おまえはかならずくびをつる
ジャンルって毎回『その他』に逃げたくなりませんか?
このたび、僕は念願のマイホームを購入した。念願だ。念願のマイホームだ。その嬉しさは言葉にするのが難しい。でも私は嬉しさのあまり、妻と娘のいないところでガッツポーズをした。何度もした。嬉しさというのはこういうことなのではないかと思う。人に見せる用の嬉しさと、見せられない用の嬉しさというものがある。そういうのが人間という事だと思う。
それに単純に見られたら恥ずかしいし、僕はもう大人なのだ。男なのだ。妻と娘がいる世帯主なのだ。曲がりなりにも「生活には困らないようにするから、結婚してくれないか?」と妻に結婚指輪を渡したし、娘は「パパおしごとがんばってね」といって僕の誕生日に折り紙を折ってくれたのだ。それなのに、その二人を前にマイホーム購入の嬉しさに人目も憚らずガッツポーズをするとかは、僕にとってはなんとも難しいことだ。僕には、夫、父、そういう立場がある。ましてやそういうことが大丈夫な性格を培ってきたわけでもない。
おそらく僕は自尊心が高いのだろう。
その自尊心のために、僕は裏道のところでガッツポーズをすることになったわけだ。でも悪い気分ではなかった。それどころかとんでもなくいい気分だった。『妻、娘、マイホーム、これ三種の神器じゃん!』僕はそう思った。自然と、ごく自然と、顔がにやけた。それは妻と娘の前ではできない顔だったかもしれない。僕は・・・いい夫、父でいれているのだろうか?それは少し頭をよぎったものの・・・。
しかし、
どうもその件の新居には違和感がある。その違和感を言葉にするのも難しい。難しいし・・・ソレ・・・『ソレの気配』とでも言うのだろうか・・・ともかく『ソレ』を気安く言葉にするのは謀られる。
言葉にすることで不安が形を持つような気がする。不透明で掴みどころがなく黙っていたらそのままやり過ごせるのではないかと思う『ソレ』。しかし『ソレ』を言葉にしたその瞬間、不透明だったものが確かな形を形成し「お前気がついたな?」と猛然と襲いかかってくるような気がする。
ともかく、僕は一度不動産屋に行くことにした。妻と娘には内緒にした。二人が不安を抱えるのはおかしいし、僕にしても今はいち早く安心が欲しかった。だって念願のマイホームだ。家が安心できる場所でなくては人間は生きてはいけない。それで安心できない人間が遠からず不倫をしたり横領をしたり一家心中をしたりするのだと思う。僕は不倫とか興味ないし、横領とかも興味ない。少しずつバレないようになにかをする行為に向いていないのだろうと思う。あと一家心中などもってのほかだ。僕の神器だぞっ!?
「あの家は何かあったのではないのですか?」
「何って何が?だって新築でしょう?」
不動産屋のじいさんは言った。
「では・・・あの土地に何かあったとか・・・?」
「がはは!」
不動産屋のじじいはバブルの頃の羽振りのいい頃の人間のように笑って自分の膝を叩いた。
「・・・なんですか・・・?」
その反応は人よりもぼーっとしていると良く言われている僕にしても少なからず不快だった。バブルの頃の人間っていうのは『頑張って日本を良くしたのは自分たちだ!』という顔を当たり前のようにしている気がする。それで「これだからゆとりは」的なことをよく言う。いちゆとり世代の僕としてはとてもなかんずくかなりいい迷惑なのだ。昔の『よかった時代』を忘れられない病気なんじゃないかと思う。早く死に絶えて欲しい。
「あんた面白いこと言うなあ・・・」
不動産屋のじじいは言った。
「・・・」
「今って、日本生誕何年だっけね?二千何年?今更、わたしら人間の住む所のどこに人が死んでいない所があるのよ?」
じじいはそう言ってまた笑った。「がはは」と笑った。
確かに・・・、
確かにそのとおりだ。
しかし、
