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書聖

作者: 明宏訊

苦難に満ちた長い旅を経て、やっと学者の卵はそのたてものに到着した。

古い石が何百年もかけられて重ねられた。

きっとその工程には失敗もあったろう。

歳月の変化は、このたてものを石の木に喩えることも可能だろう。

不慮の事故が年輪のなかに刻まれているにちがいない。

肉体から自由になった魂もあったにちがいない。

生まれながらにして与えられた政治的権利をなげうち、学問の世界を選んだことをそのように嘲笑する友人もいる。

肉体から自由になった、と。

だが、このたてものの建立に際し、旅立った人たちほど青年は栄光に包まれているわけではない。

その後、肉体は自分の主人が天国の門を潜ったことに疑いをはさむことはなかっただろう。


宗教的な権威者の言葉が甦る。

生まれてはじめて出会った宗教的な権威者はだみ声の老人だった。

子供だから、その人物と出会ったことの意味を考えることはしなかった。声の醜さだけで低い評価を与えていたのだ。親の酷評も多いに影響しただろう。

そんなことを考えながら、時代がかかって、苔が何重にも蒸した門を潜った。

学者の卵は古い経典に埋もれるためにはるばるここにやってきた。

卵が孵るためには、狭き門を潜らねばならず、その目的のためにやってきた。

だが、それはあくまでも親に対する口実にすぎなかった。

境遇に恵まれた当該人物にとって、必ずしも狭き門は狭き門ではなかったからだ。

そのことよりも古い経典に埋もれることは、当該人物にとってまさに天にも昇る心地だったのである。

生まれて二回目に出会った権威者は、まだ若くて美しい巫女だった。美しい女を竜に喩え、その声を竜舌と呼んで、強い誘因のレトリックとして使うことなど、子供には関係ないはなしだった。ただその時に囁いていた大人たちの会話・・・その多くは嘲笑だったが、後になってその意味は理解した。

なにはともわれ、信仰に対する思いは美しい巫女を透して、はじめて具現化していた。本人はそのことに気付いていない。

若い求道者は門を潜るときには、さすがに襟を正した。心の中でそっと呟いた。

まさに、時、来たれり。

書の匂いがたてものの外まで漂っていたからだ。それが物質的なものではなく、身体の中に流れる青い血が感じさせるものだとは気付かなかった。

まさに、時、来たれり。

しかし、道を求める者が文字の山に一度、埋もれたならば、と古人や先輩からよもやばなしは単なる神話に過ぎなかった。

すくなくともひとつの聖典を捲ったときはそれに該当した。

表紙から、名だたる書聖が手がけた文章であることは明白だった。

当該人物とても、学問を齧った人間であり、一目でそれを見破った。

それほどの知識がないならば、ここに招き入れられることはない。

修養者たちだけではなく、ここで生息している黴も入場を許可してくれまい。

きっと肺の何処かに寄生して、その生命を瞬く間に奪うにちがいない。

さて黴が歓迎してくれたことが、当該人物にとって幻滅の理由ではない。

目に飛び込んできた文字があまりにも稚拙だった。

名だたる書聖と呼ばれて久しい。この人物が生きていたのははるか何百年も昔のことである。そのとき神々から地上を治めるべく聖なる遺物を与えられていたのは、若い求道者が属する眷属とはちがう氏族だった。

たとえ悠久の時間が流れても、遺されたものの確かさは変わらない。

たとえ所属する氏族が違っても、認めることにしくことはない。そういう度量の深さを、若い求道者は勝手に誇りに思っている。


文字だけでなく、学問の世界においても一流の人物と見なされている。

当該標的に対する評価に関して、

書聖の文字ゆえに稚拙というのではない。

すくなくとも、当該人物が所属する共同体においては、まともな大人が振るった筆の結果ではない。

文字の出来不出来が、人間評価の全てを左右するわけではないが、すくなくともある程度の水準を超えなければ動物と同一視される。

開いた口が塞がらないとはこのことだが、いくらなんでも歴史時代の人物に対して毒づいてもしょうがない。あちら側から答えが返ってくるわけでもない。

該当人物が魔法を良くしたという話は聴かない。

この書の目的が那辺にあるのか。まさかはるか数百年後に、ある学生の顎が使い物になくなることを計ったわけでもあるまい。しかしあるいはこの文字が魔法の書なり、図象であって、時限的に効果を発する代物ではあるまいかと思い立った。書聖が残した文章のうち、学生が目を通した作品を頭にうかべ、その思想と歴史背景を土台にしてとっさに思考を重ねる。だが、自分の死後、それもはるかなる未来にどのような果実を時限的に得ようというのか。書聖本人でなければ、彼の末裔ということになろう。が、書聖が自身の出身氏族にそれほど深い思い入れがあったのか、それを示すような文章、あるいは詩を目にしたことはない。

書聖を想う。

彼が仕掛けた魔法ならば、受けてもいい。

それが見知らぬ人間への敵意であったとしても、身体が裂けて、魂が悪魔に売られたとしても、むしろ受けて立つという気分になっていた。

そういう思いが眼球に文字を追うことを命じていた。

緊張の連続は眼球にダメージを強いる。

瞼も震えてくるし、充血も避けられない。

ところが、書物を捲っていくと、衝撃的な赤い文字を眼球が捉えた。

赤い文字は、その稚拙な文字が子供の筆跡であると伝えている。

書聖の子供といえば、その世界に名を轟かした人間の名前が何人か上がるが、そんなことよりも注釈の内容に魂を引かれた。

事ここに至って、文字がやっとその意味を伝えてきた。

いままでは字義よりも、ただ字、それ自体の巧拙にだけ注意が向っていた。

書聖が自分に何を伝えようとしていたのか、わかってきたような気がした。

きっと魔法の力を使って、いまでも生きている。

肉体をこの書物に変化へんげさせて、ここに魂を住まわせているにちがいない。

若い探究者が何に囚われ、何を摑みきっていなかったのか、この魂という文字と、その注釈がすべて語っていた。




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