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音無くんと恋愛物理学  作者: 早乙女 涼
プロローグ
3/11

音無くんとその周辺


 ――燃えていた。

 建物の中が燃えていた。

 たくさんの洋服を飾っていた棚が。綺麗な衣装を纏ったマネキンが。窓枠に掛けられたカーテンが。床に散らばった商品が。みんながみんな燃えていた。

 僕は、真っ白になった頭の中で、何も考えることができずに、ただただ呆然と、焦げくさい臭いが充満するその中で、両足を投げ出して座りこんでいた。

 真っ赤な色の炎が凄い勢いで広がりながら、辺り一面を呑み込んで行く。建物の中が、赤一色で染め上げられていく。

 その様子を、僕は静かに眺めていた。その場を動かず、逃げようともせず、じっと眺め続けていた……。



            ☆



「……夢、か……」


 視界に広がる見慣れた風景に、僕は現状を把握して、安堵の息を吐く。

 初めて見た夢の内容は、とてもじゃないけれど幸せとは程遠いものだった。


(せっかくの夢が台無しじゃないか。寝直そう……)


 朝の五分はダイヤモンドに匹敵する貴重な時間。僕は夢の光景を振り払うように顔を振ると、横になったまま頭上にあるセットされていない目覚まし時計を見る。

 ……ふむ。

 …………。

 ………。

 ……。


「……いちゃん………」


 遠慮気味の、可愛らしい声が室内に響く。


「お時間………。起きて………」


 優しげな微笑みがそのまま頭の中に浮かびそうな澄んだ声。いつも決まった時間に降り注ぐ天使の目覚まし。

 どうやら起床時間みたいだった。千鍵のほっそりとした手が、布団に向かってそっと伸びる。


「お兄ちゃん、お時間です……よ………?」


 が、その布団に触れた瞬間、千鍵の頭に疑問符が浮かんだ。


「――おはようっ、千鍵!」


 そしてクローゼットの中から勢いよく飛び出す僕。そんな僕を見て、愛しいマイシスター千鍵は、慌ててベッドに掛けられた布団をひっぺ返した。

 そこには、丸められた毛布が気持ちよさそうに丸くなっている。


「ああぁー! お兄ちゃんまたやったあ!」

「いやあ、なんかいつもより五分ほど早く起きたからさあ。今日は勝てるかなってね」

「むー。私が起こすからいつも勝手に起きないでって言ってあるのにぃ」

「いや、だって毎回起こされるだけじゃあこっちが受けっぽくて悔しいじゃない」

「お兄ちゃんの寝顔見ないと力が出ないのにぃ……」

「どこかの虎のマスコットじゃないんだから……。とりあえず朝ご飯の準備よろしく。僕はシリアル食品じゃなくて、千鍵の朝ご飯食べないと力が出ないし」

「ほんとっ? うん。もう出来てるから、早く着替えて降りてきてね♪」


 僕の言葉に、途端に機嫌を取り戻す千鍵。こういう所が可愛いんだよね、この妹は。

 軽い足取りで僕の部屋から出ていく千鍵を見送って、僕は時計を見た。いつもとは少し違う時間を、その二つの針は指していた。

 僕の時計には目覚まし機能が必要ない。まあ、その理由はさっき見てもらった通り。千鍵が、「私がいるから必要ないですっ」と、大反対したからなんだけど。


(さて、せっかくの早起きもここでまったりしてたら無意味になっちゃうしね。千鍵の朝ご飯を食べて、学校に行こう)