その何日か後のことだ。僕は夢を見た。モヤがかかった世界の夢だ。ペルソナ4の最初みたいな感じの夢だ。あるいはスティーヴン・キングの『Mist』のような世界の夢だった。それでも、わからない方は「サイレント・ヒル」とかを思い浮かべていただけたらいいだろう。とにかくそういう夢だ。霧だ。霧がかかった世界だ。そういう夢だ。夢。僕はその世界でたった一人だった。妻も、娘もいない。家もない。とにかく一人だった。そこは咽るほどモヤの濃い世界だった。僕は一人歩いていた。なぜかもわからない。何処に向かっているのかもわからない。でも歩いていた。昼なのか夜なのかわからなかった。濃厚なモヤの世界の夢だ。不思議と自分でも夢だとわかっていた。夢っていうのはそれがわかると覚めるものだ。しかしソイツは覚めなかった。僕はなおも歩いていた。足元も見えないモヤの夢。地面がアスファルトなのか、土なのかもわからないほどモヤの濃い夢だ。私は自分の足元を見ていた。地面がどうなっているのか気になったのだ。そのとき不意に後ろから声がした。
『ねえ、首を吊ってよ』
その声に僕は夜中だというのに飛び起きた。
起きた世界でもモヤがかかっていたらどうしようかと思った。いや、大丈夫だ。現実の世界ではそんなことはなかった。
「・・・ふう・・・」
僕は暗い寝室で息を吐いた。寝汗で着ている衣類は酷い状態だった。妻が起きていないのを確認して僕はベッドから抜けだし風呂場に向かった。
ガスのスイッチを入れる。
服を脱いで風呂場に入る。
そして蛇口をひねる。
シャワーから熱いお湯が出る。
暗いこの家の中で今、風呂場だけにシャワーの音が鳴り、オレンジ色の照明がついている。
それが何故だろう・・・僕には不思議だった。
「・・・」
シャワーを止め風呂場の扉を開けようとしたとき、磨りガラスの向こうに誰かが居るのが見えた。死ぬほど驚いたがガラス越しに服の柄が少し見えたので、僕は扉を開けた。ぶつからないように。
「・・・パパ・・・」
そこには娘が一人白熊の人形を抱えて立っていた。
「ごめんごめん、起こしちゃったか」
娘は眠たそうに目をこすりながらその場に立っていた。僕の妻は目をこすると結膜炎になるからといって娘にそれを禁止させている。こんなところを見られたら怒られてしまう。激怒られしてしまう。妻は娘のことになるとマジで恐ろしい。
「さあ、もう大丈夫だから、姫奈は先にベッドに戻って」
僕は娘に言った。
「・・・うん・・・」
娘は眠たい目をしたまま脱衣所から出て行った。本当に悪いことをしたな。そう思いながら僕が娘の出て行った後の脱衣所で体を拭いていると、
「ねえ?パパ」
また娘の声。
「・・・ん?何?」
娘の姿を探したが、脱衣所から出たそこは、暗闇で娘の姿が僕からは見えなかった。
「・・・パパ、くびをつるんでしょ?」
「・・・」
バスタオルを持つ手がとまる。僕は顔を上げる。暗闇。口から言葉が出ない。探しても娘の姿が見えない。暗闇。急にその暗闇の濃度が増したような気がした。娘なのだろうか?いや、間違いなく、娘の声だった。聞き間違えるはずもない。僕の愛してやまない、僕と妻の愛してやまない、娘の、一人娘の姫奈の声だった。暗闇からはもう何の音も聞こえなかった。僕はその場から、一歩も動けなかった。その暗闇に入ることができなかった。一歩でも入った瞬間、何か恐ろしいものが僕の体を掴んでそのまま引きずり込まれてしまうような気がした。
・・・僕はまだ、夢の中に居るのだろうか?
次の日から起きてからすぐ、僕の生活は変わった。
朝の食卓で僕が新聞を読みながらコーヒーを飲んでいると、妻がハムエッグの乗った皿をダイニングテーブルに載せながら言った。
「あなた、今日は早く・・・首を吊るんでしょう?」
僕は、顔を上げて妻の顔を見た。
「・・・どうしたの?」
・・・聞き間違いか・・・?
