7
劉禅は寝所に入ってすぐ眠ってしまったので、わたしは一人になって考えた。
孔明はさきほどの話をどう考えるだろう。
劉禅が世迷言を言っていると考えるだろうか。
それだけではないと思わせるような内容を伝えたはずだが。
だが、それも狂人のたわごとの一部と取られたかもしれない。
巫女や占師が、なにかの霊に憑依され、陶酔状態で奇怪な出来事を語ったりするそうだが、それと同じように思われたのではないか。
とすると劉禅の立場はどうなるのだろう。よくわからないが、妖言のたぐいを語る者として、警戒されるのだろうか。あるいは、神秘的な力を持つ者として、畏れ敬われるのだろうか。
後者だったらいいが、前者だったら困ったことになるかもしれない。狂人扱いされて、世継ぎとしての立場が危うくなるかもしれない。
いや、それは考えすぎか。
いずれにしろ、劉禅には前もって口止めしておいたほうが良かったのかもしれない。ちょっとうかつだった。
劉禅も劉禅だ。劉禅だけあって軽はずみなやつだ。
諸葛亮は、思ったより重々しい人物だった。
劉禅にはできるだけ優しい口調で話しかけていたが、まわりの人間や部下には厳しそうだ。
じつは劉禅もわたしも、諸葛亮が立ち去ったあと、緊張が解けて、すこしほっとしたのだ。話しているあいだ中、なんともいえない威圧感があって、劉禅は背中に汗をかいていた。背中があったらわたしもそうなっていただろう。
年齢は、いくつぐらいだろうか。
髭を生やしていたので、ちょっとわかりにくいが、二十代ということはないだろう。
三十代か、四十代のはじめか。
とするとわたしとあまりかわらない。
そうか、あまり変わらないのか。それであれだけの重厚感はすごいな。
この辺境の地から、漢帝国の後を継ぐ国を作っていこうというのだから、あれぐらいの重々しさは必要なのだろう。
いまは劉備や関羽や張飛がいるが、もうすぐ、こうした英雄たちはいなくなる。たったひとりで国を維持していかなければならない。維持するだけではなく、魏を倒さなければならないのだ。
単身、漢帝国再興のために戦った軍略の天才。
そういった歴史上の偉人と、さっきまで実際に話をしていたのだが、意外にも、たいした感慨は湧いてこなかった。
自分でも拍子抜けだが、伝説的な人物に実際にあって話をしてみるとなると、こういうものなのかもしれない。
尋常ではない感じはしたが、それ以上に、生身の人間だった。想像上の怪物ではなく、生きているおなじ人間。
あたりまえといえばあたりまえのことなのだが。
わたしだって、業界ではそこそこ名の通った会社の営業課長だったのだ。同年代の男にビビってばかりもいられない。
翌日もきのうとかわらない日程。
昼からの講義は、白雲先生に代わって青雲先生だった。
名前だけ見ると若そうだが、青雲先生も、腰が曲がったよぼよぼの年寄だ。
今日は漢書ではなく、書経という巻物を読んだ。
古の政治家たちの演説集みたいなものか。わたしはあまり興味がもてなかった。劉禅たちはもちろんだ。
昼からの時間を楽しみにしていたところ、耿周が呼びに来た。
「軍師どのがおいでいただきたいそうです」
「諸葛亮どのが、また?」
劉禅はふてくされた顔をした。
「いまから遊びの時間なのに」
「お断りになりますか」
「そうだなあ」
わたしはあわてて声をかけた。
「劉禅どの。それはいけません」
「なんだ光栄か、うるさいな」
「諸葛亮どのですよ。大切なはなしに決まっています」
「だけど、きのうの軍師どのはすこし怖かったぞ」
「そうおっしゃらずに。断ったとなれば、あとで父上から怒られますよ」
「そうかなあ。夜に来てくれればいいではないか」
「きっとお忙しいんでしょう」
劉禅はしぶしぶ応じた。
屋敷の玄関に馬車が用意された。
馬車は単騎立てで、大きな傘つきである。
御者席に耿周が座り、劉禅が並んで座った。
前と後ろ、両側に、兵士たちが並んだ。
出発しようとしたところに、むこうから馬が一頭近づいて来た。
乗っているのは劉林だ。
「劉禅さま。おでかけか」
馬車の横に並んだ。
「軍師どのから呼ばれて」
「へえ。諸葛さまから」
劉林はうらやましそうに言った。
「耿周どの。ついていってもいいでしょうか」
「それはかまいませんが」
御者席から答えた。
「軍師さまには会えませんよ」
「わかっています」
劉林は、列のいちばんうしろにさがった。
わたしは劉禅にたずねてみた。
「劉禅どのは、馬には乗らないんですか」
「乗りたいけど、まだちょっと」
「それは意外ですね。劉備さまのお子さまなのに」
「馬の背が高すぎて落ちたらケガしそうだ」
恥ずかしそうに言った。
「もうすこししたら乗ってみようと思う」
そうか。悪いことを聞いた。
生まれて間もないころ、父劉備から地面に抛り投げられたのがトラウマになっているに違いない。
