浮気する殺人犯
ここ最近、常連と化しているバーで聡は慣れないバーボンの入ったグラスを傾けた。
「で、誰がユダか分かったわけ?」
今夜隣に座るのは玲良ではなく深水だ。深水は今日は非番だったらしく、いつもの背広とは違いラフな服装をしている。とはいえ、若者や聡とは違い、洒落たきちんとした服を選んでいる。
「いえ……。本当に彼らの中にいるのかなと、最近では分からなくなってきました」
聡はバーボンをちびりと口に含んだ。それの独特のアルコール臭いがどうにも苦手だ。
「その可能性はかなり高いと思うぞ」
深水は聡が知らない名のアルコールを飲んでいる。
「根拠は?」
いつになく強く出てしまうのは強い酒のせいか。
「事件の解決が全て不自然だ」
深水の言葉の意味を、聡もよく理解していた。確かに自分の班には優秀な存在は多い。聡自身が犯人に辿り着いたものも多い。でも、と思えてしまう時がある。そこに、犯人という答えに自分は導かれただけではないのか。ユダが自分をそこに導いたのではないか。そう思えてならないこともある。
「それに、あまりに不自然なんだよ」
「何がですか?」
聡はグラスを置いて深水の横顔を見た。同い年とは思えない程の落ち着き。恐らく自分が年相応でないだけなのだが。
「辻木班は全員、水鳴教と何かしら関係がある。確かに、あの宗教はかなりの数の信者がいた。でも、そんなことってあるか?」
出てくる答えは、ない、だ。
「あいつらは皆、志願してお前の班に入ってるんだよ」
深水の言葉に聡は目を見開いた。そんなことは聡自身、全く知らなかったことだ。
「まず、新だけど、あいつは所轄時代にお前と組んだことがある。それは覚えてるな?」
聡は戸惑いながらも頷いた。まだ刑事になりたての美琴のあまりの美人さに息を飲んだ。でも彼女は誰よりも仕事熱心で、刑事という仕事に誇りを持っているように見えた。
「で、いざ入庁が決まった時、お前の元がいいと言ったんだ。当時はまだお前は主任じゃなかったから、同じ班としてだな」
その時のこともよく覚えている。偶然ですね、と言うと美琴は綺麗な笑みを浮かべながら本当に、と返してきたのだ。
「次は笹木。こいつはお前と直接仕事をしたことはない。でも、交番勤務時代に捜査に駆り出され、お前とは面識がある。お前に憧れて刑事になった笹木を引き上げたのはお前だよな」
それもよく覚えている。直向きに仕事をこなす彼は刑事に向いていると思ったのだ。だから、彼が刑事になったと聞いて自分の班に引き入れた。あの時の笹木の輝いた瞳ははっきりと瞼に焼き付いている。
「桜木は、現場で勉強するってなった時に、お前のとこがいいと言ったらしい。お前の叩き上げ振りを耳にして、こんな人と一緒に事件を解決していきたいと思った、ということだ」
初めて桜木に会った時、貴方みたいになりたいです、と言われた。その時の柔和な笑顔にこちらもつい笑みを浮かべた。
「最後は紘奈ちゃん」
深水が紘奈だけ親しい呼び方をするのが少しだけ引っ掛かったが、それを突っ込める程、脳内は整理出来ている状態ではなかった。
「彼女は交通課上がりで、お前とは一切面識はない。でも、お前のことを知っていた。班員に空きがあるなら入りたいと申し出たらしい。理由は同じ高卒の上司の方がやりやすいから、ということだ」
紘奈が挨拶してきた時の顔が浮かぶ。
何処から? 誰が何を偽っているというのだ。聡には何も見当が付かなかった。こんな状況で聞いた話でなければ喜べる内容だが、疑心を抱いた状態では何も喜べない。どの嘘も見抜けない。
「これでも、自分の班にユダはいない、と言えるか?」
深水の言葉に聡は首を横に振った。これはもう、動かぬ証拠なのかも知れない。恐らくユダは初音のことまでも知っている。だから自分のところに来たのだ。この状況を作りやすくする為に。
「……探して欲しいんだと思います」
「え?」
聡の呟きに深水は眉間に皺を寄せた。
「探されたくないなら、僕のところになんて来ません。水鳴教とは一切関係のないところで事件を起こすはずです。こんなふうに勘繰られない為にも」
聡の真っ直ぐな瞳に深水は随分ポジティブだな、と笑った。
「扱いやすいから選ばれたとは思わないのか? 現に、俺と桐嶋が教えるまで気付かなかったろ?」