妻の顔はいつもと変わらない。ただ、驚いたような顔をしていた。しかし、それはどちらかといえば僕が驚いたことによって妻が驚いたような顔だ。
「・・・なんだい?今何か・・・」
僕は恐る恐る妻に聞いた・・・。
「・・・今日は早く帰って来れるんでしょう・・・」
「・・・ああ、うん・・・」
「前から言ってた通り、私、今日高校の同窓会だから・・・」
「・・・ああ、わかってるよ。今日は用事を済ませて終わりだから、大丈夫だよ」
そう、大丈夫だ。きっと大丈夫。そんな訳ないじゃないか。昨日あの後ろくノ寝れなかったからに違いない。聞き間違いに違いない。そうだ。絶対にそのはずだ。
「そう。ならよかった。じゃあ、私は予定通り姫奈を幼稚園に迎えに行って、家に帰ってきたらすぐ出るからね?」
「・・・わかった。僕もその頃には帰ってくるはずだ。君から鍵を受け取れると思うよ」
大丈夫だ。絶対に大丈夫。おかしなことなどあるはずもない。
「・・・じゃあ、よろしくね」
妻は笑った。僕が愛する顔だ。よかった。僕はなんとなく安心できた。きっと大丈夫。大丈夫だ・・・。
「姫奈―!早く起きなさいっ!パパもうご飯食べてるわよー!今日パパの車に乗って幼稚園いくんでしょう!・・・早くしないと、パパ
首を吊るわよ。」
「・・・」
・・・僕は恐る恐る妻の顔を見た。別になんでもないようだった。何事も無いようだった。いつもの調子でそれを言ったみたいだった。まるで言いなれているかのような滑らかな口調だった。それが・・・僕にはたまらなく恐ろしかった・・・。
やがて娘が二階から降りてきた。
「おはよう・・・」
娘は目をしぱしぱさせながら言った。
「・・・おはよう・・・」
僕は何事もない振りをして答えた。自分の手が震えていたが、コーヒーを飲んでごまかした。
「パパ、これあげる・・・」
娘は私の前に一枚の絵を差し出した。
いつ描いたのだろう?僕は思った。いつ娘がその絵を描いたのかわからない。昨日描いていたのだろうか?・・・しかし、その瞬間なぜか、娘が昨日の夜、あの後一人で、明かりもつけずに暗闇の中で一人クレヨンを持って紙に何かを描いているところを想像をしてしまい、鳥肌が全身を駆け巡った。
「・・・何を描いたの?」
妻の声が後ろから聞こえる。
「・・・パパ!」
娘は急にハキハキとした口調になって答えた。
「・・・そう、パパを描いてあげたの?ママにも見せて?」
妻はそう言って私が描かれたといわれたものを私よりも先に見て、
「あら、うまくかけてるじゃない!」
と言って笑った。
「えへへ~」
娘もそう言われて照れているようだった。
「・・・パパ・・・見て、そっくりだから」
妻が差し出した絵を僕が見ようとした瞬間、
横から娘の手が伸びた。
「だめ!やっぱだめ!」
娘が叫んだ。
「・・・どうして?こんなにうまいのに・・・」
妻は、残念そうに言った。
「・・・私が幼稚園に行くとき、見せる・・・。今は恥ずかしいから・・・」
娘は言った。
「そうなの~、パパ楽しみが増えたわね!」
妻は私を見て笑っていた。
僕も笑った顔を返した。たぶん、たぶん笑っていたと思う。あるいはただ、歪んでいただけかもしれない。震えていただけかもしれない。
僕には嫌な予感があった。
死ぬほど嫌な予感だ。だから愛する妻と愛する娘の会話に僕は一切口を挟めなかった。
普通に会話している妻、そして娘。
でも次、会話の中に『アノ』言葉が出たら、僕は普通ではなくなってしまうかもしれない。
「パパ、じゃあ行ってきます」
幼稚園の前、娘は車から降りて僕に向かって言った。
「行ってらっしゃい」
僕は言った。
「はい!パパ約束のこれ」
娘は大事に折りたたんだ紙を僕に差し出した。娘の描いた絵だ。
「あ、ありがとう・・・」
僕がそれを受け取った瞬間、助手席の扉を閉めて、幼稚園の門を走って行ってしまった。
僕は娘の後姿が見えなくなるまで黙って見ていた。
やがて見えなくなり、僕は一人になった・・・。
手の中にある紙。僕の絵なのだそうだ。
広げてはいけない。そんな気がする。
でも僕はその紙を広げてみた・・・。
すると、そこには・・・、
「おいお前っ!あそこで何があった!」
僕はその日の予定を全部ふっ飛ばして再び不動産屋に行き、そこのじじいに向かって言った。机を叩いた衝撃で湯呑に入った番茶がカチャンといってこぼれ湯呑はそのまま机を転がって地面に落下した。ガチャンという音がした。割れたようだった。
「・・・何か・・・あったのかい・・・?」
床で割れた湯呑を見てからじじいは顔を上げ、僕を見た。そしてじじいの顔は尚も、とぼけていた。その顔は、
『まだここは何とかなるんではないか?』
という感じだった。
若干ぼんやりしていると言われているの僕でもちゃんと人を殺したくなる時はあるんだぞ?それはどんな人間にもあるだろう?それに僕は東野圭吾の「殺人の門」も読んでいる。これはもしかしてそういうタイミングなのだろうか?僕にはそう思えた。そのとき件の本のラストの部分の事を思い出していた。
それにしても・・・もうすぐ死ぬ奴っていうのはどうしてこうなんだ?自分が死んだ後の世界のことは、もうどうでもいいと考えているのか・・・?