いまから千八百年前の成都は、当時であっても古い歴史を持つ都市で、異様な形象の仮面を特徴とする三星堆の文化は、それよりさらに三千年さかのぼるという。
周の末期に成都と名づけられ、秦の滅亡後、劉邦はこの地を根拠地として項羽と戦い、ついに破って漢を建国した。
それから四百年経った後漢末、規模や文化レベルの高さでは、当時の大都市のひとつに数えられていたようだ。
だが、つい最近まで東京の雑踏のなかで暮らしていたわたしの目からすると、通りはひどく閑散としてみえた。
舗装のしていない通りは、春の風を受けて埃が舞い上がっている。
両側に建物が連なってはいるが、色褪せた白い壁がならぶばかり。
大人や子供たちは、劉禅一行をみて、興味深げに顔を向けるもののすぐ目をそらせた。あまりかかわりあいになりたくないらしい。
無理もない。劉禅たちはまだここではよそ者扱いなのだろう。
いちばん後ろからついてきている劉林は、そんなことは気にならないらしく、陽気に歌を歌っていた。
川の奥に緑竹が繁っている。
その竹のように有徳の君子がいる。
その人は切磋琢磨してやまない。
厳にして寛大、明にして威儀あり。
その人の徳は、いつまでも忘れられることはない。
川の奥に緑竹が青々としている。
その竹のように盛徳の君子がいる。
その人は威厳があって麗しい。
厳にして寛大、明にして威儀あり。
その人の徳は、いつまでも忘れられることはない。
川の奥に緑竹が密生している。
その竹のように明徳の君子がいる。
その性は純にして清涼。
その心は宏大にして闊達。
ああ、乗る車は君子の車。
皆とよく親しむも、礼の道を外さない。
声変わりする前のきれいな声で、繰り返し歌った。これまで聞いたことのない不思議な節回しだった。
歌い飽きると、後ろから追いついてきて、劉禅の横に並んだ。
「劉禅さま。諸葛さまは、なんの用なんですか」
「さあ。わからない」
「戦のことでしょうか」
「かもしれない」
劉禅はとぼけた。
きっときのうの件に違いないのだが、諸葛亮がどういう対応をしようとしているのか、わたしにも見当がつかない。
「じゃ、諸葛さまに会ったら、ひとつお願いしてもらってもいいですか」
劉林は馬上から身を乗り出すようにして言った。
「どうかな」
劉禅はあいまいにこたえた。
「そんな時間があるかなあ」
「いえ、簡単なことなんです」
「簡単なことだったらいいよ」
劉禅は釘を刺した。
「でも、漢中行きの話はだめだよ。軍師どのがいいっていうわけがない。劉封兄も許してくれないだろうし」
「いやいや、そんなことじゃありません」
劉林は朗らかに笑った。
劉林の乗っている馬はおとなしそうで、劉禅の車に合わてのんびり歩いている。
頭上に木の枝が懸ったとき、劉林は背を伸ばして葉を数枚むしった。二枚の葉を折り曲げて葉笛をつくり、涼しい音を鳴らした。
「劉禅さま、聞くところによれば、父上たちは、われらの年頃には、もう戦の稽古に励んでおられたそうです」
「劉封兄が?」
「父上もですが、ほかの将軍もそうだと聞きました」
「ふ~ん」
「将軍になるためには、小さいころから、そういう稽古が必要だそうです」
「そうか」
「それで、みんなで稽古をやろうと思うのです」
「みんなって、だれ」
「魏統とか馮泰とか」
劉禅は知らないようだった。劉林の遊び友達だろう。
「兵法なら、そのうち先生が教えてくれるんじゃないかなあ。ええと、孫子とか」
「そんなんじゃないんです」
劉林はちがうちがうと葉笛を振った。
「実際に戦をするんですよ」
「実際に?」
「敵と味方に分かれて戦うんです。もちろん本気でやるんじゃないですけど。子供だけでやるんです」
「陣取り合戦みたいなものかな」
「そうですけど、もっと大きくやるのです」
劉禅はあまり関心がなさそうだった。
「大きくというと、どれぐらいの人数でやるんだ」
「たくさんのほうがいいですけどね。敵が百人。味方が百人ぐらいかな」
「そんなに集められるかな。集まる子弟はそんなにいないだろう」
「ですから、われわれが将軍になって、兵は庶の子供を使うんです」
劉林は素晴らしいアイディアをひけらかすように言った。
「ほう」
ようやく劉禅が興味を示した。
「劉禅さまも入りませんか。そうしたら大将になってもらえる。ほかの子たちはそれぞれ将軍になって戦うんです。おもしろそうでしょう」
「相手の大将はどうする?」
劉林がにっこりわらった。
「やっぱりわたしかなあ」
「劉永が文句をいうよ」
「では劉永さまでもいいですよ。わたしは軍師将軍」
「あ、軍師将軍がいいな。それはわたしが」
「劉禅さまが軍師になられたら、大将がいないでしょう」
「大将は恵にさせる」
「劉恵さまは勘弁」
ふたりで笑った。
「でも、危なくないかな。劉理とか」
「劉理さまは、さすがに小さすぎるのでは」
無邪気に戦争ごっこの相談をしている子どもたちの会話を聴きながら、兵士たちは春の日の午後の街をのんびり歩いた。