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わたしは毎朝、電車で通勤している。
その日も朝六時に起きて、駅まで歩き、7時に電車に乗った。
都内まで一時間半だが、始発の駅に近いので座ることがきる。
いつもどおり文庫本を取り出して読みはじめた。読みはじめてすぐ寝てしまった。それが習慣である。
途中からギュウギュウ詰めになるのだが、あまり苦にならない。寝ているうちにすぐ都内に着いてしまう。ふと目が覚めると女性の胸が目の前に迫ってくることも、たまにあったりするので、得をした気持ちになる。
その日もそうやって寝ていました。
突然、ガンと大きな衝撃がして、目の前が真っ暗になった。――寝ていたのに真っ暗もないようだが、とにかくそう感じたわけである。そのまま気を失ったらしい。
なにか主人公の身に変化が起こったとき、SF小説ではよくこういう出だしになるものだが、わたしにもそういうことが起こったわけである。
目が覚めると、まったくおかしなことになっていた。
痛い頭をさすりながら――といってもあとで考えると、痛みがあるはずはないのだが――眼を覚ますと、
「誰だ!」
という声が響いた。
わたしはキョロキョロあたりを見回した――真っ暗である。
もう一度、
「誰だ!」
という声。いや、頭の中に直接響いてくる感じ。
声は若い。
そのあと、相手はじっと息を凝らしている。
真っ暗なのと、大声で頭の中でジンジンする気がして、わたしはおもわず、「う~ん」と唸り声をあげてしまった。
たちまち「ヒー」と「ギー」が入り混じった言葉にならない叫び声。アイタタタタ、声がデカすぎて頭が痛い。相手はガバと跳ね起きた。
誰かが駆けつけてくる物音。
これはヤバい。
そう感じて物陰で身を縮めた。その瞬間、あれ、わたしのからだはどこだろうと思った。
「若君! どうなさいました!」
女性の声。
「誰かいる、そこに!」
また、頭に鳴り響いた。
「お静まりください。誰もおりませぬ!」
ドタドタと何人かが駆けつけてきた。みなでわたしを取り押さえようとする。
ぱっとどこかで灯りがともった。暗闇から周囲の顔が浮かび上がる。
髭面の物凄い顔がいくつも、わたしを覗きこんでいる。
混乱して、わたしは、
「離してくれ!」
と叫んだ。
だが抑え込まれ、寝かされてしまった。
というより恐しさのあまり抵抗できなかった。
いったいなにがどうなっているのだろう。
読者もなにが何やら、わからないかもしれない。ともかく、最初はこのように、わたしも劉禅も混乱していた。混乱した中での出会いだった。
劉禅は、そうやって寝かされたまま、息を潜め、じっとこちらを見ていた。
わたしも身じろぎせず、じっと相手をうかがっていた。
女性の声がした。
「悪い夢をみなさったのでしょう。もう大丈夫でございます」
声の主は、まわりの男たちとちいさな声でなにか囁きかわしていた。男たちはしずかに部屋から出ていった。
ひとり残った女性は、少し離れたとこから、穏やかな低い声で、こちらに語りかけ始めた。まるで赤ん坊をなだめるかのように。
事態が呑み込めてきた。
どうやらわたしは、誰かの頭の中にいるようだ。
わたしがそう理解すると、相手も同時に、そのことに理解がいったようだ。
「おまえは誰?」
おびえた声で――いや、声を出さずに、そういう考えをわたしに送ってきた。
そう訊かれて、こういう状況下でどう答えればいいだろう。
わたしはまだ、相手が何者であるかを知らない。刺激しないように、ゆっくりと答えた。
「わからない……」
「なぜここにいる?」
「わからない……」
「わたしになにをしようとしているのだ」
「わたしにもわからない」
相手は、そこで黙り込んでしまった。
女性の声が続いている。
あたりはとても静かだった。
部屋の片隅の蝋燭の明かりがぼんやりと揺れていた。
広い部屋にいるようだった。
今度はこちらから尋ねてみた。
「ところであなたは?」
相手は子供だろうと思ったが、さきほど若君と呼ばれていて、地位のある人間らしいので、丁寧にたずねてみた。
こっちが勝手に頭の中にはいりこんでいるので、やはり遠慮がちに聞いた方がいいかなとも思ったのである。
「わたしを知らないのか?」
相手はビックリしたらしく、声を上げたので、女性が慌てて、「だいじょうぶでございますよ。誰もいませぬ。さあさあ――」とまたなだめている。本人もまずいとおもったのか、
「大丈夫じゃ」
と低い声で呟くように言った。
そして頭の中で、
「ここがどこだか知っているのか」
と訊いてきた。
「さあ」
「知らないままここに忍び込んだのか」
