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『旅路』

作者: Sady

『旅路』


旅。それは、私を探す旅。そして、私は気がついた。いや、気づかされた。私自身は探せど見つからなぬという事実を。つまり、かけているメガネは探せど見つからぬということを。そして、私は私自身の探し方を変えることにした。


私は何の変哲も無いごく普通の家庭で育った。少なくとも幼き頃はそう思っていた。しかし、今思えば、食べたい飯を食することができ、欲しいものを買ってもらえる家庭環境は、贅沢だったのかもしれぬ。しかし、そんなことを微塵も感じずに私は京都の隅の方で両親と兄と暮らしていた。幼少期の頃の口癖は、「〜のくせに。」という差別的な言葉で、所謂「可愛い」子供ではなかったと私は把握している。何故なら、親兄弟から幼少期の私が可愛かったという話を一切聞いたことがなかったからである。そのため、いつも母親は皮肉じみた言葉を私に浴びせていたのである。


「心なのにハートない言葉ばっかり使って。」


私は深い川の奥底に沈むような冷たい心の持ち主である。名前は当人の人格を形成すると言うが私は真だと思う。深川心フカガワココロと命名されたその時から、私の人格は決められた(同姓同名なら同じ人格かと言えばそうではないが)。深い川のように広くて透き通った綺麗な心の持ち主という解釈もできたのかもしれないが、当時の私はそこまで広大な思考の私有地を有してはいなかった。そして、幼き頃の自己形成時の人格は今の私の基盤となってしまった。しかし、そんな基盤を私は嫌だとは一切思わない。思わぬ様にしているだけなのかもしれないが。深い川の奥底は、緑、青、藍、黒、黄、赤…様々な色で満ち溢れていた。浮遊する色彩が織りなすハーモニーはまるで、蜂蜜とヨーグルトの白と黄金色が混ざり合う様に。その事だけで幼き頃の私は満足であった。この様な感覚は周囲から共感を得ることはなかったが、私自身は結構好きだったのである。


そんな私の価値観の変容が著しく行われたのは中等部への入学がきっかけであった。その頃にできた友人のてっちゃんの影響を受け、哲学的思考をする傾向へ陥った様に思われる。しかし、読書が嫌いであった私は、ソクラテスや、プラトン、アリストテレスなど一切読んだことはなかった。そのため、てっちゃんによる説法が私の哲学的思考の基盤を作った。

ある日、てっちゃんは私にソクラテスの思考を説法した。ソクラテスの思考は、「神のみぞ知る」という様な言葉にある様に、人間の思考に限界を敷いた上での絶対的な神を置くというものだと。


「なら、神様ってなんなの。」


と私はてっちゃんに聞くと、てっちゃんは、


「ある種のボンドなのかもしれない。」


こう言った。私には、人知を超える事象や矛盾を繋げる存在として、絶対的な存在のしない存在として神を定義している様に解釈した。オクシモロンの存在もまた神の存在に接合する様な気もすると、てっちゃんの説法から私は考えたりもした。

次にソクラテスの唱えた「無知の知」という言葉についてもてっちゃんは説明してくれた。


「人は死んだらどうなるかわからないだろ。それをあたかも知ってるかの様に説明すること、妄言することは自己の賢人化を行なっているに過ぎず、知らない事に対してはやはり、知らないとするべきとして、無知の知という言葉をソクラテスは主張したんだよ。」


「つまり、無知であるということを知る必要があるということかい。」


「そんなところだ。」


私には、てっちゃんの話が哲学を語る賢人化された人物として見えたが、その事については言わないでおいた。しかし、ハートの中では、


「ただ哲学が好きな中学生のくせに…」


というてっちゃんへの気持ちが私の裏側には存在していた。しかし、てっちゃんは多くの事を私に説いてくれた。だから、その事だけで裏側が表には一切出て来ることはなかった。てっちゃんは、先生より先生であった。学校での学びが社会にどう還元されるのか分からなく、詰まらなく感じていた私にとって、てっちゃんの教えは社会との接合性を齎し、私の思考のシナプスとなった。その様な説法により、私は社会に対して疑問に思う事柄が増えた。物事を覚え始める幼稚園児の様に疑問は思考の器をいっぱいにして溢れさせた。その中でも、あやふやな定義について疑問視する様になった。社会に蔓延る「普通」「大人」「自己」が如何なる意味を持つのか、これが中等部でのぼんやりとした疑問であった。しかし、中等部での疑問はそこまで深くはなかった。


