予想外のプロローグ
……夏のうだる様な暑さに目が醒めた。
ボキャブラリーは安定しているみたいだった。それでいて思考がクリアだ。
クリアって……。
空っぽなんだから、仕方がないよね。
「……?」
何も思い出せなかった《自分》は目を開くと、まずコンクリートがむき出しになっていた天井に日本語が書かれていた。
壁をみろ。
そのシンプルな言葉に、自分はベッドから起き上がって辺りの壁を見渡してみる。
ベッドのすぐ上の壁に書かれていたのは……。
自分のものであろう、簡素なプロフィールだった。
音無大地(17)
生年月日:平成X年七月九日
血液型:AB型
職業:学生(私立群青橋東学園・二年D組所属)
家族構成:実父・義母・義妹
あとはPCを見ろ
それだけの、短い書き置きの様なそれに従いつつ、自分はベッド脇に設置されている脚の低い、炬燵用のテーブルの上に乗っているノートパソコンを開いて電源を入れた。
並みの速度でPCは立ち上がってゆき、自分はただぼーっとした状態で立ち上がって行くPCの画面を見続ける。
薄暗いモニターの前には、目を丸くした自分の顔が鏡の様に映った。
十七にしては少々童顔と言えばいいのか、幼い印象を受ける自分の顔。日本人特有の黒髪黒眼の少年といったものだ。
ただ、目は弱冠眠そうだった。
立ち上がったPC。デスクトップは初期化されており、その中に一つ、映像を起動するアイコンだけが中王に置かれていた。
自分はそれにカーソルを持って行き、起動すれば――
『――起きたか。新しい音無大地』
純真無垢な笑みを浮かべる自分の顔が映っていた。
ニッと笑みを浮かべ、白い歯を見せながらそう言ったモニター前の少年は言葉を続ける。
『今のお前は、自分の記憶がなくてきっと混乱している事だと思う。だが安心して欲しい。――“俺”も最初はそうだった。こうして次のお前に引き継ぐ事は今に始まった事じゃないらしい』
初めて自分の一人称を知った。自分は自分以外にも同じ状況を経験した音無大地と呼ばれる『他人』が居る事にふう、と一つ吐いて安堵した。
『唐突だが、俺は“自分”を辞める事にした。だから、次にこの動画を見ているお前はきっと俺ではなくなっている事だろう。「新しい自分で生きろ」。俺は心からそう願っている。一人称から学校での印象なんか気にしなくていい。俺は「いつも記憶が飛んでる」って事で有名だからな』
自嘲気に笑った自分は、どこか照れ臭そうにも見えた。後ろ頭を掻きつつ、本当に自分らしい仕草を見せて来る。
自分は少し困惑した。まったく自分も知らない状況でどう生きればいいのか。
変わってしまった自分に、「今までの音無大地」をとり巻いていた環境は困惑するに違いない。
どこか安心させようとしているモニターの中の音無大地という自分の言葉にも、不安を感じた。
『まぁ気楽に行けよ。これから先はお前自身の世界なんだ、自分自身で切り拓いてけばなんとかなるさ』
カラカラと笑う自分。
どうしてそんなに楽しげに話していられるのか。どうして楽しんでいるのに自分の記憶を消そうとするのか。
様々な疑問が浮上する中、一番の疑問がそれだった。
『最後に、どうして俺が記憶を消したかって話だ』
答え合わせは直ぐにやってきた。自分は身構えるようにベッドに座り直すと、モニターに映る音無大地は一つ咳払いして、パンッと自分の膝を叩き、意を決して伝えようと真剣な眼差しが注がれる。
そして――
『気分だ』
「……はっ?」
本日――いや、人生初の、素っ頓狂な疑問の声が自分の喉から出た。
ニッと笑いながらそう宣言したモニターに映る自分に、呆れを通り越して笑いすら覚える。
『記憶の消し方は後々家族に教えてもらうってことで。そんじゃ』
「え、ちょ――」
『――起きたか。新しい音無大地』
そこで無情にも動画はリピートされた。
自分勝手なモニターに映る音無大地に嘆息し、自分はその再生ソフトを閉じる。
