人に非ず
摂津国、阿倍野の武士である安倍保名が、和泉国、信太森の白狐の化身である葛葉姫との間に安倍晴明を儲けたという、古浄瑠璃にもなっているお話から着想しました。
この時代、『人』とは官位のある者。五位以上の殿上人。
それ以外は『人』とは扱われなかったようです。身分がなければ、『よみ人知らず』だったとか。
人権なんてない時代。生きにくい時代ですね。
美しき水辺。
夏の月に優しく包まれたその頃に、男は独り歩いていた。
牛車を待たせ、草の上を歩く。男は、ほんのりと紅潮する顔で月を仰いだ。
とある大臣の二の姫へ、花橘の枝に文を結んで届けさせた。その返歌が来たのである。
音に聞いた通り有心で流麗な手による歌。その優美さに、ほう、と息をもらしたのは先刻のこと。
色よい返しに、男は天にも昇る心地だった。
まだ見ぬ姫に焦がれ、その姿を思い描く。
今宵、水辺に映った揺蕩う月を眺め、姫を想いながら歌を詠むつもりであった。さぞかし素晴らしきものとなるだろう、と。
そして、男はそこで狐に出会う。
美しき水辺に、薄ぼんやりと輝く乙女の白い肌。水に散った髪は、鴉の濡れ羽色。まばゆし裸体をなぞる浜木綿の花弁のような指。狐の姿を飾るように蛍が舞い、月が照らす。睫毛の先までもが、まるで神仏のように神々しく思えた。
けれど、あれは狐である。
神仏でも、御簾の奥の姫でもない。
なのに、声も出せぬほどに男はその姿に目を奪われた。
狐は水をはね、ゆるりと岸へ上がる。そして、濡れた体を拭き、粗末な小袖に腕を通す。その、するりと衣の擦れる音が男の耳を撫でた。
男は、茂みを割って出た。狐は、とっさにはだけた小袖の前を合わせる。男は狐に手を伸ばし、腕の中に収めた。柔らかな温もりがある。
狐は美しい獣だった。
狐は物怪でもあり、人を化かすのだという。けれど、男の目には狐は清らに見えた。だからこそ、男は自分が化かされているのかを確かめたくなった。
腕を緩め、みやびな指で狐の顔を持ち上げた。その黒々とした双眸には怯えの色があり、それはすぐにそらされた。その様子が、男の中の嗜虐心を呼び覚ます。
男は乱れた小袖を開き、姫を想って歌を詠んだ唇と、姫を想って文をしたためた指で、狐の柔肌に触れた。
流れる水音と、草木を揺らす風の音。そして、狐の鳴き声が男のそばにあった。
そして、男はぐったりとした狐を抱えると、牛車まで戻った。白張の車副に、狐を託す。
美しい獣を見た従者は、微かに顔を歪めた。けれど、男は平然と、この狐を飼うのだと宣う。
牛車に揺られ、男は物見から従者に負ぶわれた狐を見た。虚ろなその瞳は、決して男を見なかった。
それからというもの、狐は男に囚われた。
殿上人である男が参内する間も、退紅姿の仕丁は主を恐れて狐を見張り続けた。昼間はひっそりと息を殺してうずくまり、夜になれば主の望むままに寝殿にて体を開く。
短夜に、狐は何を思うのやら。
飼われた獣は野にあった時のような神々しさを失い、揺らぐ瞳は常に虚空を見つめるばかりである。
男は尚も、二の姫に恋歌を詠み、届けさせる。男の歌は、本人も知らぬうちに艶を増して行った。
そうしてようやく、御簾越しの対面が果たされる。
御簾から、艶やかな瞿麦の出衣が覗く。女房と共に、檜扇で顔を隠した二の姫の姿が、ぼんやりとそこにあった。焚き染めた香の芳しい匂いがする。
姫と客人である男はいくつかのやり取りをし、男はなんとも言えぬ複雑な心根であった。
美しいと評判の姫を前に、男が想うは狐のこと。姫を讃えながら、あの滑らかな肌と耳に残る鳴き声を想った。姫は、狐よりも美しいだろうか。
