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政庁はだだっぴろい平屋の建物である。
劉林を玄関に残し、耿周と劉禅は、導かれて中に入った。
多くの人々が歩いたり座って書きものをしたり、立ち止まって相談したりしている。人々の動きはゆるゆると優雅だった。
ここがいわゆる劉備政府のオフィスなのだろう。
わたしも会社の用事で何回か役所に行ったことがある。こうした優雅な動きは、今もむかしも変わらないようだ。ちがいは、ほの全員がヒゲを生やしていること、眼鏡をかけた職員がいないこと、女性がいないことだ。
ほかにどんな違いがあるだろうと眺めながら歩いた。
電話やパソコンやコピー機は、もちろんあるわけがない。筆で文字を書いて仕事をする時代である。
壁のところどころにうずたかく巻物が積み上げられている。紙のものもあり、木や竹でできたものもある。
自販機も売店もない。喫煙ルームも必要ないな。タバコそのものがまだ存在しないから。
照明がないので、暗くなってきたら、仕事を続けられないだろう。五時とはいわずにみな帰ってしまうに違いない。こういった職場環境は、ある意味しあわせかもしれない。
子供がここに来るのはまれなのだろう。劉禅と耿周にもの珍しげな視線をむける者もいたが、取り立てて反応はなかった。
いろいろなところを曲がり、奥まった部屋に案内された。
そこには諸葛亮だけでなく、太った中年の男と年若い男が待っていた。昨日の尹黙はいない。
わたしは、諸葛亮が他人を同席させていることにややおどろいた。きっと二人きりで会って、劉禅の言葉の真偽や、劉禅の状態がまともなのかどうか、たしかめたいのだろうと思ったのだ。
いずれにしろ、いまの時点でこのふたりを連れて来たということは、諸葛亮がもっとも信頼できる人物と考えたからだろう。
劉禅に名前を訊いてみたが知らないという。
巨躯を折り曲げて一礼し、諸葛亮が中央に、太った男がその隣に窮屈そうに座った。若い男は部屋の隅で筆を持っている。記録係というところか。
諸葛亮が口を切った。
「劉禅さま。わざわざお越しいただき、ありがとうございます。薫和どのもわたくしも、用務のためお屋敷におうかがいできませんので、おいでいただきました」
「掌軍中郎将の薫和です。劉禅様にはご機嫌うるわしゅう」
年輩の男があいさつした。
もう一人は、
「主簿の馬謖でございます。お目通りがかない、恐悦至極にぞんじます」
これが馬謖か。まだ二十代後半だろう。目がキラキラしていて、すっきりしている。有能なキャリアを思わせる。MBAでも持っているんだろうか。
「おいでいただいたのは、いうまでもなく昨日の件でございます。二人には、話をしております」
「うん、わかった」
「その後もお変わりありませんか」
「変わらないというと?」
「先を見透すお力はそのままなのでしょうか」
劉禅はひそかに、といっても頭の中だから、もちろん相手には聞こえないが、わたしに聞いた。「なんとこたえればよいのだ」
ここは慎重にいく必要がある。劉備軍が外で戦っている現在、いうまでもなく、ここが蜀政権の中枢の中枢だ。きわめて重要な場面だ。
「かわりましょう」と劉禅に替わったのはいいが、答えは難しい。どういう返事を望んでいるのだろうか。
とりあえずなにか言わなければいけないので、
「持っているといえば持っているし、そうでないといえばそうでもないな」
三人は顔を見合わせた。子供らしくないこのような韜晦は、かれらになにかを伝えたことにはなるだろう。
「それでは、ええと、ゴホン」
薫和が切り出した。
「黄忠どのが夏侯淵を斬るというのはまことでしょうか」
「そのとおりです」
「ふむ」
薫和が続けた。
「そのあと曹操が来るというのも」