 僕は手早く制服に着替えると、部屋を出ていった。



            ◇



「そういえば、今日から新学期だけど……。大丈夫、お兄ちゃん?」

「うん、まあなんとか。特徴はみんな空と千鍵に教えてもらったからね」


 登校前。ここ、音無家には今、僕と千鍵の二人しかいなかった。

 なんでも結婚したとき、お互いに忙しくて行けなかった新婚旅行を、二十年ぶりに堪能するらしい。

 仕事で知り合った海外の友人の家を渡り歩き、三か月ほどぶらぶらするつもりだとか。

 その三か月の間に、この可愛らしい妹が、人として間違った一歩を踏み出してしまわないかちょっと不安です。

 朝起きて、同じベッドで寝ていようものなら……なんといってもこの音無大地、自制心の弱さには自信があるし。

 とにかく、今日は二学期初日。遅れるわけにもいかないし、僕にとっては初めての学校だ。何があるか分かったものじゃない。

 なので、朝早く起きた理由は早めに慣れる事。そのためだった。

 この時間は朝練中の部活動をしている生徒だけみたいだし、丁度いいのかもしれない。


「――よし、それじゃあ行こうか」

「うん♪」


 皮靴を履いた僕は、爪先をトントンと軽く叩きながら、一歩を踏み出した。

 家の施錠を確認していると、別の家から、赤い髪の女の子が出てくる。

 空だ。

 僕は空と目が合うと、大きく腕を振り、彼女も軽く腕を挙げて振り返してくれた。

 どちらからともなく合流する。


「おはよう、空」

「おはようございます、くーちゃん」

「おはよう」


 夏制服の空。ちょっと新鮮だ。

 いや、まあ見慣れてないから仕方がないんだけど。

 白いワイシャツに黒を基調とした、赤と白のチェック目の入ったスカート。

 ちょっと可愛い。

 それに日焼け防止なのか、空はハイソックスを履いていた。


「な、なによ……? そんなじろじろ見て」

「え? いやあ、なんだか新鮮で可愛いなあって」

「えっ……」


 率直な意見を述べると、途端に空は顔を赤くしてしまった。

 自分もちょっとクサかったかな? と思って照れ臭くなってしまい、後ろ頭を軽く掻くと、横から頬を膨らませた千鍵が不満げな顔を出した。


「お兄ちゃん、千鍵には何も言ってくれないの……?」

「う。ち、千鍵も可愛いよ」

「えへへ、それならよかったです♪」


 途端に上機嫌に戻った千鍵に、僕は小さく安堵の息を吐いた。

 空は苦笑いでそれを眺めており、小声で僕に「いつも大変ね」と言ってくれる。

 僕はそうでもない、と返しながら、三人で学校へと足を向ける。

 そこには、およそ十五分ほどで到着した。

 群青橋東学園。僕達が通う、この群青橋唯一の学園だ。

 際立った何かがあるわけじゃないけれど、そこそこの設備とそこそこの成績、それに何より近さが素敵。

 家から徒歩二十分圏内の学園っていうのは、かなり貴重だと思うし、それだけで選びたくなってしまうものじゃないだろうか。

 夢よりも通学時間。なんだかんだ言っても、これは覆せない現実じゃなかろうか。というわけで、この学園を選んだ以前の僕は胸を張っていいと思う。

 ……まあ、前の僕だったらもっと違った理由を言うんだろうけれど、今の僕はそれを言えない。

 それを言ってもいい資格を、今の僕は持っていない。

 だからこそ、ここに通い続けていいのか本気で悩んだけれど、結局ここにした。それでも、ここへ通い続けなければいけない気がしたから。


「そうだ、お兄ちゃん。今日の放課後、お買い物につきあってくれませんか。お米が切れてしまってて、私一人だと、ちょっと……」

「ああ、いいよ。千鍵にお米なんか買いに行かせたら、丸一日は帰ってこれないしね」

「えへへ。否定できないのがちょっぴり悔しいかも……。でも、お兄ちゃんに甘えられる。幸せです♪」


 千鍵は言って、僕の腕に自分の腕をからませピッタリとくっついてくる。