そんな訳に行くか、絶対に行くか・・・、お前を殺してでも・・・。
「・・・じじい・・・お、お前・・・いいか・・・いい加減・・・巫山戯るなよ・・・」
僕はじじいの胸ぐらを乱暴につかんで持ち上げた。
「・・・おいおい・・・乱暴は・・・」
じじいが言い終わる前に僕はじじいを思いっきり殴りつけた。
じじいは後ろにあった書類棚にぶつかって床に転げた。転がったじじいの頭に棚の上から書類がバサバサと落ちてきた。
「・・・」
僕は肩で息をして黙って立っていた。じじいだ。これくらいのことでどうにかなるようなたまではないはずだ。
「・・・早く・・・起きろろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ・・・!!あそこで何があったたああああああああああああああああああああっっ・・・!!!」
僕は叫んだ。
「・・・何か・・・あった・・・ってそれを言ったら満足するのかい?」
じじいの顔はそのとき書類で隠れて見えなかったが、声は間違いなくじじいの声だった。
「・・・なんだと・・・?」
僕の心臓はその瞬間ドクンとなった。
「・・・何も無いって言っても、どうせ納得なんかしないだろう・・・?なんの影響を・・・まあどうせテレビかなんかから、受けたんだかだろうけどさ・・・。そんなんでいちいち、いちゃもん付けられてもなあ・・・こっソだって仕事にならん。あんたは結局、幽霊かなんかのせいにして落ち着きたいんだろう・・・?」
「・・・じじい・・・それはあそこで何かあったのを認めるってことか・・・」
じじいはそのとき、僕が、僕が今まで決して、一度として、絶対に、言わないでいた単語を、絶対に言葉にしなかったことを言った。いとも簡単に。
『幽霊』
今まで必死で否定して、必死に考えないで、そんなわけ無いそんなわけ無い。そう思っていたことを言った。簡単に。簡単に言った。
「・・・居ない。そんなの居ない。そう言ってもあんたはもう、決め付けてるんだろう?私を殺してでもそれを聞き出す。そう思ったから殴ったんだろう?そうだよ?幽霊だ。こう言ったら満足するかね?あの土地が昔、処刑場だったら満足するかね?あそこで焼身自殺した人がいるって言ったら満足するのかね?一家心中があった家を潰してお祓いもしないで新しい家を建てた。そう言ったら満足するのかね?何処に人間が死んだことも無いところがあるっていうんだよ?大体迷惑なんだよ?死ぬのは構わないさ?人間は死ぬもんだ?どこで誰が死んだって構わないよ。ただね?断りもなく勝手に死んで、それだけならまだしも今度は生きている人間に迷惑かけてだ!それでテレビかなんかで面白おかしく紹介されてだ!で、商品価値下げてだ!あんたらみたいな、なまじそういうモノの存在を知っているような奴らをいたずらに怯えさせてだ!自分たちだけは損したくないみたいな奴らが、少し自分の家で訳のわからないことが起きたら「幽霊だ!幽霊だ!」って騒いで俺たちを訴えたりしてだ!迷惑だ!大体、お前らはなんで自分たちが不幸になるかもしれないっていうことを少しでも考えないんだよ!?いつ死んでもおかしくない世の中なのにだ!お前のあの家がある日、放火されるかもしれないと考えたことはないのかよ!向こうから車が突っ込んで来るって少しでも考えたことないのか?歩いていて通り魔に刺されるって考えたりしないのか!?ハイキングに行ったら熊に襲われるって考えたことないのか!?海で泳いでいて溺れるって考えたことないのか!?それもこみで平和っていうんだよ!お前らなんざ、死なないで済んだ日に感謝したことなんかないだろう!?毎日人が死んでるのにだ!?毎日人は死んでるんだよ?病気老衰自殺事故殺されたりしてるだろ?どうせお前ら、自分には関係ないと思ってんだろ!?迷惑だ!糞だ!迷惑だ!死ね!」
それまで声だけの存在だったじじいは突然起き上がり、僕に指を指して目を剥いて口から泡を吹いて猛然と叫びだした。さっきまで錯乱していたそんな僕が見てもひと目でじじい錯乱しているのが分かった。