画面の右下へ視線が行く。――八月二十九日。午前八時半。
時間としては昼間だ……。
とにかく、近しい家族にこの事を一刻も早く知らせなければ。
自分はそんな使命感を胸に、ベッドから立ち上がり、寝間着のジャージ姿のまま自室を出る。
すると、どこかから聞こえてくるキーンという、掃除機特有の音が耳に入った。
――思えば、この家の構造が分からない。
自室から出てみるも、目の前には廊下を挟んでまた別のドア。そこには「ちかぎのへや」と書かれたプレートがかけられていた。
そして視線を左へ移せば、また「父の仕事部屋」、向かいに「父母の部屋」と、各々の部屋らしきものがある奥にはトイレ、物置きと書かれたプレートが下がっている。
どうやらこの階は自室と寝室らしい。
視線を右へ変え、移動を開始する。
洗面所、ベランダの順で通り過ぎ、その先には階段が。
上下階へ行く階段で、自分は降りる事にした。
一階へと降りると、さらに下へ行く階段があった。どうやら地下があるらしい。
掃除機の音が近い。自分はその音を頼りに、階段横のトイレ、洗面所・風呂場と通り過ぎ、玄関横のリビングへと入った。
そこには。
「おはよう、大地。今日は随分と早いな」
「おはよう」
中年の男女がいた。
黒髪の男性はソファで新聞紙を広げながらテレビのニュースを見て、弱冠蒼みがかった髪をした女性はその後ろで掃除機をかけている。
どうやら、この二人が自分の両親らしい。
実の父と、義理の母。
「おはよう」
まずは挨拶だ。自分はそう言うと、二人へと近づいた。
「ん? ……どうした、大地?」
「いや、あの……」
「……?」
挙動不審気な自分に気が付いたのか、母は掃除機のスイッチを切り、父は自分の顔を覗き込む。
「体調が悪い……ってわけでもなさそうだな。本当にどうしたんだ?」
「……実は」
自分は現在この身に起きている事象をすべて両親へと伝えると、彼らはなるほど、と納得してくれた。
「驚かないんですね」
「いいえ、今回は少し驚いているわ。大地、いつも記憶を消す時は事前に言うから」
「そうだな。何も言わずに記憶を消したのは初めてだな」
リビングのテーブル席に、対面するように腰掛けた二人は、苦笑いを浮かべている。
「ただ、俺達の息子はお前に変わりないんだ。なにも気にする事はないぞ」
「……はい。ありがとう、ございます」
くしゃくしゃ、と父の腕が自分の頭にまで伸び、頭を撫でられる。
……不思議と空気は重くはなかった。居心地が悪いと感じることもなく、ただ……当たり前の様に自分を受け入れてくれた両親に、どこかこそばゆさを感じていた。
「それより大地、お腹すいたでしょう。今朝ごはん温めるわね」
母はそう言って話題を切り替えて行動を開始すると、自分は小さく頷いた。
「母さん――千草はね、俺の二人目の奥さんなんだ」
「家族構成は見ました。義理の妹がいるんですよね」
ああそうか、と父は後ろ頭を掻いた。
先ほど自分が見ていた動画で、前の音無大地が見せた仕草と似通ったそれに、自分はどこか納得がいく。
「――ただ、父さん……大輔と大地は、血は繋がってるからな」
「はい」
自分は今度こそ大きく頷くと、母によって用意された朝食をいただく事にした。
◇
――どうやら、義妹は近所の幼馴染と出掛けているらしい。
朝食を終えた自分は一度自室へ戻り、寝間着から着替え、洗面等を済ませると、再びリビングへと顔を出した。
「随分と無難な服を選んだな」
「いや……。何を着ればいいのかよく分からないので」
自分は苦笑を浮かべて後ろ頭を掻き、ソファへ腰掛けていた父の隣にある一人用のソファへと座る。
すると掃除を終えていた母が人数分のアイスコーヒーを出してくれ、三人でいただきながら、近所の幼馴染と、自分の義妹――千鍵の話を聞いた。
聴けば聴くほど自分の周囲に居る歳の近い友人達に強い印象を受ける。
中でも一番驚いたのは、千鍵についてだ。