 うん……。あま姉の比じゃないよね。このむにぅってボリューム。癖になりそう。


『こらこらそこ。あまりに仲睦まじ過ぎて空が引いてるわよ』


 不意に背後から浴びせられた声に振り返ると、いつも通りの顔があった。


「あま姉、アニキ」

「おっはよ。三人とも」

「相変わらずだなあ、お前らは。もう結婚しちまえよ」

「私は、いつでも嫁入りOKなんですよ? もう結婚できる年ですし」

「いや、僕の方がOKじゃないから」

「……天音ちゃん。兄妹で結婚できる国って、どこですか?」

「え、えっとぉ。ちょぉーっと思い付かないかなあ、流石に」

「おいおい、いきなり先に進みすぎだろ。まずはパスポート取ってからだ」

「あ、そうですね。流石銀くんです♪」

「ちょっと三人とも! そっちの方が先に進みすぎだから!」


 空は唐突に発展し始めた僕達の会話に顔を真っ赤にして終止符を打とうとした。

 でも、アニキはニヤリと肩頬を持ち上げて僕達を見た。


「でもな、昔のさる高貴な血筋は、その特別な血を守るために兄妹同士で結婚させたりしていたらしいぜ?」

「……天音ちゃん。『高貴なる血筋』って、どうしたら慣れると思いますか?」

「相談する前に少しくらいは疑問に持ちなさい、あなたは」

「だって、私の夢なんですよ。お兄ちゃんの、お嫁さん。えへへっ、言っちゃいましたぁっ♪」


 その身体をクネクネと揺さぶりながら、恥ずかしそうに顔を赤らめる千鍵。変わらないんだなあ、ほんと。

 実際、兄妹でさえなければ千鍵みたいな子にこれくらいの好意をぶつけられて嬉しくないはずはないわけで……。いや、兄妹でも嬉しいかな、うん。


「……なんだ、だったら兄妹でもいいかもしれない!」

「そんなわけあるかーい!」

「むう。お兄ちゃんとくーちゃん、お堅いです。今は女性も広く社会に出る時代なんですよ。血のつながりの一つや二つ気にしていたら時代に取り残されてしまいます」

「いや、男女平等と近親相姦は全く別のものだよ、千鍵……」


 残念だけど、どんなに好かれていても結局は兄妹だからなあ。


「でもちーちゃん。もうちょっとは自分の人気を認識しなさい。あんまりべったりだと、大くん闇討ちのひと、やり返しちゃうでしょう?」

「大地、顔はやめとけよ。痣ぁ残るぞ。あとでウチのお子様は永遠に汚れず真っ白なまま! と勘違いしているモンスターミセスな皆様に襲われるぞ」

「僕はやられる心配はなし!?」

「大丈夫です、お兄ちゃん♪ 私、責任取って一日中つきっきりで看病しますから! 擦り傷でも!」

「闇討ちかまーんっ!! ぷりぃずSU・RI・KI・ZU!」

「ほーら、そうやってすぐ真に受けない。大切な人が傷つく姿なんて、女が本心で見たがるはずないでしょ」

「でも……私のために戦ってくれるお兄ちゃん……はぁ……♪」

「……むしろウットリしてんぞ」

「ごめん。ちーちゃんだものね……。大くんも、あんまり煽んない方がいいわよ」

「いやあ、分かってはいるんだけど、千鍵に迫られると男としましてどうしても。ねえ?」

「……ちーちゃん、綺麗な身体のままでお嫁に行かせてあげなさいよ」

「そうか? そっち進んで後悔のない道なら、別に構わねえと思うがな」

「はい。むしろ喜びいっぱいです♪」


 そんな百パーセント純粋な笑顔の千鍵を見て、あま姉は僕の肩をぽんっと叩いた。


「世間の風はシベリア以上に冷たいけれど、強く生きなさい♪」

「なに、あま姉。その心底楽しそうな笑顔」

「そりゃお前、心底楽しいってことだろ?」

「大くんのちょ~っぴり困った顔って、あたしの中の女を激しく揺さぶるのよね~♪」

「ダメだ、この兄と姉! 早くなんとかしないと!」

「……まぁ、不覚にも可愛いって思っちゃったけど……」

「ちょっ、空まで!?」


 ここ一番の常識人が陥落してしまった!