深水が玲良のことを桐嶋、と呼ぶのに安堵した。どうやらそういった関係にはなっていないようだ。深水のことを信用はしていても安心は出来ていなかったのだ。
「いえ、ユダはここまで想定済みだと思われます。僕のことを調べたなら、玲良さんがその事件を独自に追っていることも知るはずですから」
止めて欲しいのか、それとも単に知って欲しいだけか。理由は分からない。でも、探して欲しいのだと思う。なら、必ず探し出してやる。殺人犯を殺す殺人犯、ユダを。
「ま、頑張れ」
深水はさらりと言い、グラスに残ったアルコールを飲み干した。
「妻が待ってるから帰るよ」
そしてそう言い、店から出ていった。
「私が帰ってくると、主人はここに倒れてました」
撲殺された前原佑也の妻、真希は涙を浮かべながら言った。そこ、とは台所のことだ。聡はマンション特有の狭い台所に目を向けた。そこに倒れていた遺体は既に引き上げられて、あるのは人形を象った白い紐だけだ。血痕も全て拭き取られている。
「凶器は台所にあったお皿、ですね」
「皿なんかで殺せるの?」
紘奈の言葉に疑問を口にしたのは笹木だ。それに反応した紘奈は試してみます? と、一枚の皿を手にしている。笹木はいやいや、と笑いながら返している。少し前、二人の間に気まずい空気を感じたのだがいつの間にかそれはなくなっている。
「押収された凶器はかなり重たいタイプのお皿だったんですね」
聡は凶器に使われたものと同じタイプの皿を手にした。確かにそれは相当重く、これで勢いよく頭部を殴れば殺すことも可能だろう。
「使われたお皿は、何処に置いていたんですか?」
聡は皿を置いてから真希に尋ねた。犯人像は全く掴めていない。知り合いなのか、強盗目的などの赤の他人なのか。いや、十中八九、知り合いの犯行だろう。
前原佑也。その名前はあの掲示板に書き込みしていたうちの一人だ。
残り三人のうち、また一人が殺された。となると、前原と犯人の間には人為的に作られた動機がある。
「これは、夕べ使って、洗い終わっ後そこに置きました」
真希は流し台の横を指差した。
前原は三十六歳。だが真希はどうみても二十代半ばくらいだ。そして、美しい。少し歳が離れているくらい、さして珍しいことではないか。聡はそう考えながら台所を見渡した。
「今朝、知り合いの家に届け物をして、帰ってきたらご主人が亡くなっていたと」
聡の答えに真希は涙を溢してはい、と頷いた。少し話し込んでしまったらしいので、時間にすると十五分程度。人を撲り殺すには十分だ。少し出掛けるだけだし、前原もいたということで施錠はしていなかったらしい。
「最近、ご主人に何か変わられたことは?」
聡が尋ねると真希は首を傾げた。
「特に……なかったと思いますけど」
化粧の施された瞳にもう涙は浮いていない。会社関係の者のほうが分かるだろうか。聡はそんなふうに考えながら今度は部屋を見た。争った後もないし、指紋も夫婦のもの以外出てきていない。外部のものとは思い難い。となると、前原を殺害したのはこの妻である真希ということになるのだろうか。いや、考えを纏めるのはまだ早い。
「変わったことか……」
前原の上司は首を捻った。
「いやぁ、特にないんじゃない。結婚したことくらいかな」
美琴は男の言葉にそうですか、と返した。前原が結婚してまだ半年足らずなのは既に調べがついている。その妻の元には聡達が話を聞きに行っているのだ。
結婚、か。美琴は目の前の男の指に嵌めてある結婚指輪を見ながらそれについて考えてみた。今まで結婚を意識したことはない。それは三谷ともだ。
三谷と付き合い始めた頃、自分はまだ駆け出しの刑事だった。そして、結婚を意識し出す頃に捜査一課に上がった。それも望んでいた聡と同じ班で。結婚というタイミングを逃してきたわけではない。そもそも結婚願望というものがないだけだ。
「では、何か思い出したことがありましたら、こちらにご連絡下さい」
美琴は言いながら署の連絡先が書いてある紙を渡した。男は微笑んだ美琴の美貌にうっとりしている様子だ。美琴と桜木はそれを相手にせず、小さな会社を後にした。
前原が勤めていたのは本当に小さな印刷会社で、従業員は前原を入れて五名だけ。こんな中に殺人を犯すものがいるとは思えない規模だ。
「新さん」