重度のブラザーコンプレックスで、四六時中自分から離れないのだとか。
自分と一年しか年齢に差がないと言うのに、中学校三年生の進路希望調査票でさえ大地希望に「お兄ちゃんのお嫁さん」と油性ペンで書いて提出したほどだという。
どんな子なのか、自分は背中に冷や汗をかきながら話を聞いていると……。
唐突にインターホンがなった。
母が足早にテレビドアホンへと近づくと、
「千鍵帰って来ちゃった」
「おや、早かったな。――大地、大丈夫そうか?」
「なんとか」
父の言葉に頷きつつ、母はドアのロックを解除すると、数十秒後には玄関のドアが開かれる音が鳴った。
『ただいま戻りましたー』
『お邪魔します』
『お邪魔しまーす!』
若い女子三人の声。
このうち一番最初に聞いた女の子の声が、きっと義妹の千鍵のものだろう。
自分はソファから立ち上がり、母と共にその三人を迎えるためリビングから顔を出した。
「あっ、お兄ちゃん! おはようございます♪」
「おはよ。……なんだ、起きてたんだ」
「えーっ、大くん起きてたの? お姉ちゃんが可愛い弟くんの為に起こしに来てあげたのにー!」
青い髪色をした女の子。肩ほどまで伸びた髪と、カチューシャの様に白いリボンで結ばれた髪飾りが特徴的な少女は、自分を兄と呼んだ。
この子が間違いなく、自分、音無大地の義妹。千鍵だろう。
髪色と同色の瞳をキラキラさせて自分へと歩み寄った妹は、今にも自分へ抱きつかんばかりに両手を広げる。
「さあお兄ちゃん、愛しい妹への朝のハグを……♪」
「えっ?」
「いやいやちょっと待ちなさいなちーちゃん! そういうのはお姉ちゃんが先よん?」
「二人とも、大地本気で挙動不審になってるから。そこまでにしておいた方がいいわよ……」
これがいつも通りなのだろうか。呆れたようにもう一人の、千鍵と似た様な髪型でピンクブロンドの髪に赤い瞳をした、ゴスロリ服を着込んだ女子をけしかけたのは、一番最後に聞き取れた少女だった。
彼女は赤い髪に翡翠色の瞳。髪はツインテールに結われており、どこか大人しい感じの女の子だ。
が、不思議と三人の中で一番身長が低い。背の順で言うのなら大きい方から千鍵、ゴスロリ服の女の子、そして赤髪の女の子だ。
一見小学生と見間違うほどの幼さを出しつつも、どこか大人びた顔を見せた三人は、殆どが下手な男子であれば初見で顔を赤くさせるほどの美少女。
現に自分の顔は少し火照っている。それが何よりの証拠だった。
「いらっしゃい。暑かったでしょう」
「おはよう、みんな」
自分は火照った顔を誤魔化すように笑みを浮かべて母と共に迎えると、三人は手荷物を提げてリビングへと入る。
すると、ゴスロリ服の女子と赤髪の少女は、父を見るなり軽い挨拶を交わした。
母からアイスティーが出され、テーブルでお茶会を始める三人。
自分は父と共に、離れたソファから三人の様子を伺っていた。
「(……どうだ、大地。溶け込めそうか?)」
「(と、溶け込むも何も……。自分の予想をはるかに上回るルックスなんですけど……)」
とてもじゃないが、単独であの中へ入って行く自信というか度胸がない。
それに、あんなに楽しそうに話している女の子たちに、自分の事を話したらどうなってしまうのかくらい予想はつく。
自分の本心を曲げた答えを父へと語ると、父は軽く笑いながら背中を叩いた。
「(それじゃあ、名前だけ確認しておこう。あのピンクの髪の子が、大地の姉貴分の天音ちゃん。そして、あの赤い髪の方が大地と同級生の空ちゃんだ)」
父の紹介に、ようやく先ほどの幼馴染についての説明とが合致する。
橘天音。自分、音無大地、千鍵、そして雨宮空の三人にとっての姉貴分。
彼女も千鍵と同じく重度のブラザーコンプレックスを抱えており、とにかく自分の争奪戦が激しいとか。
続いて、雨宮空。
自分と同い年の幼馴染であり、家はこの家の斜め右上にある、本当に付き合いの長い幼馴染らしい。
そして、今ここには居ない、もう一人の幼馴染。