「いつ、人間は子供から大人へ変わるのか。」

「社会の普通ってなんだろうか。」

「自分が生きる理由はなんなのか。」

「自分て誰なのか。」


など単純でシンプルな疑問であった。しかし、てっちゃんはその解については、一切教えてくれなかった。ただ一言、私の疑問について答えてくれたのは、


「その葛藤も人生だよ。」


これだけだった。しかし、当時の私には深かった。

高等部へ入学と同時に私は旅に出た。学びの旅である。読書という新地開拓の旅である。私にとっては、辛い旅となった。四角の中にある何万字もの文字を上から下へ、行く場所を失えば、左に一つ移動してまた上から下へ。しかし、旅をして学ぶことは多くあった。

ある人は、人間関係における問題の発生は自然との乖離が原因であるという。ある人は、蝶々は美しく羽ばたき世界を自由に飛ぶというのは、偽であると説き、蝶々には蝶道という見えない道があり、そこを飛んでいるに過ぎないという。ある人は、近代化を経て、私たちは前近代の人々が感じていた感覚を得ることはできないと説き、ある人は、他者との関係でしか自己は存立せず、人間は1人では生きていけないと説く。ある人は、自文化を見るためには、他文化を見る必要があると説く。またある人は、人間は酸素、炭素、水素、窒素、カルシウム、リンなどで構成されており、簡単に購入できるもののみで構成されていると説く。


「読書という旅は兵隊蟻が女王蟻に餌を持ち帰る様である。」


これが私の旅の感想である。知識という養分を脳に持ち帰り、脳が養分を吸収し、自己の基盤を強固なものとする。しかし、等価交換として体力を多く有してしまうのが私の感じた旅の欠点であった。


「やっぱり、てっちゃんは凄かったんだな。」


てっちゃんの旅の壮大さを私はひしひしと感じざるを得なかった。私の数億倍の広さを所有するてっちゃんの私有地である思考広場は、宇宙が何個はいるのだろうか。そこには既に林檎の木も生えているのだろうか。林檎を食す様に誘導する蛇の存在にも気づいているのだろうか。


「そう言えば、心は普通や大人、自己が如何なるものなのか知りたがっていたね。それを知るために新たな旅に出るといいよ。」


てっちゃんの言葉が私の進む見えない階段に色を塗ってくれた様に私には思えた。私の中等部での疑問は知らず知らず、私の人生の主題になったのである。そして、高等部を卒業後、大学へ進学をした。そこには、てっちゃんの様な人が沢山おり、私にとっては知識の宝庫であった。大学への進学が新たな旅の一つだということに気付かされた。しかし、未だに辿り着かない疑問は山積みである。そこで、自己を探す旅に出た。


「私という自己とはどの様な存在なのか。」

「私という自己はどうあるべきなのか。」

「私という自己は何なのか。」

「私という自己がなぜ私には見つからないのか。」


この様な議題を持って旅に出たのだが、興味のアンテナは反応をするが、そこから私という自己が見えてくることはなかった。ある人は、単純な元素からできている有機体だと述べていたが、そこからが分からない。在ることを認めた上で何を求めれば良いのか。何をする必要があるのだろうか。解のない事への葛藤は続くばかりであった。葛藤を持ちながら、大学で受けた講義が、文化人類学という講義であった。


「文化人類学とは”他者理解”を求める学問である」


と教授は私に訴えかけた。


「しかし、今や学問には限界が存在する。完全な他者理解の不可能性である。だが、不可能性を理解した上で他者理解を追求することに、文化人類学の意味がある。」


「文化人類学という学問には常に葛藤が存在する。多くの学者たちがその葛藤と闘い、超えることができなかった。その一つが、文化的媒体を通してでしか物事を図ることができないということ、そして、個人個人は唯一無二の存在で二人として同じ思考を持つ人間が存在しないということである。」


新しい路地という脳のシワを教授は私の脳内に創り出した。


「これが応用できないだろうか。」


そして、私は高等部の時の旅を思い返した。人間は他者との関係でしか存立し得ないということ。つまり、自己の存在は二人以上で成り立つ一人だということ。そして、文化的媒体を通してでしか物事を測れない時、私という存在は思考することはできたとしても、発見することはできないということを。また、その自文化を知るために他文化を知る必要があるということを。


