第9話 修道会の戒告
第9話 修道会の勧告
国王が、西宮内に足を踏み入れるのは、二年ぶりにもなろうか。
西宮と東宮の狭間にあるホールを渡り、大理石の色の変わる廊下に入った。
ラヴィロアは、騎士団長の制服に着替えて威儀を正した。
それは、これから王太后と対面するための自らの立場の変更を意味した。
これまでは、一介の修道士であり、国王の講師役である。
しかし、三つの徽章のついた制服を着ているということは、修道会と騎士団の要職に在る者として、対面することを示していた。
国王が、騎士団長を従えて西宮の回廊を行くのを、行き違う宮廷人たちは、瞠目しつつ跪礼して控え、そして身を起こして後ろ姿を見送った。
「ご機嫌うるわしゅう、国王陛下」
薄いアシャで表情も露わな王女シェラ・エスファナは、笑顔をもって兄を迎えた。
「お前には感謝する。シェラ」
「お礼など結構です。
お母様、とても慌てておいです。
さすがにご寝所はお気の毒ですから、どうぞ絵画の間に。
会見の用意は、とうに整っております」
王女に導かれ、国王はその部屋に通された。
「それでは、王太后様に、お兄様のお越しをお伝えしてまいりましょう」
王女は女史を伴い、退出した。
国王は上座に座して王太后の現れるのを待った。
そしてしばらく後、西宮の主、ミスチア王太后リン=ガーレンディラが、数名の大臣と側近を引き連れて現れた。
「これは国王陛下。ご息災であられたか。
母に顔を見せてみよ。まあ、ご立派になられました」
深紅の宮廷装束に身を包んだ王太后は、十代にして国王を産んだ。よって、現在でもまだ容色の衰えもなく、アシャで表情を伺うのが叶わぬにしても、艶然とした姿は、男を誘うような雰囲気を放っていた。とても亡き先王の意志を守らんとする者の様子には見えない。恐らく、王太后は現在も、女としての繚乱の時を得ていることを示した。
「王太后様もお変わりなく。お美しゅうございます」
その母子の挨拶に、どれほどの感情が流れているのか。それは決して情というものではないだろう。
「政など、臣と妾に任せておればよいものを。
陛下には、まだまだ学んでもらわねば成らぬ事が山ほどあるというに」
王太后は、シエルダルの一件についての報告が云ってないわけはなかった。
だが、派兵の話はおろか、政治的な話題を一切行うつもりがないのか、まったく関係のない事を切り出そうとする。
「余が至らぬことは充分承知しております。
だが、もう机上で学ぶ時ではありません。
実践を積む時がきたと余は思います。
王太后様は左様に思われませんか」
国王は、凛とした眼差しを王太后に向けた。
「ファーマムールの侵攻の件、時期を逸しては取り返しの付かぬ事態もまいりましょう。
派兵手続きを致したいのですが、この場で早速取りかかるのは如何でしょうか」
「たった今、派兵の手配を整えるように、摂政の権限で元帥に命じたところである。
間もなく、国軍幕僚らが軍議を終え、内務大臣、軍務大臣うちそろって派兵の正式な書面をもって来よう。国王陛下、ここでお待ち頂ければ、妾が先王よりお預かりした国璽を押しましょうゆえ、陛下の印も下さいませ。
じきに手続きは終わりましょう。
それとも、ルーサザン公爵に何事か教唆されましたか」
王太后はルーサザン公爵に向いた。
「ルーサザン公よ。
陛下に何を吹き込まれた。
陛下はまだ十代ではござませぬか。そのような年端のいかぬ子供に、かような大事を摂政の同席もなく進言するとは」
「十代、と申されますか、リン=ガーレンディラ。
陛下は、もう十七歳でございます。
歴代のアストレーデの国々の王、皇帝で、摂政を立てず施政に当たられました方々はいくらも居ります。
私が普段講師の任に当たっている者より伺うところでは、もう充分な教養と知性をお持ちになっておられるようだ。せめて、政の場に身を置き、見聞と経験を積まれる段階ではありませんか。
摂政の務めは、王に変わって王権を行使することではないはず。
