scene : 1-1
降り注ぐ、目映いほどの煌めき。
天上へ昇りきった太陽の日差しがカーテン越しに寝室を照らした。
この男の朝は遅い。
基本夜型人間なコイツは、ゴミ捨て場を思わせる
ひどく雑然としたリビングのソファーからむくりと立ち上がって唐突に起床する。
まだ薄目で寝ぼけ気味の男は無精髭を摩りながら
風呂場隣の洗面台へ洗顔をしにいった。
鏡には数枚の付箋が貼られ、走り書きで数字や暗号じみた文字が記されている。
歯ブラシ片手にその一つ一つを見やって、
一番右端の一枚を数秒睨むと、摘み取った。
「………」
男は黙って口を濯ぐ。
そして、手早く髭を剃って身嗜みを整え、リビングへと戻った。
リビングを通って、キッチンへ入る。
棚からカップを取り出し、テーブルの上にある器具の下に置くと、直後に
タイマーと繋がれた自作の改造コーヒーメーカーが時宜良くドリップを完了させる。
そうして注がれたコーヒーを一服し、リラックスするのも束の間、
ソファーに放置されていた携帯電話がけたたましく鳴り響く。
数回の着信音の後、男は遅れて携帯電話を取った。
「はい、もしもし。」
電話に出るとすぐに、若い女性の声が聞こえる。
「霧上さん!今何処ですか!」
どうやら慌てているらしい相手は、男の苗字を言い放つ。
「何処って、家だよ」
対して男はぶっきら棒に答える。
「もう!早く来てください!!」
「わかった、わかった」
かなり急ぎのようだ。
一息ついて、
男は残りのコーヒーを一気に流し込むと、さっと
立て掛けてあった柑子色のトレンチコートを羽織って戸口から飛び出した。
霧上高次郎は私立探偵紛いの元捜査官である。
彼が何故、捜査官を辞めてしまったか、それはまた別の機会に話すとしよう。
マンションを出ると、真向かいに住宅が立ち並ぶ。
ここは閑静な住宅街の一角。
少し歩けば寂れた小さな公園に着く。
待ち合わせの場所のはずだが公園には誰も居ない。
高次郎はざっと周囲を見渡すと、公園の端っこにあった
至って普通のベンチに腰掛けた。
すると、暫くして黒地のコートを着た一人の男に
頭をくしゃくしゃに揉まれる。
「なーにボーッとしてるんだよ!」
驚く拍子に髪を整え、高次郎が顔を上げた。
「信さん……奇遇っすね。」
この気さくな男は浅黄信博。
ここ、蘿蔔町を管轄するベテラン刑事だ。
高次郎とは旧知の仲である。
「ホームレス一歩手前の、職なしサラリーマンみたいだぞ」
にこやかに信博はそんなことを言った。
「なんすか、その形容は。
それより、祈を見ませんでした?」
「あの秘書ちゃんか?知らんなぁ………
っと、こうしちゃいられん。」
持っていた缶コーヒーを開けようと、指をプルタブに掛けたとき
ちょうど目に入った腕時計を着目して、信博が忙しなく反転する。
「事件ですか?」
刑事が慌しくなれば何か事件でも起きたのだろうと
他人行儀に高次郎は訊ねた。
背を向けた信博はそれに答えず、皮肉のように人手不足を嘆いた。
「お前も暇なら手伝って欲しいくらいだ、っと。」
信博が一瞬くるりと高次郎の方へ向き直れば、缶コーヒーを放って、
高次郎の掌中目掛けて投げ込んだ。
「ちょ、ちょっと!」
それを危うくキャッチする。
「まだ暖かいぞ!