そしてじじいは言った。
「・・・たしかに、あそこで、●を●ってたよ・・・」
「・・・なんだと・・・?」
僕はじじいに向かって言った。
「・・・おやあ・・・こんどは、驚くのかい?・・・それとも本当にあると思わなかったのか?あの家を建てる前のことだよ。あそこで、●を●ってたよ。この目で見たんだから間違いないだろう?勝手に入ってさ、迷惑な話だよなあ・・・?ちゃんと死んでほしいもんだよなあ・・・。どうだい?あんたもそう思うだろ?・・・まあ、これで・・・あん・・・」
そこで突然じじいは言葉を切り、そしてじっと僕の顔を凝視しだした。僕はあまりに突然のことで、じじいが脳溢血になったのではないかと思ったが・・・違う。その感覚を僕は最近、味わったばかりだったからだ。それなら脳溢血で死んでくれたほうがマシだと思えた。
「・・・あ、あんたもそうか・・・ひゃひゃひゃ・・・なんだ、そうなのか・・・?なんだ、あんたもう●を●るんじゃないかあ?」
じじいの目の焦点が突然変わりそしてニタアっと笑って言った。
「・・・帰る」
その瞬間、僕はとにかくあの家を出る決心をした。それにこんなじじいとこれ以上話もしたくないし、一緒の空間に居たくない。これ以上何を聞いてもこのじじいは何も答えたりしないだろう。そこで僕がじじいに背中を向けた瞬間、
「・・・黙って帰るのは良くないなあ・・・」
僕のすぐ後ろから不動産屋のじじいの声が聞こえた。そしてその後すぐに後頭部に重いものの衝撃が走り、僕は無様にその場に倒れた。そして意識が途切れ、もう何かを考えることもできなくなった・・・。ただ、意識が途切れる直前、僕を上からじじいが見ていた。どこから出したのか、その手には紐を握っているのが見えた・・・。
どれくらい時間が経ったのだろう・・・。僕はふと、痛みと外から入る夕日のオレンジで目を覚ました。オレンジ色に染まった硬い床の上に僕は倒れていた。じじい・・・僕が頭をさすりながら起き上がると、不動産屋のじじいは何事もないかのようにそこに立っていた。じじいは逃げることもせずに、さっきまで自分が居た机の後ろの所に立っていた。
「・・・あんた、こんなことして・・・」
僕はまだ醒め切らぬ状態で立ち上がり、じじいの立っている場所に近づく、
「・・・狂ってん・・・」
近づいてよく見てみると、じじいの上に紐が見えた。それは先ほど僕が意識を失う時にじじいが握っていた紐のようだった。その紐は天井から伸びていた。そして、それはそのままじじいに繋がっている・・・。
「・・・」
不動産屋はそこで首を吊っていた。彼の目は見開いていており、舌は口から飛び出しており、顔はすでに紫色になっていた。そしてその体は宙に浮いており、何かの弾みでその場をゆっくりと回っているようだった。そして僕がそれを確認した瞬間、鼻に酷い糞尿の匂いがした。
僕は急いで不動産屋を出た。そして車を家に走らせた。
「姫星!」
僕は妻の名を叫びながら家の扉を開けた。
何も考えてはいなかった。何をしよう。何をしたほうがいい。そういうことの一切を何も考えることはできなかった。でも、とにかくこの家を出ないといけない。それはわかっていた。
何の準備もいらない。でも、とにかく、とにかくここを出なくてはいけない。妻と娘を守るにはこれ以外ない。
「姫星!」
僕は叫んだ。
しかし、家の中はしーんと静まり返っていた。
「姫星!」
僕はそれでも叫んだ。
リビング、いない。
ダイニング、いない。
キッチン、いない。
寝室、いない。
妻の部屋、いない。
和室、いない。
いないいないいないいない・・・・いない、どこだ。どこだ?僕は家中を探した。悪い想像が頭をよぎった。しかし、その後すぐに、いい想像が頭を占めた。
「妻は、もう同窓会に行っているのではないか?」
・・・、
バスルームの明かりがついていた。
・・・家中のどこにも明かりがついていなかったこの家でバスルームにだけ明かりがついている?
