第十七話 妖界の酒
「そう言えば伊澄、それってお酒?」
私は伊澄が持ち直した盃を見ながら尋ねた。
「あぁ、まぁそうだな」
伊澄はまだ盃に残っていた少量の酒をぐいっと口の中に含んだ。
「それ、高校生が飲んでいいの? というか、伊澄って本当は何歳?」
伊澄は私を一瞥してから答えた。
「俺はまだ十七だ。まだ妖界の成人を迎えていない」
「あやかしかい?」
私が問うと、伊澄は盃を見ながら答える。
「人間界とは異なる世界、普通の人間には見えず、存在を認識することもできない世界のことを言う。俺たち鬼や妖怪などの人外が縛られる掟が通用している範囲の世界とも言える」
伊澄は淡々と説明するが、私には難しくてよくわからない。小首を傾げていると、伊澄が盃を持ち上げて説明を続けた。
「例えば、この盃を人間が普通に暮らしている世界だとする。お前たちが常識として知っている、確かに目に見えている世界。この盃の周りには何が見える?」
伊澄はまた不思議なことを言うが、伊澄が持つ盃の周囲には盃を持つ伊澄の手以外何もない。
「周りって……何もないけど……?」
「そうだ、何もない。だがそれはお前が認識していないだけでここには空気がある。気体、酸素や二酸化炭素、塵などの物質が存在している。そうだろ?」
「う、うん。確かにそうだね」
「つまり、目に見えていなくても確かに存在している。妖界っていうのはそういう世界のことだ」
「う、うーん……」
私はわかるようなわからないような思いになりながら頷くと、伊澄は苦笑いしながら私の頭を撫でた。
「あんま深く考えなくていい。お前は妖怪じゃないから掟も関係ないしな」
「うん……。って、結局伊澄はまだ成人じゃないんだよね⁉ お酒飲んじゃダメだよ!」
私が慌てながら徳利を伊澄から離すと、伊澄は気にする事なく盃を弄んでいる。
「大丈夫だ。これは妖酒っていって、妖界の酒だ。人間界での酒じゃなく、妖力の回復のために飲む酒だ」
伊澄は私に盃を差し出し、酒を注ぐように促す。
「妖酒? 飲んでいいの?」
「あぁ。妖力のない人間には味を感じることもできないし、人間の法律には違反してないだろ」
私は躊躇いつつも盃にお酒を注いだ。
「なんなら、お前も飲んでみたらどうだ? お前は妖力がある人間だから、多分味はわかると思うぞ」
「え⁉」
伊澄は私の手から徳利を取ると、盃に注いで私に手渡す。
「ちょ、待って! 私お酒なんて飲んだことないし、飲めないよ‼」
私は盃を受け取るまいと、両手で制止しようとする。しかし伊澄は引き下がろうとしない。
「酒と思わなくていい。妖力の回復を早めるための薬みたいなもんだ。お前、自覚ないみたいだけどかなり妖力消耗しているぞ。寝るだけで回復するもんでもないしな」
「そ、そうなの?」
「それとも俺から口づけで妖力もらう方がいいか?」
「⁉」
伊澄の発言に驚いて顔を上げると、意地悪な顔をして私を見つめていた。
「か、からかわないでよ!」
私はなんだか負けたような気がして悔しい気持ちになる。おそらく顔は赤くなっているのだろう。
なんとか誤魔化そうと伊澄に差し出された盃を両手で受け取り、一気に中身を飲み込んだ。
甘い香りが強く鼻につき、喉が焼けるような感覚がする。味は、甘いのか辛いのか、刺激が強くてよくわからない。
「お、いい飲みっぷりだが……お前大丈夫か?」
「え……?」
伊澄の声がなんだか遠く感じられ聞き返そうとするが、体が熱い上に目の前が白く霞み、呂律もうまく回らない気がする。
「あれ……なんか、変な、感じ……」
瞼が重くなり、なんとか起きようと目をこすろうとする。
しかしその手は伊澄に捕まれ、瞼を開けていられず視界が狭くなっていく。
薄れていく意識の中で、優しい手が私の体を支えてくれたような気がした。しかしそれを確認することができず、私は意識を手放した。
妖酒を飲んで五秒で気を失った出雲は、今俺の膝を枕にして熟睡している。
「お前な……味見程度のつもりだったのに普通全部飲むか?」
安心しきってぐっすり眠っている出雲を見ていると、嬉しいような心配なような、複雑な気持ちになる。
「無防備すぎるだろ」
俺は手持ち無沙汰になり、出雲の髪を指に巻きつけて遊ぶ。
夜空を見上げると月が傾いていた。
そろそろ出雲をベッドで寝かせてやらないといけない、そう思い口を開く。
「翠、いるか?」
翠を呼ぶと、すぐに背中に気配を感じる。
「お呼びでしょうか」
「あぁ、悪いんだが酒を片付けておいてくれないか。俺は出雲を部屋に運んでそのまま部屋に戻る」
「かしこまりました」
翠は盃と徳利をお盆の上に乗せながら、俺の膝枕で寝ている出雲を見る。
「ぐっすり眠っていますね。鬼の一族にすら恐れられる紫鬼様の膝枕で寝ている人間の少女とは……大物になりそうですね」
翠は楽しそうに俺の反応を見ている。
「こんなの、一族どころか血族にも見せられねえな。人間の女に振り回されている姿見たら、あいつらに付け込まれそうだ」
翠は困ったような笑顔で、出雲を見つめる。
「……鬼の一族に彼女の存在を知られて、紫鬼様だけでなく彼女の身が危険に晒される可能性を心配されているのですか?」
やはり翠は鋭い。鬼の一族の暗部、そしてヒトオチの利用価値から、他家がどのような動きをするか予測ができているのだろう。
こういう時、本当に翠が他の一族ではなく俺に仕えていてよかったと思う。
「……俺が出雲を守る。鬼からも妖怪からも、これ以上こいつに辛い思いはさせない。これまで散々妖怪に振り回され続けてきたんだ、これからは人間として生まれた幸せのために、生きられるようにしてやりたい」
ゆっくり出雲の頭を撫でると、出雲は少し身じろぎし、顔をほころばせた。
これがどんな感情なのかわからない。今まで一度も感じたことのないこの感情に突き動かされるままに動いていた。
ただ一つわかるのは、初めて会った時の独占欲のような感情とは違う。傷つかないように、今はただ守ってやりたいということだけだ。
「紫鬼様がそれを望むのであれば、私は従うのみです。宇城様のために私もできることをいたします」
夜空に浮かぶ月が雲に覆われ、月光に照らされていた地上が陰り始めた。