じゃな」
信博は颯爽と去っていく。
この際、暖かいかどうかはどうでもいいが
確かに缶コーヒーはほんのり暖かかった。
「いらないっすよ!」
既に公園から遠ざかった信博に向けて、高次郎の声は空しく公園に響いた。
ここへ来る前に飲んだコーヒーに立て続けで同種の飲料とは 若干うんざりしていた。
それから、待ち倦む高次郎の下に白いモッズコートの少女が
小走りでやってきたのは10分後のことだった。
「すみません、遅くなりました。」
悪びれて謝辞を述べる少女は片白祈。
象牙色のブラウスにベージュのサーキュラースカートを合わせた彼女は、
黒いサイドテールを揺らしながら、高次郎に駆け寄った。
多少息を切らせていることから、短時間に結構な距離を走っていたのだろう。
「こっちも遅れたが、そっちも遅れるっていうのはどうなんだ」
仕方なく飲み干したコーヒーの空き缶を傍らに置いて、
公園で呆けていた高次郎は自身を卑下しながら、文句を垂れた。
時間に厳しい祈が遅れるのが珍しかったからだ。
「いえ、それが依頼人との交渉で一悶着あって……」
「交渉?」
相談事には辣腕な祈が応対で手子摺るのは珍しい。
一体どんな依頼主なんだ?と言いたげな高次郎の心中を読んでか、
依頼人を紹介するように公園の入り口の方を指差した。
「ほら、あちらにいらっしゃいますよ」
「ん?……んん〜?!」
目前の出来事に堪らず、唸る高次郎。
「どうしました?」
高次郎の見やる先には
真っ白な体毛が、毛深くふさふさしていて、綺麗にちょこんと座していた。
「……どう見ても猫なのだが。」
それは、明らかに小さめの白猫だった。
紅紫色の首輪を付け、何処か気品さえ漂うその白猫は
見た感じラグドールに似ているようだ。
「はい、ですからあの子が依頼主で」
受け答える祈は平然と仰る。
「………そんなバカにゃ…。」
驚愕の事実に 高次郎は思わず、唖然とした。
一見すると、平和で変哲ない蘿蔔町は
実際、種別問わず事件の発生件数が尋常じゃないくらい頻発していた。
そんな蘿蔔町の住宅街に、ひっそりと佇む低家賃マンションの
一階層から三階までを一部屋ずつ刳り貫いて、事務所兼居住を構える
"霧上特捜社"があった。
霧上高次郎とその助手を務める少女、片白祈が
次々と難事件を解決に導く! はずだったが
彼がこれまでに請けた依頼は、
ゴミ収集車に回収されてしまった貴重品を探し出すことや
たわい無い揉め事の仲裁、果てに 人生相談のような些事まで
正直、実績という実績が大してなかった。
そして、今回
依頼の応接を担当する祈が引き受けてきた内容は
「子猫を探し出してほしい!です。」
一先ず、依頼猫を連れて事務所手前まで戻ってきた高次郎は
祈の突拍子も無い第一声に、半ば呆れるように嘆息した。
「……あの猫と話したのか?」
「そんなわけないじゃないですか。
飼い主の方が仰ったんですよ」
「その飼い主はどこに」
先程からこの場にいるのは、高次郎と祈と白猫だけだ。
肝心の飼い主の姿は見当たらない。
「この子猫の母猫が行方不明らしくて、それを探していたんです。」
今回の依頼、どうやら猫探しらしい。
やれやれまたそんな類の依頼かと内心ちょっと落胆したが
直ぐに高次郎は一考した。
「それで、祈が先に戻って 本当の依頼人は捜索してる最中ってことか?」
掻い摘んだ言い方だが、猫探しを依頼主は当然、人間で
その本当の依頼主が今も尚、猫を探している。
祈は俺に事情を説明して協力を仰ぐ為に公園までやって来た。
生真面目な祈が依頼人をほったらかして現場を離れるわけはないだろうし、
となると本当の依頼主は相当、必死になって捜索してるに違いない。
「はい。とにかく霧上さんと合流した方がいいと思って。」
「最後に依頼人と別れた場所は何処だ?」
「公園からすぐ近くの十字路です。暫くは私も一緒に捜し回ったんですが
何の成果もなかったので、霧上さんを呼ぼうと電話していたら……」
「依頼主が勝手に居なくなっていたか…」
情緒が絡めば冷静になって物事を客観視できなくなる。
きっと、依頼人は待てなかったんだろう。独力でも見つけ出そうと
高次郎の到着を待たずに無断で捜しに行ってしまった。
或いは評価の未知数な霧上特捜社なんて端から宛にしてないのかもしれない。
「……すみません。」
ばつが悪いように、項垂れる祈。
自分がちゃんと制止していればこんな面倒にはならなかったと自責しているのだ。
「祈が謝ることじゃない。だが、このままじゃどうにもできないな。
連絡先は知らないのか?」
「最初に互いの連絡先を交換したので、霧上さんに会う前に
掛けてみたんですが繋がらなくて…」
