3
毛布越しに感じる冷気で、意識が半分戻った。
浮上する意識と同調するように、身体もふわふわと宙に浮きそうな感覚に襲われる。
形容しがたい気持ちよさ。
身体が完全に宙に浮こうとした瞬間、地面に強く叩きつけられた。
―痛ってえ!
同時に意識が完全に復帰し、薄暗い室内の、木組みの天井が目に入る。
そこでやっと、クラは自分がベッドから転落したことに気がついた。
痛みが残る背中を擦りつつ身体を起こし、ミノムシのように毛布を体に巻きつけ、転がりこむようにベッドに戻った。
まだ寝れたなぁ……。
視界に入るものを見つめる。
数秒の沈黙。
隣で大きないびきをかいて寝る男、床に転がる酒瓶……
酒瓶を目にした瞬間、あふれ出る水のように記憶が蘇った。
昨日、ここの基地に着任して。
歓迎会に参加して、そのまま……。
そこからの記憶は蘇らない。
ということは酒に酔って寝て、そのままここに担ぎ込まれたのだろう。
―悪いことしたなぁ。
ゆっくりと上半身を起こすと、鈍い頭痛が襲いかかってきた。
二日酔いだ……。
同時にこみ上げた微かな吐き気を抑えつつ、身体に巻き付いた毛布を剥ぎ取る。
途端、猛烈な冷気が身体を刺す。
寒い寒いと呟きながら立ち上がると、身体がぐらりと揺れた。
危うく倒れそうになったが、なんとか制御する。
室内だというのに、吐く息は綿菓子の如き白さだ。
ふらふらとたどり着いた薪ストーブの前に座り込むと、案の定火が消えている。
今、火を付けても良いのかな……
辺りを見回すが、特に時間帯による点火禁止の表記は無い。
流石に火を点けないと全員凍死する気がしたので、ポケットからマッチを取り出す。
マッチは戦闘機操縦士の必需品だ。
被弾して落下傘降下したときも、火を起こせれば生存率はぐんと上がる。
いつも身につけておくように、と士官学校時代から教え込まれていた。
かじかむ手でマッチを取り出し、擦る。
だが、手に力が入らない。
五、六回擦った時、やっと火がついた。
薪を目がけてマッチを放った……がしかし、火は点かない。
―あれ?
何本か擦って放ってみたが、火は頑なに点かない。
おいおい、凍死は勘弁だぞと首を傾げる。
……。
ジリリリリリ!
悲しくなってきたその時、けたたましいベルの音が響いた。
思わずその場で座った姿勢のまま飛び上がる。
なんだなんだと辺りを見回すと、薪ストーブの横で寝る一人の男が唸りながら、毛布の中から手をヌッと出した。
そして、恨めしそうな動作で目覚まし時計を叩く。
音はぴたりと止んだ。
「朝か……」
声の主は、イカミヤだった。
イカミヤはぬるぬると毛布を剥ぎ取り、芋虫のように床へ転がった。
「お、おはようございます」
クラは、若干のけ反りながら会釈した。
「あ……どうも少尉。早いですね」
とイカミヤ。
「目が覚めてしまって」
「昨晩は豪快に寝ていましたからね……」
イカミヤはそう言うとふらふらと立ちあがり、こちらに来た。
「す、すみません」
やっぱりか、と飲みすぎたことを後悔しつつ頭を下げた。
イカミヤが、いえいえと笑いながら、床に置いてあったテキーラの瓶を掴む。
そんな度数の酒で迎え酒か?よくやるよ……と思ったが、イカミヤは口ではなく、なんと薪ストーブの薪に酒をぶっかけた。
ええ?寝ぼけてるのか?