・・・磨りガラスの向こうに何かが見えた。
僕の手は磨りガラスを開けようとしていた。そして手はすでにわかっているかのように震えていた・・・。
妻がバスルームで首を吊っていた。
「・・・ああ・・・」
僕の口から意識なくそういう声が漏れた。
妻の足元に紙が一枚落ちていた。僕は震えながら、それを手に取る。それは置手紙のようだった。
「一応晩御飯みたいなものは作っておきました。姫奈と仲良く食べてください。私も早めに帰るつもりあなたがさっさと首を吊らなかったので私は首を吊ります」
手紙にはそう書かれていた。僕はその場に腰から座り込んだ。ぶら下がっている妻を見れなかった。もう降ろしてやることもできそうになかった。その瞬間恐ろしく気持ち悪くなり、僕はそのままの状態で床に吐き戻した。
「・・・うっうう・・」
考えることなど何もできなかった。
どれくらいそこで座り込んでいたのかはわからない。僕はふと、この家の中に娘が居ない事に気がついた。妻を見る。妻は変わらずぶら下がっている。死んだ。死んでいるのだ。最愛の妻はすでに死んでいるのだ。そして妻の死は僕のほとんども殺したのだ。
しかし・・・、
もうすでに何も残っていない、今にも折れてしまいそうな気力を僕は必死にかき集める。そしてやっと立ち上がり、そのまますぐに家を出た。家の脇に停めてあった車に乗り込む。そして車を幼稚園に走らせた。
姫奈姫奈姫奈姫奈姫奈姫奈・・・。
僕はそのことだけを考えていた。
やがて、
車は幼稚園の前に到着した。朝、姫奈を送ったところと同じところだ。
しかし、
幼稚園には一切人気が無く、真っ暗になっていた・・・。
その光景を見た瞬間、僕の体も意思も震えだした。
僕には確信があったのだ。
絶対にしてはいけない確信だ。
震える体に苦労して僕は車を降りた。
車においてあった懐中電灯だけ持った。
音も何も聞こえない。真っ暗な幼稚園だった。
震えたまま僕の体は幼稚園の園内に入る。
幼稚園の入り口が見える。
誰もいない。本当に誰もいない。
僕は震えながら一歩ずつ進む。これから先、僕が絶対に発見するであろう『ソレ』を見たら、僕は本当にどうなってしまうのだろう?おそらく死んでしまうだろう。そういう確信がある。
入り口を入るとすぐに下駄箱だった。
ここにも誰もいない。
そして入り口のすぐ脇に講堂のような大きめな建物があった。
僕の体は震えていた。手に持った懐中電灯の光も震えていた。
講堂の入り口になる引き戸は少しだけ開いていた。
僕はその扉に手をかけた・・・。
・・・、
その中も真っ暗だった。
おそらく屋外のわずかな光も遮断してしまうのだろう。中は本当に真っ暗闇であった。
・・・、
・・・僕は・・・持っていた懐中電灯を・・・、
・・・、
その幼稚園の園児がそこで一人残らず首を吊っていた。
叫んだ。
見た瞬間、僕は叫んだ。
叫び続けた。
しかし、
いくら叫んでもそれが収まることは無かった。
僕には抑えることができなかった。僕は叫び続けた。叫んでも叫んでも僕の体から声が出た。僕は壊れてしまったんだろうと思った。
ぶら下がっている園児たちの胸元に一人一人名札がついていた。チューリップの形をした名札だ。赤とか黄色とか青とかのcolorfulな名札だった。姫奈もつけていた。
ぶどう畑のようになっている講堂で僕は自分の娘を探した。懐中電灯で一人一人、確認していく。
苺愛
黄熊
七音
希星
彪雅
愛羅
今鹿
琉絆空
大大
姫愛
叶夢
本気
妃
男
心羽
皇帝
頼音
祈愛
杏奴
火星
匠音
奇跡
夢露
天響
七虹
姫凛
緑夢
聖羅
姫奈
・・・、
居た・・・、
娘だ・・・。僕の、僕と妻の最愛の娘だ・・・。
最愛の・・・僕の最愛の、僕の最愛。
どんなことがあっても、守りたかった僕の最愛はもう・・・、全部死んだ・・・。
