6
泥まみれになった服を着替え、湯で体を洗い、夕食を取る頃にはあたりが暗くなっていた。
蝋燭の炎のもとで、朝と同じく粗末な部屋で侍女に囲まれて夕食をとった。
食事は意外と豪華で、川魚の焼き物に豚肉を炙ったもの。魚のすり身と野菜。そのほかにも数種類。いずれも香辛料が効いて辛そうだが、なかなかおいしそうだ。
そういえばここは四川料理の本場だった。この時代からあったのだろうか。
朝から気になっていた侍女は簡女という名で、聞くと、簡雍の孫娘だという。
簡雍というのは、劉備が幽州で旗揚げする前後からの付き合いで、この地を治めていた劉璋を降伏させるときに大きな功があった人物。
簡雍は昨年亡くなったので、劉備が引き取り、劉禅の乳母として置いているのだという。
わたしはすることがないので、この娘をながめていた。
色は黒く、目つきがきついので美しくはないが、ほかの娘に較べると垢抜けてみえる。
劉備につき従って転々とする簡雍の家族の一員として、ここ益州の山奥ではなく、どこか別の土地で生まれ育ったせいだろう。
腹いっぱい食べた劉禅は、もう寝るのかと思ったら、耿周が静かに部屋に入って来た。
「劉禅さま。まもなく軍師さまが見えられます」
「えっ、いまごろ?」
劉禅はおどろいた。
「なんの用事だろう」
「わかりません。軍師さまを広間にご案内しますので、こちらに」
わたしは劉禅にささやいた。
「諸葛亮どのは、よくこちらにみえられるんですか」
「いや、父上がいないときは、めったに。どうしたんだろうな。光栄はどう思う」
「はて」
「悪い知らせでないといいな」
劉禅は不安がっていた。
それはそうだろう。ここはのどかで安全そうに見えるが、じつは戦争中だったのだ。重要な人物の戦死や敗死はいつでも起こりうる。
朝と同じように、いったん外に出て暗い廊下を渡り、また別の建物に入る。
大きな広間だった。
その一角にある椅子に座った。耿周は後ろに控えた。
遠くから数等の馬のいななく声と、兵士たちのざわめきが聞こえてきた。建物の外のようだ。
そのあと静かになった。
しばらく待った。
三人が急ぎ足ではいってきた。
先頭のいちばん背の高い人物が諸葛亮だろうと思った。
諸葛亮は一九〇センチ近くあったといわれている。たしかに頭一つ抜けていた。
かれが部屋に入ってきた瞬間、空気が引き締まった。劉禅はおもわず背筋を伸ばした。わたしもそうだ。
劉禅に向かい合って座り、左側に学者風の細面の男が座った。
兵装をした三人目の男は、やや離れて諸葛亮の背後に立った。蝋燭の光が届かず、顔は見えなかった。
諸葛亮から口を切った。
「劉禅さま。おかわりはありませんか」
「うん」
「そうですか。それはよかった」
劉禅がたずねた。
「きょうは急にどうしたのだ」
「昨日の夜から、劉禅さまのご様子がおかしいと報告を受けました。劉備さまのいないあいだ、大事があってはたいへんなので、ご様子をおうかがいにまいったのです」
「わたしの様子、というと?」
「昨夜、賊が侵入していると警備の者を呼ばれたとか。今朝も急に叫ばれたと聞いております。白雲どのの講義では、なにか独り言をいっておられたとか」
独り言には気がつかなかった。わたしと話をしていて、知らぬまにそうなったのだろう。
「ああ、そのことか。じつは昨日の夜、不思議なことが起こってな。軍師どのにも話したかったのだ」
「不思議なこととは」
ええ、劉禅、話すのか。諸葛亮は信じないと思うが。
「昨夜、仙人が私の頭の中にやってきて、それからずっと話しかけてくるのだ。昨晩ははじめてのことでびっくりして、それでみなを起こしてしまったようだ」
諸葛亮は眉をひそめた。
隣の男を見やって、それからゆっくりとした口調でたずねた。
「だれかの声が聞こえるということでしょうか」
「そうなのだ。名前も名乗ったぞ。光栄というそうだ。蓬莱国から来たといってる」
「蓬莱国の光栄ですか。たしかに不思議な出来事ですな」
「それだけではない。光栄はこれから起こることが見通せるというのだ」
諸葛亮はますます眉をひそめた。
「先のことがわかるというのですか」
「そうだ」
思わず隣の男が口を開いた。
「たとえばどんなことでしょう」
諸葛亮が眼で制したので、男は失礼したという表情で口を閉じた。
諸葛亮がさらにゆっくりした口調でたずねた。
「これから起こる、どんなことがわかるというのでしょう」
「このたびの戦い、父上が勝つそうだ」
二人ともにっこりと笑顔をみせた。子供らしい返事だと思ったのだろう。
「もちろんです。われわれも劉備さまのお力を信じております」
劉禅がすこしむきになって続けた。
「それから、だれが夏侯淵を斬るかもわかっているそうだ」
「ほう。だれでしょうか」
「黄忠将軍どのだ」
「おお黄忠どの。たしかに黄忠どのならば、きっとその任を果たしてくれるでしょう。そのほかには」