口を半分開けつつ目の前の光景を眺める。
イカミヤは眠たそうに目を擦りつつマッチを擦って、薪目がけて放った。
火が勢い良く上がる。
「なるほど……」
思わず感嘆する。確かに、マッチをただ投げても火は点かないだろう。
イカミヤはストーブの扉を閉め、にこりと笑った。
「なかなか点かないですからね。ズビン曹長が寝ているときは曹長のテキーラを拝借するといいですよ」
悪戯っぽくそう言って、テキーラの瓶を元の位置に戻した。
「迎え酒かと思いました」
勢いよく燃える薪ストーブに両手をかざしつつ苦笑する。
「テキーラで迎え酒はキツいですね……。というか、僕はあんまりお酒飲まないんです」
「そうなんですか」
少し意外だ。
「ええ、飲むならお茶が好きですね。まぁ、酒も飲めと言われれば飲むんですけど」
「へぇ……僕も強くないんですよねぇ」
昨夜の出来事を再び回想しつつ言った。
「結構、昨夜は無理されてましたからね。無理そうだったら、ズビン曹長に渡すといいですよ。スポンジみたいに一気に飲んでくれますから」
イカミヤの比喩に少し笑った。確かに、相当強そうだ。
ほんとに、どうなってるんですかねとイカミヤも笑う。
そうしているうちに、薪ストーブの熱気は室内に広がり、息も白くなくなった。
「イカミヤ伍長はどうしてこんなに早く起きたんですか」
ふと疑問を感じてそう問うた。
懐中時計を見ると、まだ朝の五時である。
「朝飯を作らなきゃならないんです。そろそろ行こうかな」
イカミヤはそう言うと、大きな欠伸をして立ち上がった。
「何時に朝食でしたっけ?」
そういえば、まだ一日の流れを聞いていない。
「五時半ですよ」
イカミヤが返した。
そして、今日は何にしようかな、と呟きながらイカミヤがコートを羽織る。
クラも自分のコートを手に取り、羽織った。
イカミヤがゆっくりと扉を開ける。
木の軋む音と同時に、五臓を凍らせる様な冷気が入り込んできた。
急いで外に出て、扉を閉める。
一層冷たい空気が身体を包む。
東の山際は薄らと明るいが、辺りはまだ薄暗い。
その暗さと相まって、まるで空気が凍っているかのように感じる。
「もう、四月なのに」
そう呟くと、イカミヤが笑った。
「ここは本当に寒いですよね……」
「ここまでとは思いませんでしたよ」
クラは苦笑した。
「でも、夏は涼しくていいですよ。もっとも、すぐに寒くなりますけど」
夏か……。ふとクラは、故郷の夏を思い出した。
祖国のラメントリー国は温暖な国だ。
クラの故郷である、ラメントリー国南部の小さな街は、近くに湖を有していた。
とても美しく澄んだ湖で、夏はよく遊びに行ったものだ。
クラは、あの夏が好きだった。あの暑い、陽炎の夏が。
涼しい夏とはどんなものだろう……。
「涼しい夏、ですか……」
積もった雪を眺め、そう呟きつつ隊本部に入った。
隊本部に入るなり、イカミヤはエプロンを着て、奥のキッチンに入っていった。
まるで主婦だなと、口元を緩めつつ、昨夜と同じ状態の机の前に腰掛けた。
「何か手伝いますか」
そう言うと、キッチンから大丈夫ですと返ってきた。
下手に素人が手伝うより、彼だけでやったほうが良いのかな……
昨夜の美味しい料理を思い出しつつ苦笑する。
にしても、本当に美味しかったなあ……。
そう思った途端、腹が鳴った。
胃袋に突然、虚無感が湧き出る。
腹減ったなぁ……
空腹を紛らわすように立ち上がり、室内を徘徊する。
ふと、本棚に並べられた「260 写真集」が目にとまった。
五冊ある中、最近のものであろう"#5"を手に取った。
席に座り、厚紙の表紙を開く。
一枚目は、滑走路を背景にした隊員の集合写真だった。
日付は一年前である。
全員が笑顔で写っている。
特に、「第260航空戦隊」と書かれた横断幕の右端を持つ隊員は、今にもピースサインを作りそうな笑顔である。
誰だっけな……そう思いつつ、ページをめくる。
