉は、ファーマムール古語であった。
しかし相手の気配は無い。
だが、ラヴィロアは話し続けた。
「きみが手を下して、その後でこれを利用すれば同じ事だからね。
でも、きみが私に手を下す必要はない。
君の手は、アギールの一族の誇りの刃だ。
エプタプラム公爵のものでも、ましてや、王太后のものでもない。
きみが、私の知るアギール公爵の三男、ファルティア伯爵エル・シドであればの話だが。
その手は、今は穢すべきではないよ。
これは私の王女様とお揃いだし、悪くないと思う」
ラヴィロアは、多少色の違う地面の上に一歩踏み出そうとした。
「ああ、それから忠告だが、女など、世界にはいくらでもいる。
つまらない事で身を滅ぼすな」
次の瞬間、爆音と共にその場は灰燼に包まれた。
植え込みの裏に、シドは居た。
その瞬間、彼は猛然とその場を駈け去った。それでも、被っていたフードの外側には、灰燼が付着していた。
そして、血の跡も。
人が走り寄ってくる気配を感じ、身を隠しながら西宮への道をたどる。
途中、庭園管理木屋に立ち寄ると、爆破の音を聞きつけ、様子を見に行ったらしく、誰も居なかった。
枯葉を燃やすための焼却炉には、たまたま火がついていて激しく燃え盛っていた。
シドは手にしたフードを焼却炉に放り込み、燃え上がるのを確認した。
そして、侍従の控えの間に戻った。
鏡を見ると、頬に血の滴が一滴付いていた。
位置的に、どうしてそれが付いたのか解らなかったが、指先でそれを拭うと、手を洗い、白い手袋を付けた。
廊下を駈けてくる者の足音がする。
東宮での出来事を伝えに来たのであろう。
それがシドの手を汚さずに行われたという事実を、証明する者は居ない。
それを望んだ二人の主の、二つの密命はそうやって同時に叶えられた。
そして、シドが何より恐怖したのは、その相手が取るに足らない世間話をするように、何気なく死者の国へと足を踏み入れた事だった。その策略も、シドの身分も密命も、全てを知っていながら。