通話ができない状態。考えたくはないが最悪のケースも想定できる。
そうでないことを願って、高次郎は行動を決断した。
「……とにかく、まずはその十字路に行ってみよう。
もしかしたら戻ってきてるかもしれないしな」
「はい!」
快活な返事をする祈。先程と違って、心なしか活力が戻ったようだった。
霧上特捜社が所在するマンションの近辺は
路地が複雑に入り組んだ街区でもある。
十字路はその代名詞ともいえる地点で、先々に似た景色が見える所為か
地元の人じゃなければ迷うことも少なくはない。
唯一の目印は十字路の片側にだけある電柱。
見慣れれば曲がり角の微妙な変化で見分けることができるが
時節によって風情を変える住宅に影響されやすいので電柱で判別するのが常套だ。
「ここで別れたのか?」
高次郎と祈は十字路の中央に着いた。
ここから延びる四方の道をどのように進んだかで方針も変わってくる。
「はい。確か右折してあっちの方向へ走っていくのを見ました。」
祈が指差すのは電柱がある方向の反対側で
高次郎たちが通ってきた公園からの道のりを北だとすれば、西の方角。
「あっちは郊外か。厄介だな……目撃者が多ければ捜しやすいが
人目が無い方へ行ったとなると…」
蘿蔔町はそれほど田舎ではないが都会でもない。
自然の森林などが点在し、中でもどちらかといえばこの一帯は僻陬だ。
そこからさらに駅前と逆行する方向へ進めば人気も無くなり、
依頼人を発見するのが困難になるだろう。
目撃する可能性が低下するということは それだけ、
社会という第三者からの手掛かりを得られなくなる。
蘿蔔町で事件の発生数が多いのは、こういった
事件を察知する仕組みが完璧ではないところが起因している。
「どうします?」
「…祈はここに居てくれ。依頼人が戻ってきたときに連絡してくれればいいし、
何かあれば仲介できるだろう。」
「わかりました。」
祈は少し残念そうだ。
今回の依頼で始めから高次郎を頼らなかったのも、
高次郎がルーズということもあったがそれ以上に
祈一人で依頼を達成しようと意気込んでいたからだ。
それだけに心残りがあった。
祈に見送られて、高次郎は背中越しに手を振った。
飼い主が通過した道筋を辿って歩き出した高次郎は呟く。
「まったく……余り、動きたくないんだがな。」
霧上高次郎は捜査官ではあったが、実地を踏査するのを億劫がる
頭脳労働派だった。提案はするが面倒事は他人任せ。
普段のずぼらな生活がそれを示唆している。
依頼人が通ったと思われる道を行くと、長閑な田園風景が現れた。
そこを直進していけば、結構深そうな森に入る。
辺りを観察して、人がいそうな所はないし
痕跡もなさそうだ。目立った所といえば、田畑の横にトラックが停めてあるくらい。
きっと農家の人が使うんだろう。田園に囲まれて、ここは一本道。
この状況下で残る道は目前の森だけ。
半分くらい直感に近かったが、森の奥へ向かったと考えるのが妥当だった。
「……行くしかないか。」
覚悟を決めて、道なき道の森を分け入ると 開けた空間に出る。
街中の喧騒とは無縁の大自然で溢れるその場所に佇んでいると
高次郎を急速に横切る動く物体が過ぎ去った。
「うぉ!」
不意を突かれて頓狂な声を上げる高次郎。
すばしっこいソイツを追って何とか視界に捉えると、
見覚えのある小さなシルエットが見えた。
それも、一つじゃない。たくさん、いる。
「なんだ、これは……!」
高次郎が目にしたものは多数の猫だった。
先刻、祈に依頼人として紹介されたあの白猫の時を上回る
驚愕さが高次郎の眼前に広がっている。
高次郎が猫に囲まれ、困惑していると遠くから
中年であろう男性が近付いてきた。
「あぁ!ちょっとそこの君!
ちょっと手伝ってくれないか!」
男性は中肉で丸メガネを掛けた温厚そうな人相だ。
「貴方は…もしや、依頼人では?」
こんな場所にいる人物となれば、依頼主である可能性は高い。
そう思って高次郎は男性に訊ねた。
男性は高次郎を一瞥すると、思い出したように手を叩いた。
「依頼?ああ!君が霧上君かい。早速だけど、
この森にいるはずのラーちゃんを捜して欲しいんだ!」
興奮気味に捲し立てて、男性は高次郎に熱願した。
「ラーちゃん?」
「依頼した白い猫さ!」
内容は、依頼を実際に受けた祈が詳しいはずだが
生憎ここにはいない。
話の流れからすれば、例の白い子猫の母猫だろう。
しかし、そんな猫の愛称よりも高次郎は、取り巻く猫達が気になって仕方ない。
「…ここにいる猫たちは一体?」
「この子達は親戚から預かっている猫なんだ。
ラーちゃんとも仲が良かったから捜す手助けになるかと思ってね。」
それにしてもこの猫の数は多過ぎやしかないか?