桜木の呼び掛けに美琴は足を止めた。
「彼女にも、話を聞いてみませんか?」
桜木の視線の先にいたのはアルバイトで事務をしている女の子だった。長い髪を後ろで縛った、少々地味な女だ。年の頃は二十代前半くらいだろう。従業員全員に話は聞いたが、アルバイトである彼女は買い出しに出ているということでまだだった。
「そうね」
美琴は彼女をよく見てからそう答えた。
深水が煙を吐き出すのを待ってから、玲良は口を開いた。
「新しいことは分かった?」
玲良の言葉に深水は首を横に振った。
「この間のことは辻木に言ったけど、それ以外は特にないな」
大きめの音で音楽が流れるカフェは周囲の会話を気にしなくて済む。
「そう」
玲良は小さく息を吐いてからアイスティーを飲んだ。氷が溶け始めているせいか味が薄くなっている。
「ここから正念場と読むか、ユダはそんなに簡単に尻尾を掴ませる奴じゃないと踏むか」
出来れば前者だと思いたい。
「ねえ、何で浮気なんてするの?」
玲良は話を変えて、深水の指に光る指輪を見た。自身も嵌めていたことのあるそれの重みはよく知っている。
「浮気? そんなものしてないですよ」
深水は唇の端を持ち上げた。
「じゃ、何故結婚したの? 他に好きな女がいるのに」
嘘ばっかり。玲良はそう思いながらも質問を変えた。
「他に好きな女、ですか。そんな甘いもんじゃないですけど?」
いちいち勘に触る言い方をする男だ。
「結婚に意味なんてない。お互いの状況や利害が一致すればするものですよ。違いましたか?」
玲良は違うわ、と首を横に振った。少なくとも自分は違った。
「いや、純粋に愛情だけで結婚するほうが珍しいんです」
深水はその後は続けずに新しい煙草に火を点けた。結局、自分の話ははぐらかされただけだ。玲良は溜め息を吐いてから味の薄くなったアイスティーを口に含んだ。こんな男の妻や好かれる相手になるのは相当大変だろう。
「うわー……最低ですね」
紘奈は携帯電話の画面を見ながら嫌そうな声を出した。前原の携帯電話に残されていたのは沢山のメールのやり取りだった。それも一人の女との。
「何で、浮気とかするんですかね? しかも、まだ結婚して半年なんですよね?」
紘奈にはどうにも考えられないことだった。結婚していようかしていなかろうが、浮気という行為自体が許せない。
「凄い数のやり取り、ですね」
聡の言葉に紘奈は頷いた。
一日に二十件のやり取り。その内容の殆どは他愛のないものだが、二人が男女の関係にあることは窺える。
「何で浮気なんてするんですかね?」
「まあ、それは男として仕方無いと諦めないと結婚なんて出来ないと思うけど」
紘奈の疑問に答えのは笹木だった。紘奈はその返しに眉をしかめ、隣に立つ笹木を軽く睨んだ。
「え? それって、笹木さんも浮気するってことですか?」
聡はメールの内容より背後で繰り広げられる会話のほうが気になっているようで、顔を向けてきた。
「は? 一般論でしょ? 何で俺が浮気する前提になってんの?」
笹木が慌てて言う場合、近くに美琴がいる可能性が高い。そう思って辺りを見てみたが美琴が戻ってきている様子はなかった。
「だって、今の言い方だと自分を含めて、て感じでしたもん」
あの夜、笹木にあの言葉を言われてから確かに気まずかった。でも、あの言葉に救われたのも事実だ。そして笹木が無理に笑う原因を探りたいとも思った。だからこそ態度を戻したのだ。その中にはこれ以上彼に心配をかけたくないというのもあった。
「いや、どう聞いても違うでしょ」
そのやり取りに聡が突然笑い出した。紘奈はそれで今が、事件解決について大事な話をしている最中だというのを思い出した。
「すみません」
紘奈は慌てて聡に詫びた。隣では笹木も同じように頭を下げている。
「ああ、いいですよ。続けて下さい」
そう言われてしまうと、途端に恥ずかしくなり、紘奈はいえ、もう結構です、と小さな声で言った。だが聡はまだ少し笑いを鎮められずにいるようだ。
中谷真理子は俯いたまま、口を開いた。
「あの……私はただのバイトなんで」
それは耳を澄ませなければ聞き取れない程に小さな声だ。
「だから……その、何も……」
「すみません、もう少し大きな声でお話して頂いていいですか?」
