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劉禅戦記  作者: Ravenclaw
第3章 劉備
14/21

14

 三日目。

 道は緩やかな登りになっている。

 畑や人家が姿を消した。

 軍は森の中の小道を進んだ。

 緑に囲まれて、少しひんやりした空気である。

 あたりいちめん緑だが、いろいろな色合いの緑があり、木々の間から降り落ちる陽の光がきらきらと葉や草を輝かせている。

 なにかが飛び跳ねている影を目の隅でとらえることがあるが、なんの動物かはわからない。

 ときどき森から出ては草原の中を歩く。

 おとなの馬の高さにもなれてきた。

 馬の口をとって耿周がひいていて安心なので、ぽかぽかと暖かい日差しの中で、つい、うつらうつらしてしまう。油断すると馬から落ちそうになる。兵士たちの行軍歌が子守唄がわりである。

 また森に入る。

 次第に木々の密度がましてきた。

 まわりから迫ってくるように感じられる。

 前の隊が二列縦隊となって、道の両側の枝々を鉈で切り落とし、あとに続く輜重隊の道を広げている。

 劉禅たちも騎乗していると枝が顔に当たってうるさいので、馬を下りて歩くことになった。

 一週間でに着いた。

 涪も城壁で囲まれた街だが、成都とは規模がまったく違う。むしろ村といったほうがいいくらいだ。

 涪城の両側を川が流れて水と緑が美しく、むかし劉璋が曹操に備えて劉備を呼び寄せたさいには、ここで百日あまり歓迎の宴を催したという。

 軍は城の郊外に野営した。

 その日初めて、増援軍指揮官の馬良が劉禅の宿を訪ねて来た。

 馬良は馬兄弟の四男で馬謖のすぐ上の兄にあたる。

 馬の五兄弟のなかでいちばん優秀な人物といわれ、眉が白い事から、もっともすぐれたことを白眉というようになった。

 たしかに左眉の半分から端が白い。なかなか格好いい眉だ。

 馬良は諸葛亮と義兄弟の誓いをかわしており、官職的にも諸葛亮の属官を務めている。

 董允と費禕の話では、諸葛亮の腹心のひとりであるという。

 その馬良を派遣軍の指揮官に命じたのは、遠方にいる劉備とのあいだで、蜀の統治に関して綿密な意見交換が必要だからだろう。もちろん劉禅のこともある。

 馬良は挨拶が遅れたのを詫びた後、なにか不都合はないかと聞いた。

 劉禅の顔をじっと眺めたのは、なにか話を聞いているのかもしれない。

 劉禅が黙ってかぶりをふったので、すこしあてがはずれたような顔をして、これから先のことを説明した。

 ここで二日間休みをとり、軍の再編成と、あらかじめここに集められている武器と兵糧の積み込みを終えた後、剣閣にむけて出発する。

 そこには黄権の部隊が、増援軍の引き取りに出向いてきているので、合流して劉備本軍に向かう。

 本軍は現在、陽平関と剣閣のあいだに展開しているが、詳しいことは剣閣に行ってみないとわからないらしい。


 二日間の休みで気持ちを新たにした増援軍は、川をわたって山道に入った。

 張南率いる劉禅の軍は、輜重隊の前に配置された。

 輜重隊が遅れて、劉禅たちが本隊から引き離されないためだ。

 道が険しい。

 しだいに標高が高くなってきた。

 数日後、梓潼しどうを通った。

 涪よりもさらに小さく、すこし開けた山村である。

 城には入らず、野営したまま一泊した。

 成都を出発して以来、左手にずっと見えていた山脈が近くに迫って来た。

 軍は二列になったり一列になったりしながら、ゆるやかに登っていく。

 うねうねとした山中の一本道である。

 あたりは濃緑の山となった。

 叫び声がかしましい。あれはやはり猿の声だそうだ。

 初夏に近いころで、これまでは歩いていて汗ばむほどだった。が、だんだん気温が下がってきた。

 牛が引き、人が後押しして坂道を進んでいる輜重隊の荷車を待つため、軍はときどき、長時間の休止をおこなった。

