第10話 それぞれの波紋
国王が東宮に戻る途上、大ホールと東宮の境の廊下で、王妃が恭しく頭を垂れ、これを迎えた。
「王妃、出迎えとはどうした」
「おめでたき事ですのに、お一人占めなさる気ですか」
王妃の声が明るい。
足も止めず廊下を進む国王の後ろに、やや急ぎ足で従う姿は、軽やかに弾むようであった。
国王の居室に戻り、女官らを下がらせて二人きりとなった。
王妃はアシャを外した。可憐な顔が露わになる。
「リン=レーゼタークよりルーサザン公爵の来訪は伺いました。
宮廷内も、その事で取り乱しております」
国王は、手にした箱を王妃に示した。
「国璽だ。
私が取り戻す術を持たなかったのに、公の手にかかれば、たった二時間あまりの時間で、国璽の返上と、王権を明確にした。
早く、王妃の進言を受ければよかったのだろう」
国王の声は、僅かに動揺していた。
それは、王権を回復した喜びよりも、何か、深刻な懸念をもった様子に王妃には見えた。
「誠に、ルーサザン公爵の権威たるや、恐ろしいほどでございます。
あの王太后様に詰め寄られるなど」
国王の顔は青ざめる。
「その事ではない。
公はやり過ぎた。
あれほど、急激に王太后一派を追い落とすような事をするなど、反発が目に見えている。 現実に、母上は激昂されておられる。
国璽を返上する際の儀礼に過ぎない私の謝辞を、撥ね付けてしまわれそうになるほど」
国王の手が微かに震えている。
「考えてもみろ。
果たして修道会は、常に、王の味方であろうか。
そして、余には、アストレーデは開示されていても、その指し示す道が見えないのだ」
国王は王権を回復し、この東宮に引きこもる暮らしから、国政の場へ踏み出すことになる。しかし、その道にある真の闇が、国王を飲み込もうとするように感じる。
王妃は、国王の足下に座り、その晴れない顔を覗き込んだ。
「アストレーデ聖典の、王に対する同調率は王によってそれぞれと伺っております。
聖典の表紙の題字のみを読んで開示となさった方もおります。まして、まったく同調者が居らず、継承位によってのみ、継承された代もございます。
陛下は、この書が国の悲しみを伝えると仰っておられたではございませんか。
充分、王権を担うに相応しい開示かと存じます」
「そうだな。聖典については。
だが、もし母上、あるいは他の誰かが修道会の関与に対し、過激な手段を講じることが
あれば、どうなると思う」
国王は天を仰ぎ、両手で顔を覆った。
「宗主権の返上ごときでは済まない」
国王の中には、その言葉に続く出来事が鮮明に予測できた。
「王妃、僕は、王として最善を尽くす。
もうその事では揺るがない。
だが、修道会とて、決して信頼を置きすぎてはならないという事は肝に銘ずるべきだ。 現状で、修道会無しには、国土の安定は不可能。
肝心なのは、その修道会との駆け引きだが、あのルーサザン公相手では、いかに弁舌を尽くしても太刀打ちすることはかなうまい。
やはり我々は、お互いをのみ信頼し、頼りにするべきなのは変わらない。
王妃、余に尽くしてくれ」
「はい。王命でございますか」
「王命であり、そして、僕個人の願いでもある」
国王は、王妃を抱き寄せた。
『貴方の一生を貰う。
僕と、この国に対して』
耳許で囁かれた声は小さく、そして震えていた。
「もう、迷われることがございませんように。
この身はもう、国と陛下、そして、カーレル、あなた自身に捧げておりますのに」
王妃は誓い、そして頬にキスをした。
「では、さっそく、夕刻からのルーフェンタール記念病院の慈善パーティにご列席いただきとうございます。
戦災孤児の収容されております病院でございますの。
陛下のお越しとあれば、さぞ寄付も集まりましょう。
早急にお支度あそばせ」
王妃は明るく笑った。
国王は、陽の光が雲を払ってゆくように感じた。
たとえ、どのような危惧があろうと、日常は粛々と訪れる。
王妃の照らす先を見れば、きっと世界は明るく美しい。それを作り、守ろうと思う。
一方、西宮。
ミスチア王太后は、自室に入るなり手にしていた扇を床に叩き付けた。
填め込まれた宝石が外れ、落ちる。
「あの男、どこまで妾を愚弄すれば済むのか」
迎えたシド・エルバンは扇と外れた宝石を拾い、化粧台の上に置いた。
そして、王太后の後ろに立ち、頭のピンを取りアシャを外した。
「お怒りのご尊顔も、誠に美しゅうございます」
耳許で囁く。
「シド、お前まで愚弄するか」
「めっそうもございません。リン=ガーレンディラ。
この身が命を捧げてお仕えしているお方に対する侮辱を許せぬのは、私とて同じでございます」
その、低く凄艶な声は王太后の背筋を撫でる。
「あの男は、妾には許されなかった無理を、やすやすと通した男。