ただ、狐はやはり、獣である。人には非ず。
裳着を済ませて間もない姫のことだ。狐と通ずる自分を汚らわしいと思うであろう。
どこぞへ打ち捨ててしまわねばならぬのだと、男は気付く。
けれど、それをひどく惜しいと、まるで指を切り落とすかのように嫌なことだと思う。
夜になり、男は中庭と中島を繋ぐ反橋に立ち、横笛を奏でる。この身の穢れを、その優しき音色が清めてくれるのではないだろうか。その哀調が、物怪に囚われた心を祓って、もとの自分に戻してくれるのではないだろうか。
夜風に運ばれた旋律は、寝殿のうちより唄を誘う。
その唄に、男は身を震わせた。唄うは狐である。人に非ざる獣が唄う。
狐のあの甘やかな鳴き声は、何に焦がれるのか。
野か。山か。
飼われた我が身を嘆き、解き放たれる時を願うのか。
男は唇を放し、横笛をふたつに折った。無残に分かたれた横笛は、池に沈む。
その晩も、その次の晩も、男は狐と過ごした。鳴くことを嫌がるように、牙を立てる。
あの恋しげな唄は、二度と聞けなかった。
男は、幾度この身を清めたところで、その度にまた落ちて行くのだと、おぼろげに思った。
それでも、男は二の姫のもとへ通い続ける。別の愛着を内に秘め――。
これほどまでに心を虜にするのは、狐が物怪であるからか。人である男の精気をかすめるために、心を惑わせるのか。
けれど、燈台に照らされた狐の白い面は、何時も美しかった。神々しさを失っても、時折浮かべる涙が清らに映る。まるで穢れを知らぬように。
狐とは物怪であると、誰が言ったのか。
狐には、白狐なるものが存在するのだという。白狐は物怪ではなく、神仏の使いであるという。
それを聞いた男は、ようやく理解した。
あれは白狐である。だからこそ、清らであったのだと。
神仏の使いであるのなら、放逐するなどもってのほかだ。我がもとへ留めて、大事に大事に致して参ろう、と。
けれど、その日を境に狐は消えた。そして、従者もいなくなった。
あの従者は、狐を物欲しそうな目で見ていた。主のものを盗んだのだ。
素首斬り落としてくれようと、慣れぬ太刀を手に、供と山野に分け入る。
狐を連れた足では、そう遠くへは行けぬだろう。
そうして、男が風薫る夏野に横たわる狐を見付けたのは、その翌日のことだった。
折り重なるように手を絡ませた狐と従者を、紅が染め上げる。神々しくも清らでもない狐は、ただの骸であった。
狐は、これに焦がれて唄ったのであろうか。
宿世のつたなさを後世に託したのであろうか。
男はただ、自らの後世こそは獣であれと願った。
人に非ずんば、狐と共にあれたであろう、と――。
【了】
はい、犯罪です。現代だったら、間違いなく犯罪です。
男の妄執にぞくっとして頂けたらそれで(笑)
この狐は住む場所を追われ、漂泊の末に遊女になるような薄幸の女性です。『狐』と蔑まれた被差別民である彼女ですが、従者にとっては彼女は自分と同じ『人間』でした。主に所有物のごとく扱われる彼女を、従者は憐れんだのでしょう。
タグの悲恋は、従者と狐のことです。男は勘違いさんです。
ちなみに、雅とは働かないことらしいです。働くのは、下賎な者のすることで、遊びほうけることが雅だったと。だから、作中で男の指を「みやび」と称しているのは、労働を知らないということで(笑)
季語とか調べるとどれもきれいで、ついつい欲張って使いたくなってしまい、大量のルビが……(反省)
平安に詳しい方が読まれたら、変なところたくさんあるかも(焦)