「私は……なんとかしないでいいと思うんですけど……」


 ……なんとかしないでいいかもしれない。




「んじゃな。昼寝は、バレないようにしろよ?」

「じゃね、大くん、空、ちーちゃん」


 アニキとあま姉の教室は僕らとは反対側にあるらしく、二人は軽く手を振ると、足早に教室へと肩を並べて歩いて行った。どうやら合流してくれるみたいだ。


「それじゃ、僕らも――って、千鍵!?」

「あっ、少し待ってくださいっ」


 空に下駄箱を教えてもらい、僕が靴を履き替えて、数列違いの千鍵に声をかけたところ、千鍵の下駄箱の中から数通の手紙が落下していて、顔を赤らめながら拾い上げている千鍵の姿があった。

 僕は隣にやってきた空に千鍵を指差して「いつもこうなの?」と小声でたずねると、空は苦笑いで頷いた。

 なるほど、これならあま姉の言う事にも納得がいくよね。

 妹は学園の人気者。なんていったら、刺されかねないや。

 よし、今日から家に帰る時は誰かと一緒に帰るようにしよう。

 千鍵が靴を履き替えるのを待ちながら、僕はそう決心した。

 教室の方向が同じの僕達は、三人で各々の教室へ向かう。

 僕と空は同じクラスで、千鍵は幾つか離れたクラスらしい。まあ、学年が一つ違うんだから当たり前か。

 教室へ到着し、廊下側もガラス張りになっているそこから、僕は教室の中を覗いてみた。

 誰もいない教室。でも解錠はされているみたいだ。机の上に荷物が置かれている。


「それじゃあ、千鍵。また後で」

「またね、千鍵」

「はい♪ くーちゃん、お兄ちゃんのこと、よろしくお願いしますね」

「任された」


 空は胸を張って答えると、千鍵は僕へ微笑んでから自分の教室へと歩いて行った。

 僕達はそれを見送ると、自分たちの教室へと入る。


「おはようございまーす……」

「なによその寝起きどっきりみたいな小声」


 くす、と空に笑われ、そーっと入室した僕は苦笑いを浮かべた。


「ここが大地の席よ」


 空に自分の席を教えてもらうと、僕はその席にバッグを置いて机の中を確認した。

 何も入っていない教科書類。どうやら僕が今日持ってきたのは間違いじゃなかったみだいだ。

 流石に一カ月半くらい放置してたら、カビとか生えちゃいそうだしね。

 僕は自分の机の中に今日持ってきた五教科の教科書を入れると、バッグを横のフックにかけた。

 空は僕の前の席で同じ事をすると、ロッカーを見に行くと言う事で一緒に廊下へと出る。

 続いて何も入っていない自分のロッカーを確認すると、そのロッカーを閉じた。

 13番とかかれたそれが、どうやら僕の出席番号みたいだ。

 そして空は1番。雨宮(あめのみや)だからかな。


「確認終わった?」

「うん。空は?」

「わたしも」


 お互いに小さく頷きあうと、続いて僕達は校内を練り歩く事にした。

 三階建構造のこの学園は、一階に職員室と教室があり、教材室や保健室、会議室などもある。

 二階は特別室ばかりで、科学実験室や生物学実験室、地学室など色々な教室があり、移動教室の場合は大抵二階とのこと。

 三階は食堂やテラスなどがあり、学園生徒や教師達の憩いの場として使用されているらしい。

 多目的ホールや視聴覚室は三階みたいで、許可さえ貰えば生徒だけで使用することができるみたいだ。


「……まあ、このくらいかしら」

「うん、大体分かったよ。ありがとう、空」

「あとは体育ね……。まあ、体育は男女合同だし、移動教室もわたしと一緒に居れば大丈夫でしょ」

「お世話になります、空様」

「ちょ、なによ改まって」


 頭をさげた僕に、空は小さく笑いながら「やめなさい」とけしかける。

 僕は微笑みながら頭をあげると、空が職員室へ行こうということで、僕達は一緒に階段を降りて一階へ。