「ええと」
劉禅は言い淀んだ。
わたしは劉禅に、夏侯淵を倒す場所もわかっていると言うよう伝えた。
「黄忠将軍が夏侯淵を倒す場所もわかっておる」
「ほうほう。そこはどこです」
定軍山。
「定軍山です」
諸葛亮は、おや、という顔をした。
「魏の本陣の場所をご存じでしたか……ほかにはなにかありますか」
諸葛亮は劉禅の目をじっと覗きこんだ。
わたしは直接眼をあわせているような気がした。
いつごろ倒せるかもわかっている。
「いつごろ倒せるかもわかっておる」
「それはいつでしょう」
今年の冬までには。
「今年の冬までには」
「冬まで。それは少し早い気が……」
諸葛亮がこの会話をどう考えているか、その表情からはまったくうかがいしれない。
劉禅に物の怪がとりついた、要するに、狂ったと思っているのだろうか。
劉禅が言っていることが正しいと分かってもらうためにはどうしたらいいのだろう。
わたしはささやいた。「荊州を警戒するように言ってください」
「それと荊州を警戒するようにと言っている」
「荊州ですか。江陵には関羽将軍がおられます」
呉の呂蒙と陸遜に気をつけるように。
「呉の呂蒙と陸遜に気をつけるように」
「呂蒙? 魯粛どのの後任か。たしかに陸口におりますね。武辺一方の武将と聞いたことがありますが。呂蒙までご存じとは、劉禅さまもたいしたものです。はて、陸遜とは聞かない名前ですね」
亡くなられた魯粛どのは、呉と蜀で、魏を討とうと考えておられましたが、しかし呂蒙はそう考えていません。まず関羽殿を倒そうと謀んでいます。
「魯粛どののことまで…」
呂蒙は、たしかに学問のない将軍でしたが、そのあと勉学に努め、男子三日会わざれば括目して見よ、という諺のもとになった人物です。
「劉禅さま」
陸遜は呉の英才です。まだ蜀では知られていませんが、後に周瑜のあとを継ぎます。関羽将軍はこの二人を軽く見すぎています。二人の奸計にはまっては、いかに関羽将軍とはいえ、命を落とす危険があります。
諸葛亮は驚愕してわたしを見ていた。
劉禅にかわって、わたしがしゃべっていた。
わたしは身を引いた。劉禅が出て来た。
「いまのは光栄の言葉だ。わたしが知らないことをたくさん知っておる」
隣の男がつぶやいた。
「呉のことは、お教えしていないはずだが。だれから聞かれたのか……」
諸葛亮が言った。表情が厳しい
「劉禅さま。では、夏侯淵を倒したあとは、どうなるとお思いか」
劉禅が私を押し出したので、またわたしがしゃべることになった。
「曹操が直接攻めてきます」
背後の劉禅が凍りつき、隣の男が顔をしかめた。諸葛亮の背後の兵のからだがびくりとした。
諸葛亮だけが静かに言った。
「なるほど。ありそうなことです。それからどうなります」
「曹操を退け、蜀が漢中を手に入れます」
「ほう」
「そして漢中王を宣言します」
諸葛亮は、はっとした顔をした。
「漢中王……それから」
「そのあと、関羽どのが樊城を攻めます」
「樊城を?」
「江陵から攻め上がります」
「その結果どうなります」
「于禁を捕えます」
「于禁を。それは大手柄ですね。そうして樊城も落ちるのでしょうか」
わたしは答えなかった。わたしは劉禅の後ろに下がった。どこまで話していいものか、だんだん不安になってきたのだ。
諸葛亮が目を閉じて返事を待った。
劉禅がしゃべらないので、しばらく沈黙がおりた。
諸葛亮が目をあげた。
「じつに不思議なことですが、とても興味深いおはなしです。それで劉禅さま、おからだはなんともありませんか」
「というと」
「頭が痛むとか、吐き気がするとか」
「いや、それはなんともない」
「そうですか。大丈夫ですか」
「だいぶ眠たくなってきた」
「それはそれは。時間をとりましたね。申し訳ありません」
諸葛亮はしばらく考えたのち言った。
「劉禅さま、ひとつお願いがあります。このことは誰にもお話しされないようお願いします」
「光栄のことか」
「そうです」
「父上にもか」
「劉備様には、そうですね、折を見て、わたくしからお話ししまましょう」
「他人にしゃべるとまずいことがあるのか」
「まだわかりませんが、よく考えないといけません」
「そうかな」
「あまりに不思議なことなので、聴く者が信用しないかもしれません。人によっては、失礼ながら、劉禅さまが気が触れたと思うかもしれません」
「ふむ。それは困るな。皆と遊べなくなるかな」
「そうなるかもしれません」
「だが、わたしのいったことに嘘はないぞ」
「ですから、いましばらく内密に。この件はまた、ゆっくりお話しさせてください」
「わかった。黙っておこう」
ふたりは立ち上がり、警備の兵士とともに出ていった。
劉禅に、諸葛亮の隣の男の名を聞いたが知らなかった。
劉禅から耿周に訊いてもらったところ、尹黙という名前で、劉禅の教育の責任者だという。