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勿忘草の咲く陰に

作者: 蒼灯



誰にだって、忘れたい過去があるという。


けれど、忘れたいと思えば思うほどその過去の記憶は深く根付いてしまうものだ。

そうやってその過去に翻弄され、再び同じ過ちを繰り返す。

そのたびに「ああ、またか」と自分を責めてひとという生き物は生きてゆく。


何度季節を廻ろうと、わたしという人間は、わたしのまま変わることなく生きてゆくのだ。





「馬鹿みたい」



手元の古びた手帳を眺め、誰に話しかけるでもなく言葉を零した。

その手帳に書かれた文字はところどころにじんだ痕がある。

その痕を見るたび、なぜだか無性に心が締め付けられる。


この詩を書いたのはいつ頃だったか。そもそもなぜ書いたのか。

そんなことはまったく記憶にない。

自身が書いたのかどうかすら怪しまれるくらいだが、手帳には

はっきりと自分の名前がある。それだけは変えようのない事実なのだ。




「こんな詩を書いたってなんにもならないのに。ねえ、そう思わない?」






「なんじゃ、独り言ではなかったのかえ」



神社の賽銭箱の横に腰かけていた彼女の後ろには、

巫女の姿をした”ひと”ならざる者がいつのまにか立っていた。



「はじめは独り言のつもりだったけど貴女が勝手に後ろに立つから仕方なくよ」


「勝手にとは失敬じゃな。ここはそもそもわらわの土地であろう、

どこにいようとわらわの自由じゃろうて」


「ま、それもそうね。なんたって土地神様だものね」


「正確には土地神に留守をまかされておる妖じゃがの」



そういうと巫女姿の妖は彼女を気に留めることなく

静かに、いつものように神社の掃除をはじめた。


彼女はしばらくその姿を静かに見つめていた。





夕暮れ時、ヒグラシの声、遠くに聞こえる子供の声と波の音。


そして少し涼しい風が二人の間を通り抜ける。

それ以外の音が響くことなく、二人はただ同じ空間を共有していた。



どれぐらいの時間が過ぎただろうか。

夕暮れからもうすぐ宵の闇へと移りかわるという頃に、また彼女が口をひらいた。



「ねえ、勿忘わすれな

「・・・なんじゃ、いきなり名前なんぞ呼びおって」



勿忘という名は、この妖がかつて人であったころの名前だ。

めったに名前で呼ばれることがなくなった今、もはや忘れかけているくらいの名前である。


目の前の少女にいつぞや教えたような、教えていないような。


いや、そんなことはもはや妖の身となったいまは関係のないことだと

考えることを止め、勿忘は少女に目線をうつした。










「私を、わすれないで」







その短い言葉が耳に届いた瞬間、強い風が一瞬のあいだにふたりの間をかけぬけた。

そして、






「、なんじゃ、もう行ってしまいおったか」




次に目をあけたそのときには、少女はいなかった。

少女の座っていた場所には、古びた手帳が残されていただけだった。




勿忘は静かにその手帳を拾い、握りしめる。





ああ、また忘れかけていたのだ。また忘れようとしたことを、忘れていた。


彼女はまた、わたしを、この世界に繋ぎとめにきてくれたのだ。





「私をわすれないで、か」








忘れたい過去を持っていたあの頃。


その過去を忘れ、そして、わたしはわたしでなくなった。

忘れたい過去を消したその日に、わたしはすべてを失ってしまったのだ。



忘れたくなかった過去もなにもかも、

わたしは自らその過去を捨てる道を、

なにも考えずに選んでしまったのだと思い出した。



そうしてわたしは、最後に持っていた手帳に書いた。

自分の名前を、「勿忘」と。


過去を消した。その時に見た、わたしを愛していてくれたひとたちの、あの顔を。


その顔を見た事実だけは、決して、忘れてはならないのだと。


きっとこの記憶が戻ったこともすぐに忘れてしまうのだろう。

それでもまた、わたしはこのことを思い出す。

そう信じ、古びた手帳を神社の奥へとしまいこんだ。




「勿忘は、忘れはせぬぞ、わたしのことをな」





外はもう、夜の闇がひろがっていた。









「もう、忘れてしまいたいのよ!」

「本当に、すべて忘れたいのかえ?」



そしてまた、この勿忘神社へと誰かが足を踏み入れる。





季節外れの勿忘草が、青く美しく、風に揺れていた。





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― 新着の感想 ―
[良い点] 短編らしさがとても出ていたと思います。 自分的にはとても好きな作品になりました!! また、短編などを出してくださったら嬉しいです!!
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