 雲が近くに見える。ここまで天候を気にすることはなかったが、山中での雨が気にかかった。

 遠くを見渡すと、ときどき細い煙が上がっている。あれは山岳民族だろうか。

 山中では大勢の人間が広がって寝泊まりできる場所がないので、路上に停泊することになった。

 五千人以上がその場で火を起こして食事をする。

 それはいいのだが、崖が急で登り降りができないときには、その場で大小便するしかない。

 朝、軍団が動き始めるときには、路上が人糞だらけである。気をつけてもどうしようもない。踏みつけてしまい、ずるりと転びそうになる。

 兵士たちは成都を出発して以来、髭や髪も伸び放題だ。梓童の川べりで水につかって以来、もう何日もからだを洗っていない。

 これ以上汚れてもどうってことはない。皆そういうことには無頓着になっていた。他人の糞に滑って崖から落ちないようにすることの方が重要だ。

 兵士たちは着替えも持っていない。

 劉禅自身は軍服を何着か用意してきたが、それでも着替えたのは成都から数えて二、三回だけだ。黒装束なので汚れは目立たないが、ひどい状態になっているはずだ。

 不衛生きわまりないが、皆が気にしないので、わたしも気にならなくなってきた。

 そういえば、むかし読んだ本に、戦争の特徴的な臭いとは、糞尿の臭いと腐った食物の臭いだと書いてあった。第二次世界大戦頃の兵士の話である。

 三国志の時代から現在まで、歩兵の世界はあまり変わらないようだ。


 劉禅たちはずっと徒歩である。

 旅の最初の興奮がおさまったあとは、毎日の行軍の疲れで、馬上で一日中頭を垂れている日が続いた。

 宮中暮らしの劉禅にとって、朝から夕方まで陽にあたっているだけで疲れてきた。

 歩くようになってからは、まず足が痛くなってきた。マメがいくつもできた。布でぐるぐる巻きにして歩いた。

 ほかのふたりも同様で、魏統はときどき弱音を吐いては年下の劉林に叱咤され、ベソをかいた。

 劉禅も泣きたくなったが、そこまで格好悪いところはみせられない。

 山道に入ってから、兵士や馬は、輜重隊の負担を減らすためにかなり重たい荷物を背負わされた。

 こどもたちの馬だけ除外されたので、乗ろうと思えばいつでも乗れたのだが、三人はなるべく我慢した。魏統もベソはかいたものの辛抱強く、けっきょくいちばん歩いたのは魏統だったかもしれない。

 しかし、次第に慣れてきた。

 からだが慣れてくるとともに、痛さにも慣れてきた。

 毎日の行軍で、色の白かった劉禅の肌は浅黒くなった。

 すこしずつ余裕が出てくると、行軍が単調に思われてきて、あちらこちらと散歩してみたくなった。

 劉禅は珍しい蝶々や草花が気になった。

 すぐ横の山壁の緑の中に、ときおり、白や紫の可憐な花が群生している。わたしに花の名前をたずねるのだが、わたしも答えようがない。

 劉林は弓を使って、飛び通う鳥や、遠くからそっとこちらをうかがうキツネを射てみたかった。

 魏統は、木や草になっているいろいろな果実を食べてみたかった。

 行軍から外れるこうした行動は、すべて禁じられていた。

 すこしだけならいいではないかと思ったが、他の兵士がこのような行動をとろうものなら、脱走の疑いで処刑される。冗談ごとでは済まなくなるのだ。

 しょうがないので董允と費禕と話をした。

 しかし、どうもこのふたりは面白くない。

 董允は小太りだがとても真面目な青年で、いちいち教科書のようなしゃちほこばった回答をする。

 こどもたちと話していても、自分のわからないことや、答えるべき権限を持たない質問には答ようとせず、強いて意見を求めても、慎重に回答を避けるので、なんだかいつもはぐらかされているような気にさせる。

 費禕は痩せてひょろっとしていて、少々わからないことでも踏み込んで断言するので面白いのだが、好きで子供の相手をしているんじゃないという態度がなんとなく伝わってくるので、積極的には近づきにくい。