「それにしても、校舎凄く広いよね。新入生とか特に迷いそうだけど」

「それ正解。大半の新入生には生徒手帳に学園内の地図が載ってるわ。二年からは手帳が一新されるから、もう載ってないけど」

「そっか……」


 胸ポケットから生徒手帳を取り出した僕は空に補足されてしぶしぶ生徒手帳を戻した。


「ああ、それと三階には生徒会室もあるわ。大抵会議とかは一階で行われるから、殆ど生徒会室に行く生徒なんていないけれど」

「そうなんだ」

「うん。行ったとしても一年に二・三度あるかどうかくらいかな。でも、夏場はクーラーきいてるし遊びに行く人も多いけど」

「涼みに行くんだね……」

「わたし達もよく行ったりする」


 僕と空は苦笑し合うと、一階へ到着する。

 階段は東階段、西階段、中央階段とあって三つあり、避難経路にもそこが利用されているみたいだった。

 僕らは職員室へ行こうとすると、途中でアニキとあま姉、そして千鍵と遭遇した。


「お。デートは終わったか?」

「デートだったっけ、空?」

「そ、そうかも……」


 空はいじられていることに気付いたのか髪の先を弄りながら顔を赤らめて肯定してしまった。


「楽しいデートだったよ」


 僕は満面の笑みでそう宣言すると、アニキは苦笑いして「まさか本気で返されるとはおもわなんだわ」と嘆息した。


「職員室行くんだろ? 行こうぜ」

「そうねー。谷Tならこの時間いると思うし」

「谷T?」

「谷原先生。わたし達のクラスの担任よ。担当科目は科学」

「そうなんだ」

「お若い女性の先生なので、凄く親しみやすいんですよ?」

「へー」


 どんな先生なんだろう。僕は谷原先生を想像しながら、職員室の前へ立つ。


「失礼します」


 ノックしてから入室して、そこで気付いた。


「二年……の音無大地です」

「雨宮です」

「三年の大須賀と橘でーっす」

「一年の音無です」

「谷原先生はいらっしゃいますか?」


 僕を先頭にみんなで入室すると、まだ数のまばらな先生達がどよめいた。

 その中で、白衣を着た、赤いフレームの眼鏡をかけた銀髪の美女が僕達へ歩み寄った。


「おはよう、音無くん」

「おはようございます」

「どうしたの? ……って、聞くまでもなさそうね。談話室へ行きましょうか」


 谷原先生と思わしき眼鏡の女性は柔和に微笑んで、僕達を職員室横の小さな談話室へ通してくれた。

 その女性は談話室の椅子に腰かけると、僕達を席に勧めてくれた。

 アニキとあま姉、そして千鍵は後ろに立ったまま、僕と空だけが椅子に腰かける。

 目の前に座った女性は、少し寂しそうな笑みを浮かべてから、僕に自己紹介をしてくれた。


「初めまして、になっちゃうのね。二年D組担任の、谷原ゆかなです」

「……音無大地です。その……すみません」

「ううん、謝らなくていいのよ。私も音無くんみたいな子を受け持つのは初めてのことだから、早く慣れないといけないけれど……。どうか音無くんも、私のようにクラスに馴染んでいきましょうね」

「はい。ありがとうございます」

「それで、谷原先生。大地の事なんですけど」

「大丈夫、雨宮さんの言いたい事は分かってるわ」


 谷原先生は空の言葉を遮ると、確かに頷いてから、僕の目を真っ直ぐ見た。


「……あの?」

「音無くん、今から君の中にある記憶を少しだけ覗かせてもらうわ。プライベートの事じゃなく、勉強の知識の意味で覗くから、そこは安心してね」

「は、はあ……」

「それじゃあ、始めるわね。目を閉じて、どうか気を楽にして……」


 僕は瞳を閉じると、ぴと、と先生の少し冷たい指先が、僕の眉間にあてられた。

 そして、じわじわとそこを中心に、暖かくなっていく感覚がする。


(なんだろう……この感じ……)