二ページ目からは、一ページに二枚の配分で写真が貼られていた。
飲み会の写真、何気ない基地の風景、川で釣りをする隊員の写真……。
パイを顔面に投げつけられたレインタルト少尉の一枚には、思わず笑ってしまった。
面白いなぁ……。
およそ戦争の最前線とは思えない写真に微笑みつつ、ページをめくる。
右上の一枚に目を向けた瞬間、クラの全身に戦慄が走った。
滑走路上に横たわる、戦闘機。
左翼が原形を留めていない。
飛び散った黒いオイル、
枠だけが残った風防。
その周りを隊員達が囲むように立ち、重苦しい空気がクラにも伝わってくる。
それは、無残な姿になり果てた、「タルテ ノール Te.5」であった。
自分の使う戦闘機が、こんなにも無残な姿になるなんて。
写真の下には、「レンス伍長戦死」と書かれている。
そして、その写真の下には、
集合写真で弾けんばかりの笑顔を見せていた隊員の写真。
誰かの誕生日だったのだろうか、装飾された室内で、同じように良い笑顔で親指を立てていた。
その写真の日付は、6/17であった。そして一言、「レンス伍長」と書かれている。
この翌日に、戦死したのだ。
再び戦慄が走る。
はじめて、ここで「戦争」をしているのだと実感した。
微かにに震える手で、次のページへ。
また、何気ない写真が続く。
そして、また一枚、戦死の寄せ書きがある、隊員の顔写真が。
機体の写真は無い。先ほどのレンス伍長は、着陸時に亡くなったので写真があるのだろう。
何気ない写真、そして死。
最後のページには、「撮影・編集者:リース軍曹」と書かれていた。
第二小隊の三番機だ。
そして、まだ震える手でアルバムを閉じ、本棚に戻した。
ゆっくりと席に腰かけ、煙草を胸ポケットから取り出す。
微かに震える手でライターを擦り、火を点す。
乾いた唇の血が、くわえた煙草にこびりついた。
テーブルの灰皿に煙草を押しつけ、大きくため息を吐く。
俺も、人を殺すのか?
ふと、疑問が頭に浮かんだ。
当たり前だ。 自分は軍人として、戦争をしにここへ来たのだ。
反射的に、当然の答えがすぐに疑問をかき消す。
今まで、敵を撃墜する訓練を受けてきた。
訓練では、「人を殺す」実感など湧かなかった。
だが、自分はもう一人前の軍人なのだ。人を殺す訓練を受け、人を殺す任務を背負う。
そして、殺した相手はあの写真と同じように、無残に、あるいは姿も留めずこの世から消えるのだ。
俺は、撃てるだろうか?
自分と同じように、人生を歩んだ人間を。
いや、死ぬのは、俺かもしれない。
そう考えると、寒気が身体を舐めまわし、鳥肌が立った。
灰皿のシケモクをもう一度広げ、思い切り吸う。
微かな血の味と、ニコチンが一気に身体をめぐる。
これが、最後の一服になるかもしれないんだもんな……。
感慨にふけつつ、窓の外に目をやった。
日の出が始まり、橙色に染まった空は、妙に不気味に感じられる。
朝食は、スクランブルエッグとコーヒーという、簡単なものだった。
スクランブルエッグは、微かにバターの味がした。どこか懐かしい味だ。
その朝食の最中から、「朝会議」と呼ばれるブリーフィングが始まった。
「続いて、今日の流れだが」
フィヤートが立ちあがる。
昨日の戦闘報告などが終わり、いよいよ今日の任務についての説明が始まる。
クラは、食後のコーヒーを啜り、姿勢を正した。
「今週はうちの隊が戦闘機哨戒任務に入る。クラ少尉」
不意に声をかけられた。はい、と返事をしつつフィヤートを見る。
「君の第二小隊も、哨戒任務にあたる。しっかりやってくれ」
「わかりました」
哨戒任務……。緊張のあまり、うわずった返事をする。
「担当小隊は、通常通りの順番で回していく。質問のある者は」
フィヤートが辺りを見回すが、挙手する者はいない。
「では、各小隊ごとに集まってくれ。以上」
その言葉を合図に、全員が立ち上がった。