「忍び込んだわけではありませんが……」
「ふーん」
相手はまた、考え込んだ。
わたしから尋ねてみた。
「それで、あなたはどなたですか」
「わたしか…。わたしの名は、劉禅という」
その言葉と同時に、劉備、蜀、魏、呉、諸葛亮といったさままざな思念がパッパッと明滅した。
その一瞬で、わたしは自分がどの時代のどの場所にいるか、誰の頭の中にいるのかを理解した。思わず息を飲み、こう言った。
「劉禅! あの!」
相手は静かに答えた。
「そのとおり」
うーむとわたしは唸ってしまった。そして腕組みをし、なんじゃこりゃと思った。
よりにもよって劉禅とは。笑いたくなってしまった。
相手に失礼なので、失望と笑いを押し殺したつもりだったが、すこし漏れたのかもしれない。
「どうしたのか」
わたしは慌てて、
「いやいや、なんでもありません」
劉禅はわたしを怪訝そうにながめながら、
「それにしても不思議だ。どうやらお前は、頭の中にいるらしい。変な感じがするが、わたしが狂ったわけでもないようだ」
劉禅とはいえ、この少年、ひどく愚かというわけでもなさそうだ。
「わたしも不思議です。どうしてこうなったのか」
「おまえの名前はなんという」
「山崎といいます」
わたしは山崎浩三という名前である。
「山崎……あまり聞かない名だ。字はあるのか」
むかしの中国では、成人男性は、本名以外に字というものを持っていたらしい。
「光栄と申します」
三国志といえばこれ。
「光栄……なんの用事があって、わたしのところにきたのだ」
もちろん答えられるはずがない。
わたしは別のことを考えはじめていた。
いま、三国志のどの時期にいるのだろう。
若君と呼ばれていたことからすると、まだ蜀の皇帝にはなっていないのだろう。
すると、まだ劉備が生きていることになる。
劉備が生きているとすれば、当然、諸葛亮がいる。
趙雲は、劉備が死去してから亡くなった。
劉備がいるとすれば、当然趙雲も健在だ。
劉備より先に亡くなったのは、関羽と張飛だった。
張飛は生きているのだろうか。
張飛は部下に殺されてしまうが、それは、関羽が呉によって首を刎ねられた後のことだ。関羽が先に死んでいる。関羽はまだ生きているのだろうか。
わたしは急にドキドキしてきた。
劉禅がなにかわたしに話しかけているようだったが、自分の考えに熱中して聞いていなかった。
劉備が亡くなるとき、孔明を傍らに呼んで、劉禅に見込みがない場合は、孔明が蜀を継ぐように頼んだ。
孔明は涙を流しながら、力の限り劉禅を補佐することを誓ったわけだが、劉備にそう言わせるぐらいだから、劉禅はまだ幼く、頼りなくみえたのだろう。
あのとき劉禅はいくつだったのだろうか。
この劉禅もかなり若そうだが、そこまで年少というわけでなさそうだ。
とすると蜀を継ぐ時期が近いのかもしれない。
つまり劉備の寿命は残りすくないのではないか。
劉備が晩年だとすると、関羽や張飛はもういないのではないか。
曹操は?
曹操は関羽の死後まもなくして死んだ。
次は曹丕と司馬懿の時代だ。
魏はいったいどうなっているんだろう。
呉は?
呉は孫権だ。孫権は長生きなのでまだ生きている。
いまがいつなのか、どうやって知ればいいのだろう。
劉禅に聞いてみようか。
しかし中国の元号で答えられてもわからないにきまっている。西暦で教えてくれというのも無理だ。
劉禅のいる頃の大きなできごとといえば、なんだったろう。
劉禅が即位する前のことだ。それがわかればだいたいの見当がつく
そうだ。関羽の樊城の戦いと、関羽を失った後の、劉備による夷陵の戦いだ。
ということは、関羽が生きているかいないかで、おおよその情況の見当がつくのではないか。
それを聞いてみよう。それならば劉禅も答えることができるはず。
「ところで、関羽将軍はどうされています?」
といいかけて、わたしはおどろいた。
劉禅は眠ってしまっていた。
すやすやという寝息が聞こえた。意識がなくなっている。
そばの女性も、いつのまにかいなくなっていた。
なんとのんきな、と思った。
やはり劉禅。
わたしだけが夜の中に取り残された。
静かだ。
遠くでに甲高い声がする、獣の声のようだ。猿の鳴き声だろうか。
しかたがないのでわたしも眼をつぶった。眠れるかどうかわからない。なにせここは他人の頭の中だ。
電車が事故を起こしたかなにかがあって、そのショックでここに飛ばされたのだろうか。それしか考えられない。しかし普通ありえない話だ。
これは夢かなにかで、明日になれば、また会社勤めが待っているのかもしれない。
そう思いながら、わたしも眠りの中に引き込まれていった。