そんな自問が、堪らず口に出る。
「なぜこんなに…外へ?リードとかはしないんですか」
猫にリード、というのも不恰好な有様かもしれないが
数十匹はいるであろうこの猫達をどうやって統制しているのだろうか。
さっきから辺りを無邪気に動き回る猫達を見ていると、
とても従順に待機できるとは思えない。
「多いほど見つかるだろう?!ウチは自由にさせる主義でね。」
と、男性は独自の信念を語る。
得心しないが追及する場面でもない。高次郎はそれはそれとして
猫に足下でじゃれられていた。
だが男性は、高次郎が懸念した通りの現状を付け加えた。
「でも、ここまで連れて来たはいいけど、数匹何処かへ行ってしまったんだ。
ラーちゃんを捜すついでに一緒に捜してくれないかい?」
「…それは構いませんが、猫達はどうするんです」
この場を監督するする者が居なければまた、猫が失踪してしまう恐れもある。
何よりも、猫達を野放しにはできない。
「大丈夫さ!この子達が大人しくここで待っていられるモノがあるんだよ。」
大層な自信と共に、男性が手提げ袋から取り出したのは缶詰。
が、よくあるツナ缶とかではなくて缶コーヒーくらいのサイズがある縦長の缶、
寧ろ缶飲料を別の中身に入れ替えたというべきか。
その中身はフレーク状の飼料が入っていて、それを紙皿の上に適量出した。
一見キャットフードや猫缶の中身を移しただけという印象だが、
それまでこちらを見向きもしなかった猫が一斉に寄ってくるということは
この猫達にとって最適な好餌なのだろう。
多くの種類の猫を世話しているだけあって、流石に扱いなれているようだ。
「さぁ、これで暫くは安心だ!捜しに行こう!
この森にいるのは確かなんだ。僕は向こうを捜すから君はそっちを頼んだよ!」
男性は張り切って、走っていった。
「は、はぁ……。」
高次郎はせっかちで向こう見ずな依頼人に気後れしていた。
これなら、祈が応接で"苦戦"したのも分かる気がする。
猫達が餌に夢中になっている中、残された高次郎は一人
思惟すると、どうすべきか決めかねていた。
何せ、捜し出す猫の特徴を一つも聞いていなかったし
この森はそんなに広くは無いとはいえ、何の手掛かりもなしに捜索するのは厳しい。
最悪、自分が迷子になる可能性だってある。
人海戦術でもすれば手っ取り早いが、ともかく人手不足。
「…猫の手も借りたいとはまさにこういうことだな……」
いや、猫を捕まえる為に猫の手を借りては本末転倒か。
高次郎はこの状況に直面して、祈を置いてきたことに後悔していた。
同じ頃、十字路で蹲踞する祈は
高次郎からの連絡を待っていた。
退屈ではあるし、長時間 外にいれば風邪だって引く。
だが、承諾した以上ここを離れるわけにはいかない。
携帯電話片手に、小さな手帳をぺらぺらと捲る祈。
手帳には非常に綺麗な文字で細かく
事件の記録やスケジュールなどが書き込まれていた。
こうした几帳面な筆録があるおかげで依頼の管理も円満にできるのだ。
少し経って、高次郎が赴いた方向とは反対の方から
黒いコートの男が小走りで通り掛かった。
浅黄信博だ。十字路で蹲る祈を見かけて、一声掛けた。
「おや、秘書ちゃん。こんな所で何をしているんだ?」
それに反応して手帳を仕舞い、すっと立ち上がる祈。
「浅黄刑事。…霧上さんからの連絡待ちですよ」
「そうか…。アイツは今いないのか」
「……何か事件ですか?」
「ははっ、アイツと同じようなことを聞くんだなぁ。」
高次郎に似た返しをする祈に一笑する信博。
性格は怠惰な高次郎と勤勉な祈とでは真逆な二人だが
何処か似通った部分があるのかもしれない。
どうも立て込んだ事情になっているようで、信博は詳細を告げなかった。
「…まぁちょっと困ったことになってな、アイツの見解を聞きたかったんだが……」
「こちらから連絡してみましょうか?」
祈はそう言いつつ、携帯を操作仕出した。
一瞬考え込んだが、信博は話を切り上げる。
「あ〜、いや いいんだ。それほど急用ってわけじゃないしな。
…じゃ、コジローによろしくな。」
信博が高次郎を捻った風に呼ぶのは高次郎の捜査官時代からの名残だ。
初対面でコウジロウと読んだのをきっかけに、最終的に短縮されたようだ。
今でも、この呼び名を使うのは信博だけである。
「あ、はい…。」
祈は軽く会釈して、信博は十字路を南下していった。
以前に比べて最近は信博が高次郎を頼って意見を求めることは少なくなったが