妾にそれが許されるなら、引き替えにこの命さえ神々に投げ出したものを」
白い手袋の手が、王妃の深紅の上衣に掛かる。
「ならば、この身が命を捧げましょうか」
「お前の命など、月の女神の供物にしかならぬ。
妾は、あの男にこの宮廷を荒らされたくはない。
あの口先三寸さえ無ければ、こちらとて反撃の余地もあろう。
ひとまず、アレを宮廷に入れなくしてしまえば、修道会が後任を送り込むまで暫しの猶予も出来る。
この宮廷に巣食うておる輩にも、修道会が乗り込んでくる事を厭うておる者はいくらでもいよう。
その者たちを焚きつけよ」
「御意、リン=ガーレンディラ」
シドは、王太后の首筋に口付けた。
マーブリック大司教は、総教主棟にその日の王宮での事を報告に参上した。
「ラヴィロア。お前が七歳で私の前に現れてからこちら、全く一日として落ち着いた日を迎えたことは無かった」
総教主ザエル・ラジアンドはため息混じりに云った。
「確かに、昨日、王国教会の件は私と、エストリダ大司教、そしてお前の三人で確認をした。
しかし、それは正式な手順を踏んで、正面堂々と引導を渡しに行くべきであった。
そなた一人で、しかも、国王陛下のご講義に伺候したついでにやるとは、如何なことか。 思い上がりも甚だしい」
ラヴィロアが怒らせた相手は、王太后ばかりではなかった。
「お言葉ですが、猊下。
戦は先手必勝でございます。
不意打ちで相手が面食らっているうちに、次の手を畳みかける。
攻撃の手を緩めず、相手の混乱に乗じて、一つ、また一つ、戦利品を相手から奪い取る。
定石ではございませんか」
涼しい顔で持論を展開するある。
「それが、理を預かる者のする事か」
「理を預かる者が、神々の御心に最も叶う者ではありません。
私の持論は、七歳の時、猊下に問いかけた時と、全く変わっておりません。
修道士など、神の前では、最も卑しき存在でございます。
その卑しき者が、非道を行う者を陥れる事など、何を今更」
厳しい叱責に悪びれる様子もない。
総教主ザエルがまだ四位の典礼司祭であった頃、学院の教師を兼任していた。その頃、七歳にして公爵位を継承し騎士団長となったラヴィロアと、一時期、起居をともにしたことがあった。修道会のしきたりと振る舞いを教育するためである。
その時、何のきっかけかは憶えていないが、まだ幼いラヴィロアがザエルに問うた。
『神々が最も愛されるべきは、日々の運、不運、晴れたり曇ったりのことに一喜一憂しながら、神々の目により良く映ろうとう事など考えず、自分の仕事に真面目に打ち込む者たちではないのか』と。
どれほど真面目に仕事に打ち込み、せっかく目的に近づこうと積み上げたものが、ほんの一瞬の不幸で崩れ去り、無に帰す。
それでも、また、真面目に仕事に打ち込み、せっせと積み上げていく。
神々の名を唱える暇もなしに。
その者たちが神の前に最も尊くあるべきであり、常に神々に気に入られようと美しい文句を神々に捧げ、祈るしか出来ない修道会など、本来は最も卑しくはないのかと。
自らが神であれば、日々粛々と耐える者をこそより深く恵もうとさえ語った。
「ゆえに、我々は身を慎まねばならぬ。
最も卑しく在るというのなら、正道を常に歩いたとしても、市井の民の真摯な道程には遠く及ぶまい。
終身修道誓願をして、修道士になったのはそなたではないか。
自らを、そなたの云う最も卑しい存在におとしめておきながら、この私までその弁舌で籠絡しようというか」
総教主は、毅然と云った。
「まあ、今更、出してしまったものを引っ込めるわけにもいかぬだろう。
それに、現状を最も早く解決する策を持つのは、その憎々しげな頭しか無いのは事実だしな。
だが、憶えておくが良い。
三年後には、相応の処分を受けてもらう」
ラヴィロアは総教主に頭を垂れた。
「ありがとうございます。
三年後、すべてこの罪は引き受けますので、どうか猊下もそれまでご息災に。
王国教会の教主ともなれば、上司は猊下をおいて他におりません」
「つぎの総教主に、ちゃんと申し送りを残すゆえ、心配はいらぬ。この破戒僧が」
総教主は、度し難いといった風情で、額に手をかざす。
「ときに、お前の息子の移籍の手続きは済んだのか」
「はい、猊下。
本日まで、お育て下さいまして、ありがとうございます。おかげで、とても良い子に育ちましたよ」
「そなたのような男は一人で充分ゆえにな」
「それから、あと一国、未だ元首の返答を頂いていない国がございました。
回答を頂きますゆえ、これにて退出をお許し願いたく」
「ファーマムール王国か。
この状況で、通信回線を開くだろうか。
まあ良い。さっさと行け」
総教主は、鬱陶しげに追い払う仕草をした。
ラヴィロアは立礼を捧げ、その場を辞した。