 ふたりに植物の名前を聞いても、案の定なにも知らなかった。おおかた四書五経の勉強ばかりしていたのだろう。  

 自然、三人は年長の尹黙と話すようになった。

 意外と話が面白い。

 昔の人のいろいろな逸話を、山道を散策するついでにといった調子で語してくれるので、劉禅と劉林と魏統はいつのまにか、かれの横や後ろを歩くようになった。

 董允があとで教えてくれたところでは、尹黙は春秋左氏伝に関する大学者ということだった。

 春秋左氏伝といえば、関羽がそらで暗記しているというあれである。

 尹黙はそこから面白そうな話を取り出しては、こどもたちに語ってくれたのである。

 劉禅たちはおかげで春秋左氏伝にひじょうな興味を持ったから、おそらく諸葛亮が手配したと思われるこの人選はまちがいなかったのである。

 尹黙は博識で、植物にも詳しかった。

 ツツジやシャクナゲやサクラ草を指さして教えてくれるので、劉禅はとくに喜んだ。 


 剣閣までは二週間かかった。

 成都がある四川盆地と、漢中や南鄭がある漢中盆地とは険しい山脈で隔てられており、剣閣は四川盆地側の関所というべき場所にある。

 増援軍は、あちこちの山腹や丘陵に分かれて宿営した。

 さっそく、剣閣に駐留する黄権と、派遣軍幹部との会議が開かれた。

 駐留部隊が使っている建物のなかに、椅子と卓が用意され、十数名が集まった。董允や費禕、尹黙とともに、劉禅たちも招かれた。

 偏将軍の黄権は、小柄だが、がっしりした体格の人物である。日焼けした顔は真っ黒で、目と歯だけが白い。

 しばらく前に到着していたので、髭や髪の手入れが行き届き、軍服もこざっぱりしている。

 それにくらべると増援軍は垢と汗まみれで、じぶんたちでは気がついていないが、異臭もひどいにちがいない。

 黄権は、馬良と知り合いらしかった。共通の知人の消息を話しながら隣り合って座ったが、黄権は馬良からなるべく離れようとしていた。

 茶をすすめながら、派遣軍の顔をひとりひとり見回し、こどもたちのところで、おやという顔をした。

 馬良は、派遣軍に自己紹介するよう促した。

「副官の傅彤です」

 黄権はうなずいた。

「同じく副官の張南です」

「ふたりとも、ひさしぶりですな」 

「尹黙です」

「おお。ご高名はかねがね存じ上げております」

「薫和の子、董允です」

「掌軍中郎将薫和どののご子息ですな。これはこれは」

「費伯仁の子、費禕です」

「はじめまして」

「魏延の子、魏統です」

「牙門将軍どののお子ですか。これはまた立派な」

「劉封の子、劉林です」

「副軍中郎将どののお子ですな」

「劉備の子、劉禅です」

 黄権は飲もうとしていた茶を噴き出した。

 あわてて椅子から降りて跪こうとしながら、助けを求めるよう馬良を見た。

「苦しゅうない。席に戻られよ」

 劉禅は笑っていった。

「馬良どの。これはいったい」

 席に戻りながら黄権は尋ねた。

「お忍びじゃ。気にされることはない」

「とはいっても、阿斗さまがわざわざこんなところまで。軍師将軍どのは、ご承知なのであろうか」

 劉禅がひきとって答えた。

「もちろんです。それより本題に入ってはいかがでしょうか」

黄権は、服の上にこぼれた茶を、ふところから取り出した赤い布で拭きながら、部下に地図を持ってくるように命じた。赤いハンカチとはなかなかおしゃれである。

 卓上に手書きの地図が広げられた。

 黄権は、最新情報として、劉備本軍が陽平関を占拠したと報告した。

 蜀から漢中に入るコースはふたつあり、そのひとつが陽平関から漢水にそって山中を進むコースで、陽平関を取れば、あとは途中のちいさな拠点をひとつずつ潰しながら進めばよいという。

 もうひとつは陽平関のずっと南方にある寧強ねいきょうから玉帯河ぎょくたいがにそって進むコース。

 現在、寧強では蜀軍と魏軍が対峙しており、劉備は本軍の一部を引き連れてそちらに移動中だという。

 ふたつのコースはいずれも漢中盆地の入口で、定軍山付近を通る。いずれそこが必争の地になることは明らかである。

 劉備がむかっている寧強は、劉禅たちが今いる剣閣と陽平関の中間にある。馬超と張飛の軍もそこにいるらしい。

 魏延と劉封の位置は不明。ひょっとしたら劉備に従って移動中かもしれない。

 馬良が率いて来た五千は、傅彤とともにここで黄権の指揮下にはいり、寧強に向かう。馬良は劉禅の軍を指揮し、増援軍に従う。

 劉備の軍に合流するのは、剣閣出発後十日から二十日のあいだのようだ。

 ただし寧強にたどり着くためには、蜀の参道を通らなければならない。きわめて険阻な道だという。

 会議が終わったあと、黄権はいそいで劉禅を引きとめた。

「さきほどは失礼いたしました」

「気にされることはありません」

「劉禅さまが、その御年でここまで戦に興味をお持ちとは、感服いたしました」

 黄権の後ろで、みながなにごとだろうという顔で劉禅との会話を聞いている。

「しかし、あえて申し上げますが、これ以上先に進まれるのはおやめになった方がよいと思います」

「どうしてかな。魏軍に襲われる心配があるというのか」

「いえ。それはありません。万全をつくしてお守りします。ただ途中で桟道を通ります。そこは難所中の難所。大人でも足がすくむ場所です。失礼ながら、劉禅さまが無理をなさることはないかと。万一、足を踏み外してもしたら、それこそ取り返しがつきません」

 劉禅は笑った。

「これはまた黄権どののお言葉とも思えません」

「と申しますと」

「父劉備はその道を通らなかったのでしょうか」

「もちろん通られました」

「ではわたしも通ろうと思います」

 黄権ははっとした表情で劉禅を見返した。

「それに、これは長安に行くためには辿らなければならない道ではないのですか」

「おおせのとおりです」

「では、わたしはかならずそこを通ろう。もちろん、もっと簡単な道があれば、教えてほしい。そのときは遠慮なくそちらの道を選ばせてもらおう」

 黄権は振り向いて、背後の馬良を見た。

 馬良を筆頭に、会議の一同は劉禅のまわりに集まった。

 馬良が言った。

「お言葉、胸に刻み込みました。われらはかならず長安への道を切り開きましょう」

 膝をつき、包拳の礼を劉禅に捧げた。

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