こうして、高次郎の助言を聞きに来ることも珍しくない。
しかし、普通の事件なら高次郎の出る幕などあらず、アドバイスも
参考程度に止まる大したものではないが、それでも
意見を必要とするほど事件性が高い、難解な捜査なのだろう。
祈は行動記録として、忘れないように信博と出会ったことを書き記すと、
携帯で手際よくメールを作った。
文面は、現況の確認と催促。送信先は高次郎だ。
「霧上さん、猫見つけたかな……」
高次郎が向かった方を遠くに見つめ、祈は不安そうに想った。
そんな祈からのメールが届く、数分前。
森の中を彷徨うくらいに歩き回った高次郎は
踵を返して、道すがら思案に暮れていた。
「はぁ…猫を見つけるどころかこっちが迷子になりそうだ。」
特に名案も浮かばず、只管に猫捜しを始めた高次郎だったが
まったく収穫も無く気落ちしていた。
今、道を引き返しているのも飼い主と合流して少しでも状況を進捗させるためだ。
目に映る景色は一様に緑色の自然ばかり。
微妙に異なる木々の特徴を多少なりと覚えていなければ遭難は必至だろう。
「やはり正攻法では埒が明かないな。」
ただ闇雲に捜すだけでは見つかりやしない。
猫についての知識は皆無に等しいが、高次郎は現在に至るまでの
短時間で得られた情報をもとに考えを整理していた。
そこで、思い返すと些細な引っ掛かりがある。
あの時の他の猫と比べた違和感。
鳴き声だ。
あの場にいた多くの猫は引っ切り無しに鳴いてもいたが
捜索中に、耳を澄ましてもそれらしい音は何一つ聞こえなかった。
これが意味するところは、何らかの出来事で猫が鳴けない状態にあるか
元から滅多に鳴かない性格であるかだ。
勿論、それ以外の可能性も排除できないが、ここはこの二者択一に絞り込むとしよう。
後者であればどうしようもないが、今は前者を仮定して
強引にでも自分の推論に当て嵌めてみると
音を遮蔽する空間に閉じ込められている。或いはかなり遠くの場所にいる。
といった考えに達した。
だが、秘匿するだけならばわざわざ森まで来る必要はない。
身近な場所で他人の目に触れてはいけないが
いくらなんでも郊外の森まで出向くのはおかしい。
そうなると、一つの可能性が浮上してくる。
この森に、捜している猫はいない。
同時に、この依頼すべてが とんだ茶番劇だったと悟らせる。
あの飼い主は放し飼いを主張していた。
猫を手懐けられる餌を常備しているにも関わらず、
あそこにいた猫達は言う事を聞いていないようだった。
猫の世話も手慣れているようで、何処か不自然。
思うと、常に先導するように立ち振る舞い
捜査範囲を限定させたのも飼い主の誘導だ。
共同して捜すのなら、一緒に行動するか、分担するにしても判断が一方的過ぎる。
もしかすると具体的な特徴を伝えなかったのも意図的なのかもしれない。
猫そのものではなく、
その猫を見つけること自体に意味があるのではないか。
飼い猫に関連するもの……
例えば猫の首輪が飼い主にとって因縁深い物だったとして
それの隠匿を図ったとか。
そして、ここまで大事にしたのも個人で虚偽するだけでは不十分だからだ。
特捜社へ依頼したという口実で得られるもの。
それは、周囲の納得。
未だ実績ゼロの特捜社ではあるが地方の民間調査機関と一緒くたにして
同類だと認識している人は多いだろう。
信頼できるかどうかは別として、そういった"専門的"な相手に
協力を仰いだ事実こそが依頼者が本当に欲していたものではないか。
これは、嘘の依頼だ。
己の不都合を隠す為に高次郎等を利用し、猫の失踪で欺瞞した隠蔽工作。
そんな考えが頭を過る。
憶測の域は出ないが、そう考えると得心する部分も多い。
「……いいや、さすがにぶっ飛んでるか。」
駆け巡る思考をストップさせて、高次郎は我ながら馬鹿げてると思い込んだ。
単に、依頼が無意味だったことを認めたくないだけなのかもしれない。
そうこうしている内に、森の開けた空間へ戻ってきた。
その場所には既に飼い主が戻ってきており、猫達も一箇所に集まっていた。
「どうでした!?」
こちらに気付いた飼い主が高次郎の捜索成果を訊いた。
「いや、それがまったく。」
「…そうですか。」
飼い主は肩を落とした。
無理もない、これだけ捜しても何一つ収穫がなければ落胆もする。
高次郎も捜査官としての落ち目を痛感していた。
「……そちらは?」
そういうそっちはどうなんだ とでも言いたげな表情で高次郎は訊ねる。
「…逃げ出した数匹は見つけたんですが、肝心のラーちゃんが……」