「そのとおり」
曹操という言葉で、背後の劉禅がぎょっとした。いい加減に慣れてもらいたいものだ。
「そして、主上が漢中王を宣せられると」
「まことにそのとおりです」
薫和が考え込んだ。
「主上を漢中王に推挙することは、劉禅どのがおひとりで考えられたことなのでしょうか」
諸葛亮はじっとわたしを見ている。
「わたしひとりでというよりも、誰でも思いつくことではないかな」
薫和がこたえた。
「そうでしょうか。誰もが思いつくようで思いつけず、言われてハタと膝を打つような策を生み出す才こそ、真の才であるとわたしは思いますな」
薫和は諸葛亮を見やりながら続けた。
「じつは、諸葛亮どのからその考えを聞かされたのが、ひと月前のこと。劉禅さまが、諸葛亮さまとは別にそのように考えられたとすれば、それこそ天賦の才でございましょう」
諸葛亮が頷きながら言った。
「推挙の件は、わたくしから劉禅さまにお話ししたことはありません。きのうまでは、わたしと薫和どのだけが知っている話でした」
薫和も重々しくうなずいた。
「尋常な話ではないからな。とはいえ、曹操が魏王に登って二年が経つ。その曹操を撃退した上、主上が漢中王を唱えられれば、世の人に大きな力を及ぼそう。漢中は中原を望む交通の要所であるとともに、なにより漢の高祖が覇業をはじめられた地。いや、まことに驚嘆すべきお考えである」
薫和は続けた。
「ただ、戦の結末についてはいかがなものか。誰が誰を斬るということが今からわかるとは、正直いって信じられませんな。劉禅さまのそのお言葉、どう考えたらよいか」
発言を求めるようこちらを見た。
わたしの出番だ。
「薫和どの。もとより人の生死は定めがたいもの。いつ、どこで、誰が、どのように死ぬかということなど、だれにもわかることではありません。わたしは黄忠どのが夏侯淵を斬ると申しましたが、黄忠どのがみずから手を下して夏侯淵の首を刎ねるのか、あるいは黄忠どのの軍勢の誰かが夏侯淵を捕えてその場で斬るのか、はたまた、乱戦にまぎれていつのまにか倒しているのか、そこまではわかりません。黄忠どのの射た相手がたまたま夏侯淵だったということもありうるでしょう。軍の指揮はあくまで主上がされること。それからすれば、黄忠どのではなく、主上が斬ったということもできましょう。ただ、後々の世には、黄忠どのが夏侯淵を討ち果たし、四海を震撼させたとして伝わるのです」
「すると曹操を撃退するということも信じていいのであろうか」
「薫和どの。いうまでもなく魏軍は強豪です。赤壁の戦いでいったん打ち破ったといえども、その軍勢はわが軍を遥かに凌駕します。容易なことでは勝利は叶いません。わたしが曹操に勝てるといっただけで勝てるものでしょうか。曹操の侵攻を防ぐためには、わが軍の知恵と力の限りを尽くす必要があります。主上は幽州で立たれて以来、小沛を追われ、長坂で臣民を戮殺されながらも、諸葛亮どのの隆中策に従い、荊州と益州の人士の助力を得て、ようやく蜀の地を得ることができました。しかるべき軍勢を整えて曹操と戦うのはこのたびが初めて。これまでとは異なります。夏侯淵を破って漢中から追い払うことができれば、なんで曹操ごときに遅れをとることがありましょうか。魏武の強とはいえ、この地で戦えば、曹操はかならずや『鶏肋』を発して黙然とするに違いないのです」
「鶏肋とは?」
薫和は諸葛亮にたずねた。諸葛亮は即答した。
「鶏のあばらのことでしょう。捨てるには惜しいが、腹の足しにはならぬ。曹操がそう語るとすれば、漢中は惜しいけれども、手に入れるには被害が大きすぎるとの意かと」
「そのとおりです。その言葉を残してこの地から引き上げるでしょう」
薫和が感嘆の声を漏らした。
「とても十余歳の子供の言葉とは思えぬ。これはいったい……」