 お風呂の中で、ぼーっとしたままうとうとしているような……そんな感覚。

 不思議と頭がすっきりしていくのを身に感じていると、――不意にその暖かさが止んだ。


「――え?」

「はい、おしまい」


 谷原先生は微笑みながら手を戻すと、隣に座っていた空は僕を心配気に見上げてきた。


「え、なに……?」

「気分とかは悪くない? 平気?」

「悪いといいますか……。むしろ心地よすぎてなんかちょっと眠気が」


 心配気に訪ねて来た谷原先生に、僕はそう答えると――

 その眠気のようなそれが、身体の底から押し寄せてきて……


「………あれ?」

「――大地!?」


 空の悲鳴の様な声を最後に、僕の意識は切れてしまった。

 ……。

 ………。

 …………。



            ◇



「……ん……?」


 目を開くと、見慣れない天井があった。

 白い天井に、視界の脇にはカーテンレールのようなものが天井からぶら下がっている。

 カーテンは閉め切られていて、僕を包むこの手触りは……シーツと布団みたいだ。

 僕はゆっくりと起きあがると、――詰襟のシャツはくしゃくしゃに皺が入っていて、ベッド横の机には僕の着替えの臙脂色のTシャツと制服の上着が畳まれて置かれていた。


『――おや。お目覚めですか? 音無くん』


 若い男性の声がカーテン越しに聞き取れ、彼の言葉は間違いなく僕を指していた。


「はい」


 数秒後にその男性がカーテンを開き、姿を現した。

 灰色の落ち着いた髪色に、黒い瞳。それでいて銀縁の眼鏡をかけた白衣の男性は、安心した様な表情で僕に微笑んでくれた。

 彼は微笑みながら、ベッド脇の椅子に腰かける。


「初めまして。本学園の擁護教師をしている、有芽(ゆめ)昴です」

「お、音無大地です」

「それで、音無くん。どこか体調の悪い所はありませんか?」


 有芽先生は、その穏やかな笑みを保ったまま、僕の身体を心配してくれた。


「いえ、大丈夫です」

「そうですか、それはよかった。……早朝に運び込まれた時には、驚きましたが、無事で何よりです」

「ありがとうございます」

「アイスコーヒーはいかがですか? 流石に暑かったでしょう。汗をかいていますよ」

「え、あ……はい。いただきます」


 有芽先生は笑顔で頷いて立ち上がると、カーテンを締めて出てくれた。

 どうやら此処で着替えてもいいらしい。

 僕はベッドから出ると、ポケットに入れたハンカチで汗を拭ってから換えのシャツと上着を着込むと、布団を元に戻して外へ出た。

 やっぱり保健室だったみたいだ。色んな薬品が棚に並んでいて、テーブルには体温計や消毒液などが置かれている。


「お待たせしました、どうぞ」

「あ、ありがとうございます」


 そしてそのテーブルへアイスコーヒーが置かれ、有芽先生はその前に腰掛ける。

 僕は勧められた席へ座り、一口飲んだ。

 ほろ苦いコーヒー。でも、その冷たさが今の僕にとっては有難かった。


「美味しい……」

「気に入って貰えたみたいでなによりです」


 そう微笑む有芽先生にお礼を言いながら、時計を見ると、その針は午前十時半くらいを指していた。

 どうやら三時間くらい寝てしまっていたらしい。


「そうだ、授業は――」

「今日は始業式です。そろそろ式を終えて教室へ戻る頃だと思いますよ」

「そ、そうですか……」


 くすり、と笑われる僕。なんだろう、凄く恥ずかしいけど落ち着く。

 照れ隠しにアイスコーヒーを飲むと、有芽先生は話題を変えてきた。


「それで、音無くん。私からお話があるんです」

「お話、ですか?」

「はい。音無くんの学力は平均的です。それは現在も変わりません。きっと、今授業を受けても平常通り付いて行くことが可能でしょう。しかし、人格の方は、まったくと言っていいほど以前の音無くんとは別のものです。それは君が一番に分かっていることだと思います」

「はい」

「ですから、どうか気を病まずに、真っ直ぐに今を楽しんでください。友人を大切に、、今を大切にしてください。

 若者はバクと一緒です。夢を抱き、その夢を原動力に前へと進む。夢を食べて生きて行く。夢の無い若者は、ただその場に立ちつくすのみ。

 傷つくことを恐れて、夢から引きさがってはいけません。むしろ踏み込んでください。夢を持ち続けてください。今よりも大きく、この瞬間よりも熱い夢をっ」


 静かに、それでいて力強く語る有芽先生。

 な、なんだろう。この込みあげて来る気持ちは。この人に語られると、なんだか胸の奥が熱くなる。

 そうか、追ってもいいんだ。僕はもっともっと熱く激しく、夢を追いかけてもいいんだ!