飼い主の視線の先を見ると、確かに猫が増えていた。
二匹だろうか。連れて来た猫達を発見したようだ。
落ち着いたところで、
高次郎は情報を再確認する上でもさっきの憶測を依頼主に話そうと思った。
そうであって欲しくはないが事実を有耶無耶にするわけにはいかない。
何より、高次郎は気になったのだから質すのも無理もない。
だが率直に物言ってしまえば、自白に持ち込めないかもしれない。
{揺さぶってみるか…}
多少迂遠になるが、先ずは当たり障りの無い言葉で探りを入れる。
交渉の常套手段だ。
「……ところで、付かぬ事伺いますが
依頼を受けた時、私が来ることは聞いていましたか?」
「?…え、ええ。そりゃあ当然ですよ」
コイツは何を聞いているんだ?とでも思ったのだろうか、
依頼者の男性は高次郎の不思議な発言に困惑しながら答えた。
勿論、高次郎もそこは当たり前の内容だと理解している。
祈が依頼を受けた時から、高次郎の存在は承知しているだろうし
高次郎が捜索に来ることも話しただろう。
しかしそれはこの森に来る前までの話だ。
依頼者がこの森に行ったことを知らない祈が
森まで高次郎がやって来ると伝えられるわけもなく、
それ以前に十字路で勝手に行方を晦ました依頼者には
高次郎という人物が捜索に協力するといった情報しかないはずだ。
高次郎の今の言動をどう受け取ったのか図りかねるが、
依頼者が森に入る前後によっては捉え方次第で矛盾であった。
「自分で言うのも何ですが私は時間にルーズでね。
何時来るかも分からない相手を絶妙なタイミングで呼び止めたものだから
少し気になってしまって」
高次郎を待ち受けるかのように現れた男性。
偶然といえば偶然だが、機会を窺った可能性もある。
「いやぁ…少々取り乱していましたから。
それにこんな場末の森なんて余り人が寄らないでしょう?
それで、捜すのを手伝ってくれるかとつい声を掛けてしまったんですよ」
若干言い訳らしかったが筋は通っている。
男性は至って平静で、狼狽える様子はない。
自信があるか、過ちであると実感していないか。
ここは納得して見せて、高次郎は畳み掛けるように疑問を投げかけた。
「なるほど…。では、この森に捜している猫がいると何故わかったのですか?」
「…それは、この猫達が導いてくれたんですよ。
仲が良かったので匂いを覚えていて、辿って来れました。」
「猫はどうやって連れてきたんです?
こんなにたくさいんいるんだ。さぞ、大変でしたでしょう」
高次郎の気掛かりの一つはあのたくさんの猫達だ。
祈からは連れていた猫の話は聞いていない。
つまり、十字路まではこの猫達は依頼者の傍にはいなかった。
十字路から自力で捜すようになって、思いつきで猫を集め、森へと辿り着く。
余りにも出来すぎている。予め、準備しておかなければこう上手くはいかないだろう。
しかも、高次郎が合流したのはそれから10分程度経った後だ。
時間的に、最初から場所に見当を付けていなければ森に到達できない。
「ええ、まぁ。…あの餌でどうにか引っ張ってきたんですよ」
「この距離を?ご苦労ですね。でも、餌を入れてた容器は
見たところただの缶みたいでしたが」
「リサイクルですよ。結構な量が入るしあれも便利なんです。」
十字路から森までの距離は片道で早歩きすれば6分程。
餌で躾けたペットとはいえ、連れて行けば
道中で多少のロスが生じるだろう。
そうなると、森に着くまでギリギリだ。にも関わらず
森の奥から出てきて高次郎と出会った依頼者は
少なからず高次郎より数分以上早く到着している。
ペットフードの容器は個人の趣向だが、愛玩の対象へ与える食事を
粗末な器に詰め込んでおくだろうか。
容器の粗雑な印象は高次郎に愛着の無縁を思わせた。
「そういえば、この森に入る前に白いトラックを見かけたんです。」
畦道に停車していたトラック。
始めは、農家の乗用車と思われたが、あんな場所に停めてあるのは不自然だった。
更に、自家用の軽貨物自動車とはいえ農作業に適さない普通のトラックだ。
わざわざ移動用の為だけに農家が使用するとしても
人気のない畦道に放置されているのだから違和感があった。
「…それが何か?」
「あの荷台…段ボールが数箱載ってました。何が入っていたんでしょうね…」
農家のトラックならば、箱詰めされた農作物だろうが
乱雑に置かれた段ボールは大半が開放され、遠目からだったが中身は空のようだった。
「…さぁ?
