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劉禅戦記  作者: Ravenclaw
第1章 劉禅
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2

 わたしは毎朝、電車で通勤している。

 その日も朝六時に起きて、駅まで歩き、7時に電車に乗った。

 都内まで一時間半だが、始発の駅に近いので座ることがきる。

 いつもどおり文庫本を取り出して読みはじめた。読みはじめてすぐ寝てしまった。それが習慣である。

 途中からギュウギュウ詰めになるのだが、あまり苦にならない。寝ているうちにすぐ都内に着いてしまう。ふと目が覚めると女性の胸が目の前に迫ってくることも、たまにあったりするので、得をした気持ちになる。

 その日もそうやって寝ていました。

 突然、ガンと大きな衝撃がして、目の前が真っ暗になった。――寝ていたのに真っ暗もないようだが、とにかくそう感じたわけである。そのまま気を失ったらしい。

 なにか主人公の身に変化が起こったとき、SF小説ではよくこういう出だしになるものだが、わたしにもそういうことが起こったわけである。

 目が覚めると、まったくおかしなことになっていた。

 痛い頭をさすりながら――といってもあとで考えると、痛みがあるはずはないのだが――眼を覚ますと、

「誰だ!」

 という声が響いた。

 わたしはキョロキョロあたりを見回した――真っ暗である。

 もう一度、

「誰だ!」

 という声。いや、頭の中に直接響いてくる感じ。

 声は若い。

 そのあと、相手はじっと息を凝らしている。

 真っ暗なのと、大声で頭の中でジンジンする気がして、わたしはおもわず、「う~ん」と唸り声をあげてしまった。

 たちまち「ヒー」と「ギー」が入り混じった言葉にならない叫び声。アイタタタタ、声がデカすぎて頭が痛い。相手はガバと跳ね起きた。

 誰かが駆けつけてくる物音。

 これはヤバい。

 そう感じて物陰で身を縮めた。その瞬間、あれ、わたしのからだはどこだろうと思った。

「若君! どうなさいました!」

 女性の声。

「誰かいる、そこに!」

 また、頭に鳴り響いた。

「お静まりください。誰もおりませぬ!」

 ドタドタと何人かが駆けつけてきた。みなでわたしを取り押さえようとする。

 ぱっとどこかで灯りがともった。暗闇から周囲の顔が浮かび上がる。

 髭面の物凄い顔がいくつも、わたしを覗きこんでいる。

 混乱して、わたしは、

「離してくれ!」

 と叫んだ。

 だが抑え込まれ、寝かされてしまった。

 というより恐しさのあまり抵抗できなかった。

 いったいなにがどうなっているのだろう。

 読者もなにが何やら、わからないかもしれない。ともかく、最初はこのように、わたしも劉禅も混乱していた。混乱した中での出会いだった。


 劉禅は、そうやって寝かされたまま、息を潜め、じっとこちらを見ていた。

 わたしも身じろぎせず、じっと相手をうかがっていた。

 女性の声がした。

「悪い夢をみなさったのでしょう。もう大丈夫でございます」

 声の主は、まわりの男たちとちいさな声でなにか囁きかわしていた。男たちはしずかに部屋から出ていった。

 ひとり残った女性は、少し離れたとこから、穏やかな低い声で、こちらに語りかけ始めた。まるで赤ん坊をなだめるかのように。

 事態が呑み込めてきた。

 どうやらわたしは、誰かの頭の中にいるようだ。

 わたしがそう理解すると、相手も同時に、そのことに理解がいったようだ。

「おまえは誰?」

 おびえた声で――いや、声を出さずに、そういう考えをわたしに送ってきた。

 そう訊かれて、こういう状況下でどう答えればいいだろう。

 わたしはまだ、相手が何者であるかを知らない。刺激しないように、ゆっくりと答えた。

「わからない……」

「なぜここにいる?」

「わからない……」

「わたしになにをしようとしているのだ」

「わたしにもわからない」

 相手は、そこで黙り込んでしまった。

 女性の声が続いている。

 あたりはとても静かだった。

 部屋の片隅の蝋燭の明かりがぼんやりと揺れていた。

 広い部屋にいるようだった。

 今度はこちらから尋ねてみた。

「ところであなたは?」

 相手は子供だろうと思ったが、さきほど若君と呼ばれていて、地位のある人間らしいので、丁寧にたずねてみた。

 こっちが勝手に頭の中にはいりこんでいるので、やはり遠慮がちに聞いた方がいいかなとも思ったのである。

「わたしを知らないのか?」

 相手はビックリしたらしく、声を上げたので、女性が慌てて、「だいじょうぶでございますよ。誰もいませぬ。さあさあ――」とまたなだめている。本人もまずいとおもったのか、