「先生、僕、これから頑張ります!」

「ええ、期待しています。あなたの迸る熱い夢が形になった時、ぜひ私にそこに辿りつくまでの道筋を語ってください。そして、もしその途中で立ち止まり、腰を下ろしたくなったとしたら。……やはり私を訪ねてください。何事も休憩は必要です。飲み物くらいでしたら、お出ししますよ」


 キラキラと輝く真っ直ぐな瞳。ああ、この人は、今までに何人の迷える子羊をこうして救ってきたのだろう。

 僕は今、身体だけでなく心までも、その白い包帯に包まれてしまいました。


「教室までお一人で戻れますか? 辛いようでしたらお連れしますけれど」

「いえ、大丈夫です。おかげで大分楽になりました」

「わかりました。くれぐれも無茶をせず、ゆっくり歩いてくださいね」

「ありがとうございました!」


 僕は、その輝く瞳に見送られながら保健室を後にした。

 初めて保健の先生と話したけれど、色々な意味で恐ろしい先生だ。

 有芽昴。本当、なんて名前通りの先生だろうか……。



            ◇



「――あ、戻ってた」

「ああ、空……」


 教室へ戻ってから五分くらいしたところで、一年生が廊下を歩いていたので、そろそろかなと思っていたら、空が教室のスライド扉を開けて入ってきた。

 その手には、数枚の藁半紙と赤い色のプラスチック製の筆箱が抱えられている。


「移動教室。これから多目的ホールに移動して、修学旅行の説明があるみたい」

「あ、そうなんだ。何か持って行くものとかある?」

「大地の分のプリントはわたしが持ってるから、筆箱だけでいいわよ。早く行きましょ」

「わかった」


 僕はバッグの中から筆記用具を取り出すと、空と一緒に一年生の人の流れを逆らって三階の多目的ホールへ向かう。


「体調、大丈夫?」

「うん、とくに悪い所はないよ。心配してくれてた?」

「当たり前でしょ。いきなり倒れちゃうんだもん、びっくりしちゃった」

「ごめんね。でももう大丈夫だから」

「はいはい」


 階段を登りながら、空と他愛も無い会話をして多目的ホールに到着すると、すでにそこにはたくさんの二年生が集まっていた。


「こっちよ」


 空に手を引かれて、僕らは自分のクラスの列に並ぼうと、一番後ろにつく。

 すると、前の方から茶髪の女子が順番を無視して僕らの方へ歩み寄った。


「よう、大地。朝ぶっ倒れたんだって? 平気か?」

「おはよう。うん、まぁなんとか。空が迎えに来てくれたからね」

「まあ、そうね」

「………ん?」


 その茶髪の女子……特徴からして、白石留美。一年からのクラスメイトで、親友と言っても過言じゃない女子らしい。

 顔は可愛いんだけど、その中身には女性をあまり感じなかった。

 そしてその女子――留美は、僕を指さすと空を見た。


「……多分その通りよ。大地、“リセット”したの」

「ほっほう、まぁこっちの大地のが親近感沸くけどなぁ。――あたしの名前は白石留美。よろしくな大地」

「よろしく、留美」


 お互いに挨拶すると同時、タイミング良く入り口のドアが開いた。

 そこにはバッグを持って大きく腕を振る金髪のイケメン男子。


「ハロー留美ちゃーん。そしてその他皆の衆ー! ……なんだ、大ちゃんきてたのか」

「うーっす」

「相変わらず、圧倒的なまでの区別ね、彗」

「そりゃ当然。愛しのマイハニーとその他大勢を同じにおいたら失礼ってもんさ!」

「ははは。よかったじゃないか大地。マイハニー扱されてるぞ?」