「なんだ、簡単なことだったんだ。」


私は眼鏡をかけながら眼鏡を探していた。唯一無二の私という存在を私は探そうとしていた。そこに自己捜査の限界性があったことに私は気がついた。


そして、探し方を変えることにした。鏡を見ずに私という存在を浮き彫りにしようと試みた。自己という存在がどれだけの他者から成り立っているのか。それは、誰かが旅の途中で言っていた自己にある他者性も含むものである。

他者から自己を浮き彫りにするにあたって、生まれた時から考え始めることにした。両親との関係性から把握できる自己は、深川心という名前を如何なるコンセプトでつけたのかということ。


「心を持って生きて下さいという気持ちを込めて。でもあんたの言葉にはいつだって心がなかったね。」


母親は皮肉じみた言葉を私に浴びせたが以前ほど喰らわなかった。そこには、これまで私自身を育ててくれたという感謝のハートが私の器をいっぱいにしていたからであろう。また、金銭面に不便なく食べたいものが食べれて、したいことができた環境下は、今の私を形成する大きい枠組みとなっていることなのだろうと思考を巡らす。


次に学校の先生の存在から形成された自己の存在について、思考の警備隊を鼻の効くドーベルマンと一緒に脳内を巡回させた。自己を社会の一員として位置付けたのが学校という存在であった。そして、てっちゃんと巡り合わせてくれたのも学校のお陰である。私という大きな土台の土台を形成させてくれたのも学校であり、自己形成に役立つ一つであった。また、学びの面白なさを教えてくれたのも学校の存在であった。つまらなさを感じることができたことにより、面白さを理解することを際立たせた。やはり、私を創った場としては大きな意味がある。


そして、友達の存在。やはり、自己形成を成していく上で大きな存在であるのが友人の存在、とりわけてっちゃんの存在である。てっちゃんは私の学びの基礎を築いた教祖様のような存在である。しかし、絶対的ではないというところに、人間としてのてっちゃんの良さがあった。神との大きな差である。


「知識はある種の私にとっての神なのかもしれない。」


そうふと感じた。知識が周知の範囲を広げて、乖離していた事象をボンドのようにコネクトさせる時、知識は私にとっての神であった。しかし、それでは、オクシモロンは理解できない。そこに知識以上の存在として神は私のハートに降臨していた。


ミクロな視点から他者との関わりの中で自己を探していった。そこで、私にとっての「普通」が身近な存在であった人々とも違うことが明らかとなった。そこで、次にもう少しマクロな視点から、他者との関係性から自己を浮き彫りにしていこうと考え、日本を出た。日本の外には自己形成に必要な知識以外の様々なニーズが存在していた。


「阿吽の呼吸が眼に見えるなんて。」


これが日本を出た時の感情であった。脳内ドーベルマンが日本を出た時から吠え止まない。他国の人々との関わりを経て、自国の事柄が垣間見えた。コミュニケーションにおけるトラブルは尽きず、同じ人間でもここまで違う思考を持つ存在なのかと衝撃を受けた。


「当たり前が当たり前でない社会は、私の普通を嘲笑う。」


無知が私の普通という枠組みの塀を創り出していたという事を開示してくれた。そこで、私の脳内辞書に普通の定義において既知の事実であり、理解の範疇にあることが追加された。しかし、やはり、全ての人間にとっての普通ではないということから、行き着く先として、大きな存在のしない物体として普通は在るのだろう。


また、言語が通じない場所へ降り立った時、周りは私という赤の他人である自己を助けてくれた。周囲との関わりから自己が形成されている事を改めて気づかされた。この様に旅を経て、多くの知識や経験が私の辞書を構築していることを身に染みて感じた。


「これが私です。」


ここに、一定の他者という枠組みから自己という本体を見出した。このことをてっちゃんに伝えてみた。すると、てっちゃんは、こう言ってみせた。


「人生という巨大な大津波の中で経験や知識は大きなノアの方舟と成り得ることを私は伝えたかったんだよ。」


そして私は、


「なに神様みたいなこと言ってるんだよ。てっちゃんのくせに。」


と昔からの口癖と共にてっちゃんを嘲笑うかの様に軽く返した。



そんな私は人の世という強靭で脆くて儚い、長くて短い旅路の途中であります。

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