最愛の足元には、なにかが落ちていた・・・。
「はたらいているぱぱがとても、くびをつらなかったのでくびをつります。でもだいじょうぶです。おまえはかならずくびをつる」
その夜が明けるまで僕はそこにいた。
娘がぶら下がるそのぶどう畑を眺めていた。
明け方、
僕は外に出た。
世界は変わっていた。
僕が歩いていると、周りの家々の人間が僕の目の前で次々と首を吊った。
僕の両側からバチンッバチンッと音が聞こえた。
おそらく、首を吊る際の落下による衝撃で、家の外壁や屋内の中のなにかにぶつかっているのだろう。
僕にはそれが分かった。
誰ひとり、例外なく皆、僕の目の前で首を吊った。
皆、
僕に見せつけるように首を吊った。
大人も子供もおねーさんも寝たきりの老人も強盗も通り魔も犬も猫も九官鳥も皆、首を吊った。
動物はまず飼い主が首吊りの準備をして、それから自分で台を蹴飛ばしてそして首を吊った。
皆、
手足がバタバタとして、
顔の色が赤紫黒の順番に変わり、
糞尿を垂らして、
それから動かなくなった。
「・・・どうして首を吊るんですか?」
ヨークシャーテリアの自殺の準備している人に僕は聞いた。
「・・・」
その男の人は不思議そうに僕を見た。
「あんたが首を吊らなかったからだろ?」
彼は当然といった感じでそう言った。彼自身はもう台を蹴るだけで死ねる状態だった。
まず、ヨークシャーテリアが犬小屋から飛び降りた。
そしてそれを追うように、男の人も台を蹴った。
僕は高いビルに登っていた。
その屋上から飛び降りるつもりだった。
もう生きていてもどうにもならない。
そのビルには腰蓑のようにたくさんの首吊り物体がデコレーションされていた。
高いビルはどこもそうだ。
何階かの人が集まってそしてある階の外壁で一気に首を吊っているみたいだった。
何階かごとにそういう飾りつけがされていた。
ビルはどこもそんな感じになっていた。
しかし、もうなんでもいいじゃないか。
死んだら終わるのだから。
屋上は風が強かった。
しかし、
恐ろしくもなんともなかった。
それどころか、私にはもう何も感じることができなかった。
僕にとっての恐ろしいことは既に終わっているからかもしれない。
フェンスを上り反対側に降りる。
そして、
ためらいなく飛んだ。
ためらいは勢いを止める。
自殺には大敵だ。
ビル風が強くて、そのままどこかに飛ばされるのではないかと不安だった。
目を覚ました。
夢か?
夢?
しかし、
起き上がるとそこには自分が飛び降りたビルが見えた。
僕の体は地面に寝ているだけだった。
どこも痛くない。
体を確認する。
・・・。
無傷であるようだ・・・。
高いビルから飛び降りたのに?
「死ねないよ?」
声がした。そちらを見る。
そこには半透明の女がいた。
「死なない。それじゃ死なない。第一私が死んで欲しくないもの。」
「誰?」
僕は言った。
「おばけだよっ!☆」
半透明の女が言った。
「・・・死にたいんだ・・・僕は死にたいんだ・・・」
僕は言った。
「駄目、もうあなたは死なない。もうあなた以外の人しか死なない」
おばけは言った。
僕は・・・僕は今まで、絶望っていうのは最愛の死だと思っていた。
でも、今は・・・、
「ごめんなさい、あなた以外の奴が邪魔で邪魔で仕方なかったの。それに私、あなたのような人を待っていたの。あなたの様な強い人を待っていたの」
おばけは言った。笑って言った。
「・・・でも、大丈夫。これでもう、本当に大丈夫・・・」
そう言ったおばけの顔は・・・、
僕は壊れた。
その時、
本当に壊れた。
立っている男におばけは近づき、そして寄り添った。
「・・・何時までも一緒にいてね」
おばけは言った。
男は何も答えなかった。
タイトル、最初は漢字だったのですが、途中からひらがなにしました。