第十五話 妖力と口付け
伊澄の家が見えてくると、門の前に誰かが立っているのが見える。
その人影はこちらに気づいて走って近づいてきた。
「よかった、宇城様! ご無事だったんですね!」
「翠さん!」
暗かったため、声をかけられてようやく翠さんだと気づく。
「翠、俺が助けに行って無事じゃないわけないだろ」
伊澄は翠さんに突っ込むが、翠さんは呆れたように返す。
「傷だらけではないですか! 紫鬼様、早く宇城様を中へ!」
翠さんは門を開け、私たちを中へ招き入れた。
「翠もずっとお前のことを心配してたからな。口うるさい母親みたいだから、覚悟しとけよ」
伊澄は苦笑いしながら門をくぐり、私に忠告する。
私は普段のクールそうな翠さんの本当の一面を見れたような気がして、顔がにやけるのを堪えていた。
私は二階の客室に通され、ようやく伊澄に降ろしてもらえた。
その部屋は日本家屋であるこの家には似合わないフローリングの部屋で、ベッドまである。
「ここは洋室だから、お前も過ごしやすいだろ」
「和室ばっかりなのに、洋室もあるんだね」
「俺の親父がな、洋室も欲しいってわざわざこの部屋だけ工事したんだ」
伊澄はそれだけ言うと、ドアの方に歩いていく。
「俺はもう休む。すぐに翠が部屋に来るから少し待ってろ」
「あ、伊澄!」
伊澄はこちらを振り返り、私の言葉を待つ。
少し心細いが、伊澄も疲れているはずだ。そのため、長く引き止めるのは躊躇われた。
「……今日は、本当にありがとうね」
伊澄は柔らかく笑いながら、私の元に戻ってきた。
「どうしたの?」
そう問うと同時に伊澄の手が私の頭を撫でる。まるで壊れ物に触れるような優しい手に、くすぐったさを感じる。
「お前を助けたいと思ったのは俺の意思だ、そんなに畏まるな。だが……そんなお前だから俺はお前のことを助けたいし、守りたいと思ったんだろうな」
また伊澄は私を優しい目で見つめている。その眼差しが心地よくて、目を反らせないでいると、気づけば優しい手は離れていた。
「ゆっくり休め。明日また詳しいことは話す」
伊澄はそれだけ言うと、そのまま部屋を出て行ってしまう。私は伊澄に撫でられた頭に手をのせ、伊澄の優しい瞳を思い出す。
なんか、変だな……。伊澄の目に見つめられて、触れられるとすごく安心して、心が安らぐ。
「宇城様、どうかなさいましたか?」
「……‼」
伊澄と入れ替わりで翠さんが入ってきたようだが、私はそれに気づかず物思いに耽ってしまっていた。どうやら体調が悪いのかと心配されてしまったようだ。
「す、すいません! 何でしょうか⁉」
翠さんは焦る私の様子に、「元気そうで良かったです」と優しく微笑んでくれた。
「今日は早めに休まれた方がよろしいかと思うので、とりあえず体を拭けるものと着替えを持ってきました。その前に怪我の手当をさせていただいてもよろしいでしょうか?」
翠さんはお湯を入れた桶と救急箱、それから薄手の着物を持っていた。
「あ、ありがとうございます。でも、傷は伊澄がほとんど治してくれて……」
そう話していると先ほど伊澄に口付けで治してもらったことを思い出す。恥ずかしくなり顔が暑くなるのを感じる。
翠さんはそんな私の様子を見て察してくれたのか、にこりと笑いかけてくれる。
「ふふ、大きい怪我はちゃんと紫鬼様に治してもらったようなので、私は小さな擦り傷を手当しますね」
翠さんは腕や足にある傷を丁寧に消毒しながら、塗り薬を塗ってガーゼで抑えて行く。あまりにも手際がいいため、私は見惚れていることしかできない。
「この薬は紫鬼一族の秘薬なので、早ければ一週間で傷跡も消えますよ」
「ありがとうございます。あの……聞いてもいいですか?」
「はい、私に答えられることであれば何でも答えましょう」
翠さんは手当する手を止めずに答えてくれる。
「あの、翠さんも……鬼なんですか?」
「……はい。ただ、私は拾われた身なので、紫鬼一族の血を引いてはいません」
答えるまでに少し間があったように感じた。本当は聞いてはいけなかったのかもしれない。
「翠さんも伊澄も、どうして人間の私にこんなに優しいんですか?」
翠さんは一通りの手当を終えて救急箱に道具をしまいながら答える。
「私は、紫鬼様があなたを助けると決めたからそれに従っています。紫鬼様は……、おそらく理由はないのだと思います。あの方は自分の行動に逐一理由を考えたりしません。本能と直感で、あなたを放ってはおけないと判断したのでしょう」
「そうですか……」
おそらく私がヒトオチであることが最大の理由なのだろう。それでも私を喰らおうとする妖怪とは違い優しさを向けてくれたから、理由は何でも良かった。
「しかし、骨折や大きな怪我でなくて良かったです。流石に、死に直結するような大怪我は妖力だけでは治せないので……」
「これって、妖力? で治したんですか?」
「はい。口付けで治されたのですよね?」
「‼」
もしかしたら知っているのかもしれないと思ったが、はっきり口にされると恥ずかしくて顔が赤くなる。
「も、申し訳ありません! 必要なこととはいえ女性ですから、恥ずかしかったですよね!」
翠さんは私の反応に焦ったように謝る。翠さんがこんなに焦っているのを見るのは初めてだ。
「あ、いえ……、あはは……」
私はまともな反応を返せず引きつった笑みを浮かべる。
「あれは、妖力を注ぐのに最も適している方法なのです。他にも妖術など時間をかけて治療する方法もありますが、時間がかかるので安全のためにはあの方法しかありません」
伊澄が言っていた通りあれは応急処置として必要なことだったのだ。おかげで私は痛みに苦しまずに済んだ。
「しかし、あの方法は自分の妖力……鬼の生命力を直に移すことになるので、紫鬼様は疲れ果てていましたね」
翠さんは冗談っぽく話しているが、私は聞き流すことができなかった。
「え、伊澄の、生命力?」
翠さんは私の反応を見て、「しまった」というように自分の口を抑えた。
「申し訳ありません。ご存知かと思って、私としたことが口を滑らせてしまいました」
「あの、伊澄は大丈夫なんですか⁉」
私は無意識に前のめりになるが、それを落ち着かせるように翠さんが私の肩に手を置く。
「大丈夫ですよ、宇城様。あの方はそんなに弱くありません。少し妖力が減っても何も差し支えませんし、全ての鬼の一族の頂点に立つだけあって、体力も根性も誰にも負けませんから」
「そう、ですか……」
私はただただ伊澄に頼ってばかりで無力な自分が悲しかった。
翠さんは私の肩を優しく叩くと、立ち上がった。
「そちらの桶に湯とタオルがあるので、体を拭いてそちらの着物に着替えてください」
「あ、ありがとうございます」
翠さんはドアを開き、出て行こうとしたところで振り返った。
「紫鬼様は、一階の縁側で晩酌をしていらっしゃいますよ。もしよろしければ付き合って差し上げてください」
「え……?」
翠さんは柔らかく笑ってから「失礼します」と部屋を出て行った。