「ああん、違うよマイハニー。でも、そんな焦らせ方に、オレのハートはキュンキュンフル回転さ! というわけで改めて。ハロー留美ちゃーん! そしてその他皆の衆ー!」

「区別もされなくなってるんだけど」

「いやいや、区別なんてしてないぞ。差別しただけさ」


 人類平等万歳。

 新垣彗。彼も僕の親友であり、学園ナンバーワンを誇るドM大魔神だという。

 留美一筋前しか見ないポジティブシキング劣等生。


「ところでどうしたんだい大ちゃん。なんだかいつもより落ち着いてるじゃないか。オレが遅刻するからってそんなにローテンションにならなくてもいいんだよ?」

「いや、別にそう言うわけじゃないし」

「ああ、なんだろう。凄く新鮮な避けられかた。これが焦らしプレイってやつなんだね!?」

「リセットしてみた」

「………っ」


 空と同じ様にその単語を放つと、途端に彗の顔が引き攣った。


「初対面の奴にドMアピールとは。流石だな彗。あたし達の予想の斜め上を行く」

「そこに痺れない憧れない」


 ジト目を送る空と留美。僕は一人苦笑でなんてフォローしようか考えていた。


「あまり気にしなくていいから。それよりも彗。辞世の句は詠んできた? 遅刻対応の先生、松岡よ」

「あはははは。なんでそんなん詠んで来る必要があるかなあ。今回の遅刻は、新しいこのオレ、新垣彗の始まりが終わる記念すべきイベントだよ」

「……始まり終わらせてどうすんのかな」

「気付いてないみたいだし、そっとしておいてやろうぜ。知った現実が人を苦しめる場合だってあるんだぜぃ」

「まあ、今日からのオレは間違いなく新しいよ。これからは声高らかに、量産型新垣彗と呼んでくれぃ!!」

「お前、量産型って言葉、漢字が並んでカッコイイ! とかいう理由で使ってるだろ」

「もっちろん! カッコイイは正義でしょ、やっぱり!」

「ああ激しく同意だ。正義だな間違いない!!」

「ああ、流石留美ちゃん! もう分かりまくってる! 蹴って! そして踏んでぇ!!」

「おっし任せろ、ここだなここがええのんかぁぐりぐりぐりぐりぃー!!」

「うおおおおおお、テンションあがってきた―――!!!」


 時々この二人と親友であることに不安を覚えるのは、決して今の僕だけじゃないだろう。

 なのに、周りの視線を見れば「明らかに同レベルじゃん」と語っているのはちょっと名誉棄損で損害賠償。

 でもまあ、この二人といると退屈しないのは間違いなさそうかな。幼馴染メンバーとこの二人を混ぜて六人。これが僕の人間関係の中心部分。

 当然他にも友人や知人はいるらしいけど、何かあるとこのメンバーで大抵集まってしまう。


「で、どうかしたのか大ちゃん。君がリセットだなんて、戦争バカに核兵器、くらいにあってはならないものだぞ。世界平和の為にも、やめておけー」

「ああ、まったくだぜ。もう少し自分のキャラクターってもんを理解しておくべきだろ」

「こらこら、二人の方こそもっと僕を理解すべきだよ。僕ほど繊細で傷つきやすくて寂しがり屋のウサギは滅多にいないんだから。手厚く保護しないと」

「おっとっと。もう集会が始まるじゃないか。ではではまた後でー!」

「あーあ。一年と三年はもうHRかあ。めんどくさいぜ」

「さて、わたしも大地のこと報告してこないと」

「おーい。………。まったく、三人ともシャイだなあ。いくら認めるのが恥ずかしいからって」

『ありえませんっ!』

『そりゃありえねーぜ!?』

『ありえなーい!!』


 わ、わざわざの御指摘ありがとうございました……。







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