名前を大須賀銀一郎。
天音と同じく自分達にとっての兄貴分であり、この五人の幼馴染のリーダー的存在らしい。
勉強も出来て運動神経も抜群。部活には入らずただ楽しい事だけをやっで来た自分たちの、ストッパーでもあるという。
これが、自分の周りを取り巻く、一番近しい人達。両親、妹、そして幼馴染。
タイミングを見計らって、説明しなければ。
自分はそう思いながら、今は楽しげに談笑している三人を横眼で眺めていた。
◇
――一時間後。
午前十時を回った頃、ようやく兄貴分である銀一郎が音無家に到着した。
「よう、待たせたなーおまえら。準備はできてるか?」
「もっちのろん! 今日は遊び倒すわよー!」
ねー大くん、と自分の右腕を抱きかかえた天音に呼ばれ、自分は「そ、そうだね」と返すことしかできなかった。
わずかながらにあるその胸の感触に、少し挙動不審になってしまう。
どういうわけか、今日はどうやらこの五人で隣町にあるアミューズメント・パークへ出掛ける予定だったらしい。
こうなってしまってはどうしようもない。この五人に打ち明けるタイミングを完全に損なってしまい、窮地に立たされた自分はどうしようかと頭をフルに回転させていた。
自分と同じく、黒髪に黒い瞳といったイケメン、銀一郎と楽しげに会話する天音、千鍵を眺めつつ、妙案がないかを模索する。
その中で、ひとり。自分の不自然さに気が付いた少女がいた。
空だ。
「ねえ、大地」
「え? な、なに?」
「……いつまで黙ってる気?」
その言葉に、この場が一瞬にして凍り付いた。
自分は表情が固まり、目を丸くして空を見る。
「いつから?」
「え……っと……」
問い詰める様なその言葉、態度に、自分は後ずさる。
しかし、自分の右腕に抱きついていた天音はそれを離してくれなかった。
どうやら、逃げ場はないらしい。
自分は一つ息を吐いて、呼吸を整えた。
言うしかない。
「……多分、昨日の夜。今朝目が醒めたら、自分はみんなの知っている音無大地じゃなくなっていた」
『………』
沈黙。ただただ、沈黙。
それでも、十秒くらいか。自分にとっては、次にみんなから発せられる言葉が待ち遠しかった。
何を言われるか分かったものではない。だけど、こうしてみんなで集まって、何処かへ出掛ける約束をしていたのだとしたら――。
それを、過去の音無大地が投げ出してしまったのだとしたら。
だったら……。
「……ごめんなさい。みんなと出掛ける約束をしていたのに、記憶を消してしまって」
謝るしかないだろう。
その約束を叶える相手がもう居ないと知った時、約束をしたその相手はどう思うだろう。
やるせない気持ちになることは間違いない。それも、消えてしまっただけで、その約束すら知らない、その人物が、平気で自分の周りにいるのだとしたら……。
「……本当に――」
ごめん、自分はそう言おうとした。
しかし、その自分の言葉は、空の一つの行動によってかき消された。
「――よく言えました」
あり過ぎる身長差。しかし、爪先と腕を伸ばしてようやく届いたその小さな手は、間違いなくこの自分、音無大地の頭を撫でていた。
続いてはーっと溜息を吐いた両親、そして空以外の幼馴染と妹は、その後に笑う。
「え……なんで……」
「わたし、べつに大地に誤って欲しかったわけじゃない。記憶を勝手に消した大地は今の大地じゃないし、それはみんな分かっているから。いくら大地が初対面でも、わたし達は大地の事を知ってる。分かってる。だから、大地はなんて言えばいいの?」
「……ぁ……」
その優しい瞳に、自分は……“僕”は、ようやく目が醒めた気がした。
そして、目の前の女の子に出された、一つの課題。
僕から、みんなへなんて言えばいいのか。この僕、音無大地の、第一声を待っているということ。
初対面の幼馴染という、少し奇妙な感覚を覚えながら、僕は――
「……初めまして。よろしく、かな」
照れ臭げに、『挨拶』をしたのだった。