後見として、王によって出された案にご助言申し上げること。
印を押せぬほど稚き頃、あるいは病床の身に在られますなら仕方もありませんが、国璽も王印も、本来は陛下の御手にて印されるが理ではございませんか」
「されど、妾が摂政たる任を先の国王陛下より賜ったのは事実。
その意向を曲げると申すか」
「それでは、王権の所在について、修道会として問うべき所存がございます。
この国のアストレーデは、リン=ガーレンディラに下されたのか、それとも、まさしく国王陛下に下されたのか。
アストレーデ聖典の下された国々においては、国事はアストレーデによりて成し、アストレーデの求めるところに政の果ての姿を見るものでございます。
リン=ガーレンディラにおかれましては、そのアストレーデの指し示す道を、国王陛下にお会いするでもなしに、どうやってお知りになるのか。
本日、私が見聞きする限りにおいて、リン=ガーレンディラはアストレーデを蔑ろにしておられる。
王権は、アストレーデが開示された王が国事を行う権利。摂政はそれを補佐する役に過ぎないのではありますまいか。
如何でございます、リン=ガーレンディラ。
御身がなされております事は、アストレーデ教徒として、あっては成らない所行です。 修道会は、アストレーデの理を預かる者として、その行使を正しく戻さねばならない」
激烈なオーラを持ってそれらの言葉はルーサザン公爵より放たれた。
「正しく戻すと申されるか。
ルーサザン公爵家は、ラーフェドラス王国の政治に関わらぬのが暗黙の了解のはず。
その貴卿が、宮廷で王に虚言を吹き込む事こそ罪ではないか。
その禁を犯せば、他国が黙っておりますまい」
ルーサザン公爵は、勝ち誇った笑みを一瞬口の端に載せた。
「それでは、総教主猊下よりの言葉を申し上げます。
聖アムルテパン修道会は、ファーマムール王国の統治の能力について疑問を示し、宗主国の権利の移管を考慮しております。
修道会は巡礼者も多く、その本山を置くには、この国はあまりに治安が悪すぎる。
このまま宗主権をもって、序列を他国の上に置くことは出来ません。
これは、各国元首・教主にも了承を得ている事。
アストレーデによる施政の遵守が叶わぬのであれば、宗主権をご返上頂きたい、との事でございます」
「なんと」
ルーサザン公爵の言葉に、王太后は言葉を失った。
室内が、静寂に包まれる。
その静寂を、またルーサザン公爵の言葉が破った。
「もちろん、再考の余地はございます。
それについても、各国元首・教主の皆様にご了承済みです」
ラヴィロアは、国王の方を向いた。
「再考の余地とは、ラーフェドラス王国教会を再建することでございます。
かの王国教会は、この国が宗主権を取得する以前に存在致しました。
宗主権を得ると同時に、王国教会は修道会に吸収され、その教主座は総教主が兼任する事になっております。
そして、王国教会には、一議席、優先議席を元老院より与えられていた。
その権利を行使したく、お願い申し上げます。
ですが、現在、王国教主を兼任する総教主は老体でございます。とても議員職は務まりませんゆえ、王国教会を再編し、王国教会教主を分離し、宮廷に置くことに致しました。
そして、その教主に、議席をお与え頂ければ、と存じます。
そして、修道会より派遣された新教主が政治に関与し、施政の場としての王朝の権威と国情の正常化に協力致しましょう」
王太后の、深紅のマニキュアときらびやかな宝石に彩られた手がわなわなと震えていた。
「それは、修道会の内政干渉ではないか」
アシャの内側より、苦渋に満ちた声がした。
「その内政干渉を招いた者は誰かまだ解りませんか」
国王は、王太后を見据え、きっぱりと云い放った。
「国と民の苦しみをわすれ、国を軽んじ、我が身ばかりを哀れんできたのは、この王と、摂政である母上ではございませんか。
余も母上も、罪は同じ。
我らは本来死をもって償わなければならぬほど、この国を荒廃させている。
