序
陛下、私はお恨み申し上げて宜しいか。
陛下と、この国にまつわる全てをお恨み申し上げて宜しいか。
この身とわが腹の御子の命を捧げ、この国を呪って宜しいか。
私の国は何処でありましょうや。
私はこの国に嫁いで参りましたものを、この国こそ祖国と思う事に致しましたものを。
陛下、御身はこの身を守ってはくださいませぬのか。
陛下がお守りなさいますのは、その妹君ばかりですのか。
この眼から落ちる涙が国を満たしてよろしいか。
涙に国が沈み、民が溺れてよろしいか。
これは呪いでございます。
理に違反しながら、理を論ずる者に対しての制裁でございます。
この身と心は鬼神に喰われましょう。
そして、この思いを鬼神の心に宿し、鬼神の怒りに変えましょう。
地に戦が、そして天が炎と血しぶきで朱に染まる時、我が恨みはおさまりましょうや?
我が王よ、我が君主、御身をお恨み申し上げて、宜しいか?
ラーフェドラス王国の宮廷に、王妃ミスチアが嫁いで三年が過ぎた。
嫁いだ時は幼い身の上であったが、ようやく王子の誕生を迎えようとしていた。
太陽系連邦と対峙するように、ファーマムール王国とラジサンドラ王国が連合し、そしてそのラジサンドラ王国の第一の座に在る古家より嫁いだミスチアであったが、太陽系連邦と、連邦より独立を勝ち得たアールシャド帝国の習俗をもてはやすラーフェドラス王国の宮廷にあって、嫁いだ当初より王妃に対し、田舎くさい、だの、垢抜けない、だの、とかく一挙手一投足にまで居心地の悪い噂話の絶えぬラーフェドラス王国の宮廷は、ミスチアにとって針の筵のようだった。
嫁いだ時はわずか十三才。
その頃、宮廷の華ともてはやされていたのは、国王の妹であるフェイレンリーリア王女であった。
活発な王女は、ミスチアより一つ年上であったが、ファーマムール皇太子に嫁ぐことが決まっていても、即位前なのでまだラーフェドラスに留まることを許されていた。
王女は、表面は優しい年長者として接していたが、事あるごとに流行やセンスに対して持ち前の感性を発揮した。だが、それはミスチアにとっては、単なるひけらかしにしか取れず、そして、それに対比するように、ラジサンドラの厳格なしきたりで個性を消すべく育てられたミスチアの身なりを野暮ったさを際立たせた。
まだ幼い心のミスチアには、どれほど毅然としようと努力しても自ずと限界があり、そして、心許せる者は、故国より連れて来た数名の侍女の他はおらず、宮廷のどこにも、居場所を見つけることができなかった。
ある日、顔を見にきた王に泣いて訴えた。
この宮廷に居るのが苦しいと。
すると、王はミスチアを守るどころか、堅く閉じようとしている心を承知で、その花を手折った。
身体の痛みと、心の痛みで、涙が涸れるまでどれほどの時間がかかったのだろう。
その後も、宮廷と王を恐れながら、それでも寵愛を得れば少しは変わるのだと信じて、昼は公私の別なく務めのために宮廷に身を晒し、そして夜は気紛れに訪れる王に心と身体を預けた。
ただ、王の恩情を信じる事こそ、ミスチアの支えだった。
そのうち、フェイレンリーリア王女は十六才となり、即位がなくても、王太子妃として嫁がねばならぬ日が近づいた。
王女さえ居なくなれば、少しは宮廷の風向きも変わるものと思っていたミスチアであったが、王女は意外な意外な行動に出た。
ラーフェドラス王国の古家、ルーサザン公爵の居城に単身で赴き、そして公爵に嫁ぐことを宣したのである。
ミスチアにとって、それは裏切りであった。
ミスチアが、フェイレンリーリア王女の、格上であるべき王妃に対する様々な無礼に耐えかねて涙を浮かべる時、「王妃様には、この国に身を捧げるべき義務を負ってお生まれに成られたのです。心を強くなさいませ」と追い打ちをかけるような事が茶飯事であった。
王妃の義務を諭した者が、古家に生まれた姫としての義務を犯し、心のままに振る舞うとは。
王妃は王に再び訴えた。
だが、王は王女の我がままを寛容に受け止め、そして恋する少女の気持ちをわかってやれと王妃に云った。
王妃はさらに訴えた。
自分と、王女とが互いの決められた国に嫁ぐことで、ラーフェドラス王国、ファーマムール王国、ラジサンドラ王国の三国が、堅い同盟の絆で結ばれるのでは無かったのかと。
妃に立つべく命を受けて、時を経ぬならいざしらず、五年も経って反故にするなど、ファーマムール王国の潰された体面はどうなるのかと。
ファーマムール王国とラーフェドラス王国が対立すれば、ファーマムール王国と連合関係にあるラジサンドラ王国にとっても敵となってしまう。
王族出身ならいざしらず、古家とはいえ、臣の家柄のミスチアとその実家の事など、ラーフェドラス王国にとっては斟酌する対象にはなり得ない。
ラーフェドラス王国の宮廷に頼る者も居ないミスチアにとって、親族すら安易に会うことが出来なくなる状況など、考えられなかった。
そして、もう一つの事がミスチアに追い打ちをかける。
王が、女子修道会の司教を還俗させ、妾妃に迎えたのである。
そして、その理由が遠くのほうより噂話で聞こえてきた。
王にとって、王妃は幼すぎるので、話し相手になどなりはしないのだと。
ミスチアは、その時、全てを失った。
人の良心への信頼と、そして、いつか向けられると思っていた愛情を。
その時、腹の中には命があった。
だが、王妃にとってそれはもう異物に過ぎなかった。
激しいつわりと、思うに任せぬ暮らしと。
王太后付きの侍女が、御子のつつがない育成のために、手の平を返したように優しく接してくる事が疎ましかった。
そして、ことある毎に、ラーフェドラス王国の宮廷作法に従って、とか、前例によれば、とか、何代前の王妃の不摂生がどうした、など、唯一安らげるはずであった自室でのわずかな時間まで干渉してくるのが辛かった。
そして、難産の痛みの内に、王を呪い、国を呪った。
それでなければ、耐えられぬ痛みであった。
このような下種な者たちのために、命を捨てるなど、考えられなかった。
だから、国を呪い、王を呪った。
自分と、腹の子の命を捧げ、この世界の至高の神の一角の、鬼神に祈り、呪った。
我が王よ、我が君主、御身をお恨み申し上げて、宜しいか? と。
そして、十八年が過ぎた。