さっきから一体何を仰りたいんです?」
農家ではないとすれば
このタイミングでトラックを使用する第三の所有者がいることになる。
「もしあのトラックを貴方が運転してきて、猫を載せて来ているとすれば
この場に連れることも容易なはずです。」
それは、依頼者の男性だ。
トラックを使えば、猫達を楽に運べるし、時間的な余裕も取れる。
「ちょっと待ってください!…さっきから何なんですか!」
高次郎の繰り返される婉曲な質問に怒りを激発させる依頼者。
謂れのない話なら尚更、不機嫌にもなる。
「これだけの猫を一同に統制するのは、幾ら餌が良くても難しい。
現に、今も何匹かは貴方を全く信用していないようにも見受けられる。」
見れば餌で大人しくなったとはいえ、猫達は自由気ままだ。
飼い主に擦り寄ってくる猫というのも珍しいかもしれないが
非常に懐いているようには見えない。
高次郎からすれば、一朝一夕で手懐けた関係に思えた。
「そんなの…素人目でしょう!目に見えない繋がりで結束してるんです!」
「確かに、私には分かりません。ですが、
貴方があのトラックを使用したという証拠ならあるんですよ」
猫の信頼はともかく、トラックと依頼者の関連性については
高次郎に確固たる所信があった。
「……!?」
「実は、森で見つけた物が一つだけあります。
猫用のペットフードの袋が投棄されていたんですよ。」
手掛かり一つ得られなかった探索だったが、帰り際に別方向の道すがら
ペットフードの袋を発見していた。
キャットフードと印刷された大きめのビニール袋は
中は空っぽで、土や枯れ葉が表面にあまり付着していないことから
捨てられたのは最近で、もしかしたら故意に投棄したのではなく
風などによって飛ばされて落ちていたとも考えられる。
寧ろ、依頼者の反応を見るに後者が真実なのだろう。
「…それとトラックに何の関係が?」
「袋に段ボールの欠片がくっ付いてました。
箱の一部にペットフードを詰めていたのでしょう。
猫とこの森に落ちていたペットフードの袋、トラックの段ボール…
すべてが偶然とは思えないのです。」
強引な推論だが、一般的な推察では図れない論理は
無茶苦茶なこじ付けほど解法に近付くというものだ。
当て嵌めてみれば後々それが正しくなりえる。
意図的に、袋に段ボールの欠片を付着させるという
手間を掛けない限りは、袋が段ボールに入っていたのは確かだろう。
猫とキャットフードにトラックの段ボール、この森の場所を繋ぎ合せると
状況的に依頼者が該当する。即ち、トラックの運転者こそ依頼者であると。
「それだけじゃ証拠とは言えませんよ!」
依頼者の言う通り、段ボールとペットフードの袋が関連していたとして、
トラックを依頼者が運転したという確実な証拠にはならない。
そこで、反論する高次郎は自白を促す決定的な言葉を放つ。
確信を確証と変える一言を。
「ならば貴方のポケットを見せて下さい。
今も、あのトラックのキーを持っているはずです。」
数秒の沈黙。
やがて、依頼者は観念したように静かに口を開いた。
「……トラックを運転したことは認めます。仰るとおりそれで猫を連れて来ました。
しかし、それがなんだというのです!?」
トラックはやはり、依頼者の乗用車だった。
高次郎の推理通りそれに猫達を載せて時間的なロスを減らしたのだ。
そして、車を使ってまで"工作"した真の目的―
依頼の嘘。それを高次郎は依頼者に確認しなければいけない。
「つまり、私が言いたいことは……」
愈々高次郎が追い詰めようとしていた瞬間、
携帯の着信音が鳴った。
{なんだ、メールか。}
タイミング悪く、祈からのメールを受信したのだ。
着信に気を取られて一瞬 目を離した隙に、
高次郎は逃げ出した依頼者を刮目した。
「って、あ!ちょっと何処へ!」
見た目にそぐわず足が速い。
前もって準備していたのか、餌に釣られて猫達も一斉に移動していった。
追おうとした高次郎が森を走ったが
遠くでエンジン音がしたとあれば、
彼らを見失うのにそう時間は掛からなかった。
「……こりゃ、マズイ……。」
目の前で依頼者が失踪するなんて前代未聞だ。
高次郎は依頼が有耶無耶になったことや報酬云々よりも
後々の面倒になると気落ちした。
十字路で依頼者が勝手に行ってしまったとき、祈もこんな心情だったのだろうか。
その後の霧上特捜社では
事務所の居間で項垂れる高次郎と事情を聞いた祈がソファーを挟んで対話していた。
「それで、依頼人は何処かへ行ってしまったと?」
「面目無い…。」