クラも流れに乗って立ち上がりつつ、ズビンのもとへ歩いた。
「少尉、実戦ですね」
ズビンの横に座ると同時に、リースが口を開いた。
「はい……正直緊張します」
「大丈夫ですよ」
ズビンは微笑み、大きく咳払いをして、真剣な眼差しになった。
「さて、うちの小隊は哨戒任務のため、1500に離陸します」
ズビンが説明を始めた。
「哨戒空域は、"がぶ飲み横町"のど真ん中です。恐らく会敵するでしょう」
「がぶ飲み横町、というのは……」
そう問うと、ズビンは地図を取り出し、赤鉛筆で囲まれた空域を指した。
「ここの空域です。クレリアエリア一の激戦区とも言われています。敵も同じように、哨戒飛行を実施しているでしょう」
「なるほど」
クラも地図を取り出し、"がぶ飲み横町"を赤く囲った。
「会敵した場合は、絶対に私の後ろから離れないでください。離れたが最後」
ズビンが、低い声で言った。
昨夜の雰囲気からは考えられない真剣な眼差しに、手のひらを強く握った。
「はい」
そう返すと、ズビンは微笑んだ。
「大丈夫ですよ。肩の力を抜いて……そう簡単に堕ちません」
「はい……」
「では、1430に、列線に集合。それまで個々の準備を」
ズビンがそう言うと、リースが立ち上がって敬礼をした。クラも立ち上がり、敬礼をする。
「あぁ……そうだ。少尉は、煙草はどの銘柄を吸われますか」
ズビンが、答礼しつつ問うた。
「あー……"リプキリ"を吸ってます。特にこだわりはありませんが」
"リプキリ"とは、ボストック同盟軍が官給品として生産している煙草である。
戦技学校時代、初めて吸ったのがこのリプキリだ。
ボストック同盟のマークが描かれた箱も気に入っているし、なにより官給品なので大量に手に入る。
「リプキリですか。よかったら、こいつも吸ってみてください」
ズビンは、ポケットからブリキのシガレットケースを取り出すと、5本ほど煙草をクラに手渡した。
一般的な煙草とは違う、茶色で薄い紙で巻かれた煙草だ。
「これは……」
クラは、受け取った煙草を眺めつつ言った。
「実は、手巻きなんです。バニラフレーバーなんですが」
バニラ?と言いつつ煙草の香りを確かめる。
「確かに、バニラの香りがしますね!」
「でしょう。気に入ったら、仰ってください。いつでも作れますから」
ズビンはそう言って微笑み、自らも手巻き煙草に火を点けた。
煙草の先から出る煙も、バニラの香りだ。
クラもライターを取り出し、一本くわえた。
火を点けて吸いこむと、口の中にバニラの甘い香りが広がった。
「うまいです」
ほぼ反射的に、言った。
「お、よかった。では、作っておきますので」
と、ズビン。
「ズビン・バニラは美味いですよね」
もう一度バニラの風味を楽しんでいると、レインタルトが話しかけてきた。
「はい、美味しいですね……レインタルトさんも吸われるんですか」
「ええ、ズビンと同期のころから吸ってますよ。リプキリも、美味いんですがね」
「正直、リプキリより好みですよ……」
素直な感想だ。甘党のクラにとっては、今のところ最高の煙草かもしれない。
「お金はいらないんですか」
ふと疑問が浮かび、ズビンに問うた。
「いらないですよ、趣味で作ってますから」
「なるほど……ありがとうございます」
「いえいえ。さて、機体を見てこようかな」
ズビンは煙草を灰皿に押し付けると、立ち上がった。
「あ……私も行きます」
クラは最後の一吸いを一気に吸い込み、立ち上がった。
「おい、レイン、死ぬなよ」
ふと、ズビンが、拳を差し出して呟いた。
「お前こそ」
レインタルトはそう返すと、ズビンの拳に、自分の拳をぶつけた。
「少尉とリースも」
クラとリースの方に向き直ったレインタルトが、両手を掲げた。
「もちろん」
リースが、拳をぶつける。
「帰ってきます」
クラも、笑顔で拳をぶつけた。
じんわりとした痛みが広がり、何故かそれが暖かいように感じた。