「大丈夫じゃ」

 と低い声で呟くように言った。

 そして頭の中で、

「ここがどこだか知っているのか」

と訊いてきた。

「さあ」

「知らないままここに忍び込んだのか」

「忍び込んだわけではありませんが……」

「ふーん」

 相手はまた、考え込んだ。

 わたしから尋ねてみた。

「それで、あなたはどなたですか」

「わたしか…。わたしの名は、劉禅という」

 その言葉と同時に、劉備、蜀、魏、呉、諸葛亮といったさままざな思念がパッパッと明滅した。

 その一瞬で、わたしは自分がどの時代のどの場所にいるか、誰の頭の中にいるのかを理解した。思わず息を飲み、こう言った。

「劉禅! あの!」

 相手は静かに答えた。

「そのとおり」

 うーむとわたしは唸ってしまった。そして腕組みをし、なんじゃこりゃと思った。

 よりにもよって劉禅とは。笑いたくなってしまった。

 相手に失礼なので、失望と笑いを押し殺したつもりだったが、すこし漏れたのかもしれない。

「どうしたのか」

 わたしは慌てて、

「いやいや、なんでもありません」

 劉禅はわたしを怪訝そうにながめながら、

「それにしても不思議だ。どうやらお前は、頭の中にいるらしい。変な感じがするが、わたしが狂ったわけでもないようだ」

 劉禅とはいえ、この少年、ひどく愚かというわけでもなさそうだ。

「わたしも不思議です。どうしてこうなったのか」

「おまえの名前はなんという」

「山崎といいます」

 わたしは山崎浩三という名前である。

「山崎……あまり聞かない名だ。字はあるのか」

 むかしの中国では、成人男性は、本名以外に字というものを持っていたらしい。

「光栄と申します」

 三国志といえばこれ。

「光栄……なんの用事があって、わたしのところにきたのだ」

 もちろん答えられるはずがない。

 わたしは別のことを考えはじめていた。

 いま、三国志のどの時期にいるのだろう。

 若君と呼ばれていたことからすると、まだ蜀の皇帝にはなっていないのだろう。

 すると、まだ劉備が生きていることになる。

 劉備が生きているとすれば、当然、諸葛亮がいる。

 趙雲は、劉備が死去してから亡くなった。

 劉備がいるとすれば、当然趙雲も健在だ。

 劉備より先に亡くなったのは、関羽と張飛だった。

 張飛は生きているのだろうか。

 張飛は部下に殺されてしまうが、それは、関羽が呉によって首を刎ねられた後のことだ。関羽が先に死んでいる。関羽はまだ生きているのだろうか。

 わたしは急にドキドキしてきた。

 劉禅がなにかわたしに話しかけているようだったが、自分の考えに熱中して聞いていなかった。

 劉備が亡くなるとき、孔明を傍らに呼んで、劉禅に見込みがない場合は、孔明が蜀を継ぐように頼んだ。

 孔明は涙を流しながら、力の限り劉禅を補佐することを誓ったわけだが、劉備にそう言わせるぐらいだから、劉禅はまだ幼く、頼りなくみえたのだろう。

 あのとき劉禅はいくつだったのだろうか。

 この劉禅もかなり若そうだが、そこまで年少というわけでなさそうだ。

 とすると蜀を継ぐ時期が近いのかもしれない。

 つまり劉備の寿命は残りすくないのではないか。

 劉備が晩年だとすると、関羽や張飛はもういないのではないか。

 曹操は?

 曹操は関羽の死後まもなくして死んだ。

 次は曹丕と司馬懿の時代だ。

 魏はいったいどうなっているんだろう。

 呉は?

 呉は孫権だ。孫権は長生きなのでまだ生きている。

 いまがいつなのか、どうやって知ればいいのだろう。

 劉禅に聞いてみようか。

 しかし中国の元号で答えられてもわからないにきまっている。西暦で教えてくれというのも無理だ。

 劉禅のいる頃の大きなできごとといえば、なんだったろう。

 劉禅が即位する前のことだ。それがわかればだいたいの見当がつく

 そうだ。関羽の樊城の戦いと、関羽を失った後の、劉備による夷陵の戦いだ。

 ということは、関羽が生きているかいないかで、おおよその情況の見当がつくのではないか。

 それを聞いてみよう。それならば劉禅も答えることができるはず。

「ところで、関羽将軍はどうされています?」

 といいかけて、わたしはおどろいた。

 劉禅は眠ってしまっていた。

 すやすやという寝息が聞こえた。意識がなくなっている。

 そばの女性も、いつのまにかいなくなっていた。

 なんとのんきな、と思った。

 やはり劉禅。

 わたしだけが夜の中に取り残された。

 静かだ。

 遠くでに甲高い声がする、獣の声のようだ。猿の鳴き声だろうか。

 しかたがないのでわたしも眼をつぶった。眠れるかどうかわからない。なにせここは他人の頭の中だ。

 電車が事故を起こしたかなにかがあって、そのショックでここに飛ばされたのだろうか。それしか考えられない。しかし普通ありえない話だ。

 これは夢かなにかで、明日になれば、また会社勤めが待っているのかもしれない。

 そう思いながら、わたしも眠りの中に引き込まれていった。

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