「私のメールが原因ですよね…」
祈は淹れたてのお茶をテーブルに置き、自責した。
状況的には祈のメールが着信したことによって目を離した隙に
依頼者が逃走したのだが、この際高次郎にも非があった。
「いや、そうじゃない。ただ俺も油断していたんだ。
まさか逃げるとはな……」
茶を啜りながら、高次郎は手を組むようにして自分の失態を自覚する。
よもや依頼者が逃げ出すとはまったく、思っていなかった。
きっと高次郎が探索から戻って来た時から逃げる思惑があったのだろう。
「何かあるんでしょうか、やっぱり。」
「そうだろうな、疚しくなければ血相変えて逃げ出さんよ。」
確認できなかった為に、依頼の真意は分からず仕舞いだが
逃げるということは自らに咎があると自認しているといえる。
そして、それは高次郎が考えているよりもずっと厄介な事を抱えているに違いない。
祈はこのような事態に憂心していた。
「この依頼、どうなるんでしょう」
依頼が取り止めになるなんて経験が無かった。
このまま依頼人が見つからなければ徒事になるだろう。
「報酬は前金分だけだが貰っている手前、何もしないわけにはいくまい。
何とかして依頼人を探し出して、依頼を"解決"しないとな。」
霧上特捜社は二段構えの方式で、依頼達成後の成功報酬が主な収入源となる。
依頼者によるが、先に報酬を渡すケースもあった。
今回の場合は、事前に祈が依頼料として前払い受け取っていたので
達成の可否に関わらず依頼は完遂しなければならない。
それが義務であり、特捜社としての矜持であった。
「連絡先も繋がりませんし……どうするんですか?」
未だに依頼人が教えた連絡先は不通のままだ。
最初から繋がらない連絡先を教えたのか、携帯の電源を切っているかは
わからないが兎角、居場所を突き止める方法がない。
「そうだなぁ……信さんに頼るか…」
こうなると、頼みの綱は浅黄刑事だ。
警察の情報網を頼りにするのは元捜査官として複雑な高次郎だが
そうも言ってられない。有効な手立ては活用すべきだ。
浅黄信博というワードに反応して、祈は思い出す。
「あ、そういえば。メールは見ましたか?」
「ちゃんとは見てないな。……どれどれ」
ポケットから取り出した携帯電話を確認する高次郎。
あのとき、メールの着信は察知したが咄嗟だったので
内容を詳しく見る余地はなかった。
メールの内容は、浅黄刑事と出会い高次郎に話があったということと
依頼の状況を報告してほしいといった文章が丁寧に書かれていた。
「信さんと会ったのか?」
「はい、あの十字路で。随分忙しそうでしたけど」
「となると、相談もしにくいなぁ……」
昼間の公園で遭遇した様子から、慌てていたようだし、
高次郎は面会もできないのではないかと悲観した。
「あちらも話があるみたいですし、いい機会じゃないですか」
祈にそう説得され、一先ず事務所を出ることにした高次郎。
「とりあえず、署に顔を出してみるか…」
特捜社から出発して、十字路を北へ。
蘿蔔町の警察署は駅へと続く街路の途中にある。
駅へは商店街を挟み込んだ三つの歩道から行ける。
駅前に近付くほど活気や人が増えて、今日も商店街は賑わう。
高次郎と祈は右側の歩道を歩いて、警察署を目指した。
数分ほど、瀝青の道を進んで交番所が見えた。
蘿蔔町では警察署と交番が伴っている。
入り口は素朴な交番だが、2階には警察署としての部屋が幾つも設けられている。
高次郎は入り口まで来て、覗き込む。
「と、来たもののやっぱ誰もいないか…」
平時は交番で待機している巡査もおらず、無人の署内。
2階まで行けば誰かいるかもしれないがさすがに勝手に出入りするわけにはいかない。
「出直しますか?」
「うーん、そうだなぁ……」
高次郎が思い悩んでいると
署内の奥から高次郎をを見つけた巡査が此方へやって来た。
「あ、特捜社の……。ちょうど良かった!
浅黄巡査部長から言付けを頼まれていまして」
浅黄信博は巡査部長という低級な役職であるが左遷されていなければ
今頃警視にまで出世していたと言われる敏腕だ。
部下からの信頼も厚く、人脈もあるため、単なる巡査部長にはない権限がある。
「信さんから?」
「時間ができたら、検察庁に来て欲しいと」
検察庁は隣町の蘿蔔第二市町に所在する。
しかし、検察庁に出向くとは何事か、と高次郎は案じた。
「そこに信さんが?」
「えぇ。よくは知りませんが、"消えた遺体"の件で話があるとか。」
「消えた…遺体?」
不穏な言葉が高次郎に予感させた。
これから起こる連続事件の兆しのようなものを。