その事に、お気付きではないわけがない。
宗主権を返上しても仕方ない事をしたのです。
これは、むしろ修道会の温情と見るべきではありませんか」
真実を述べる国王の声は、静かだが毅然として重みを帯びていた。
「ルーサザン公爵、いえ、マーブリック大司教。
余、国王シーヴァエドナ十二世は、自らの所行を悔悟し、修道会の温情に感謝するものである。
よって、修道会の戒告を受け入れ、早速、修道会に一議席を与えることとする。
また、宮廷内に王国教会を設立する事については、早急に議会に諮り、承認を得た後に修道会への返答することとする。
内務大臣よ、即時、書面にて議会に提案せよ。
明日の議会の緊急議題とする」
王太后の側に控えていた内務大臣は、王太后の方を見た。
王太后は、心ならずも、といった態度でアシャの奥からルーサザン公爵を睨み付け、頷いた。
「御意、国王陛下」
内務大臣は、国王に対して跪礼を捧げた。
「それでよろしいか、マーブリック大司教」
「早速のお返事、痛み入ります。
以上の件、さっそく持ち帰り、総教主にお伝え致します。
それでは、リン=ガーレンディラ。
国璽をこの場にて国王陛下に返上なさいますように」
「ルーサザン公、妾が信用出来ぬと申すか」
「リン=ガーレンディラは、王権の所在につきましての問いに答えていただいておりませんし、国璽をお戻しになるとも仰っておりません。
何をもって信用するというのです」
ルーサザン公爵の弁舌の矢は留まるところを知らない。
「まず、王権でございますが、王権はアストレーデの開示された王の元にある事、これに異論はございますまい。
次いで、シーヴァエドナ十二世陛下には、正しくアストレーデが開示されており、修道会もこれを確認しております。
よって、王権は、シーヴァエドナ十二世陛下に在る、と、お認めなさいますか」
「それくらい、とうに認知しておる」
「では、王権の行使の道具たる国璽と王印による承認は、国王陛下が執り行うものである、それをお認めになりますか」
「認めよう」
「では、摂政は、国王の王権を補佐する者であり、代行する者ではない。
これもご承知でございますね」
「……心得よう」
「では、早速この場で国璽をご返上頂きたい。
ご信頼せぬわけではありません。総教主猊下の命を負う者として、それを確認する義務があるのです。ご理解頂きたい」
王太后は、渋々手にした扇で侍従に命じた。
程なく、侍従が戻り、手にした箱を王太后に手渡した。
王太后は箱を手に立ち上がり、国王の前に置いた。
「陛下。国璽を返上致します」
「本日まで、大儀でありました、母上」
国王は、箱の上に添えられた王太后の手に自らの手を重ねた。
王太后は驚いて、思わず手を引いた。
国王の表情が、一瞬悲しげに揺らめき、そして瞬きする間にそれは戻った。
「マーブリック大司教。余は、国璽を受け取った。
これでよいな」
「はい、陛下。
本日、この場にて私が口頭にて申し上げました事は、明日、正式な書面にて確認して頂きたく、お願い申し上げます」
ルーサザン公爵は跪礼を捧げた。
「そして、陛下。
修道会として、一つお願いがございます」
「何か」
「私は今週をもって、騎士団の司令官職及び、マーブリック大司教職を辞すことになります。そして、このたび新設されるラーフェドラス王国教会の教主の任を、私が拝命致します。
称号はグランヴィル大司教位を賜ります。
もし、宮廷内に王国教会を設置する運びとなりましたら、グランヴィル大聖堂を下さいますように。
あれは、元々は王国教会のものでございます。
それから、私がルーサザン公爵のままラーフェドラス議会に関わります特例を、諸国の王、教主各位により承認頂いた期限は三年。
以後は、いかなる事情の元にせよ、国政の場から退く所存でございます」
それは、ラーフェドラス王国の再生の先触れとも聞こえた。
これにより、シーヴァエドナ十二世の治世は落ち着きを取り戻すはずであった。