美琴は少々の苛立ちを感じて真理子に言った。こうして自分に自信がないような女は好きではない。それは自分が美人で頭がいいから、というわけではない。目の前に座る真理子だって、決して不細工ではない。むしろ顔立ち自体は整っている。なのに自分は綺麗じゃないから、自分は頭がよくないから。全身でそう語り、美琴のような女を目の前にすると更にそれを増す。女なんてものは背筋を張って真っ直ぐ前を見ていればそれだけで美しく見えるものなのだ。
「新さん」
真理子の小さな返事は桜木の声でかき消された。
「ちょっと、いいですか」
桜木の言葉に美琴は頷き、真理子の前から離れた。真理子はまだ俯いて、自分の手元に視線を落としている。
「辻木さんからメールなんですが、あの中谷真理子が被害者と不倫関係にあった可能性が高いそうです。だから、よく話を聞いてくれと」
美琴は桜木の話を聞いてから真理子に視線を向けた。まだ俯いた姿勢は変わらない。自分に自信がないくせに、人の男には平気で手を出せる。この女は自分には全くもって理解出来ないタイプに違いない。
美琴は桜木に分かったわ、と告げて真理子の前に戻った。真理子は美琴が戻ってくるのを視界の隅に捉えたのか、少しだけ顔を上げた。
「貴女、前原さんの愛人だったそうですね?」
美琴の言葉に真理子はようやく顔を上げた。
「愛人だなんて……そんな。たまに食事に誘われていたくらいです」
前原の方がちょっかいを出してきた。だから私は悪くない。美琴にはそう言っているようにしか聞こえなかった。
「では、体の関係はないと?」
美琴が質問すると、真理子は視線を泳がせた。大人しそうな顔してやるわね。美琴は真理子の化粧っけのない顔を見ながら心の中で呟いた。
「それは、何度かだけ、ありました」
真理子は消え入りそうな声で答えた。
「いつ頃からですか?」
「前原さんが結婚されて、直ぐくらいからです」
前原も真理子も最低だ。美琴は前原の妻に同情しながら真理子を見た。
「前原さん、奥さんのことは愛してないって。仕方無く結婚しただけだって……」
不倫をするような男の常套句だ。それを使う男も馬鹿だし、それに騙される女も馬鹿だ。
「お話は分かりました。それで、貴女は前原さんを恨んでいましたか?」
こんな聞き方は本来ご法度だ。でもつい口をついて出てしまった。あまりの阿呆らしさに思考が正常に機能していない証拠だ。隣で桜木が少し慌てたように新さん、と声を出した。
「え……あの、そんなことは、ないです。私、別に前原さんを好きとかじゃなかったんで」
美琴はそれに思わず驚いた。好きでもないのに、奥さんがいる人と関係を持つ。その考えが美琴には理解出来なかった。
「中谷真理子、被害者と不倫関係にあったこと認めましたよ」
ビールの入ったジョッキを置く美琴が不機嫌なことに聡は直ぐに気付いた。
「でも、好きじゃないだ、なんだって言ってましたけど」
要するに、不倫というのが許せなくて機嫌が悪いというところか。聡はそんな光景に微笑みながらもその内心を探ろうとした。
深水の話を聞く限り、ユダは確実にこの中にいる。今回の事件も自身で引き金を引いておきながら、何喰わぬ顔で捜査をしているのだ。
「え、そんなことってあるんですかね?」
口を開いたのは紘奈だ。珍しく髪を束ねている姿は普段より大人っぽく見える。
「どういうこと?」
美琴は身を乗り出して紘奈に訊いた。聡は口を開く者がいる度に、その者の顔を見た。探して欲しいと望んでいるなら、必ず探し出してみせる。
「だってあのメールのやり取り、普通のカップルみたいでしたよ。好きじゃないとかだったら、そもそも寝るだけの関係で、あんなにメールとかしないんじゃないですかね?」
言われてみればそうかもしれない。幾ら探ろうと心に決めても、聡の気持ちは直ぐに目の前の事件に持っていかれてしまう。早く見付け出さなければ他の犠牲者が出てしまうというのに。
「そんなに多かったの?」
美琴の言葉に紘奈は頷いてから、ね、笹木さん、と言った。
「確かに、体の関係だけのようには見えませんでした」
寝るだけの関係とか体の関係だけとかいう言葉は目の前の彼らにはあまりに似合わず、聡は笑いそうになってしまった。
「何か可笑しいですか?」
隣に座る桜木が聡の顔を覗き込んだ。
「いや、皆さん、純粋なんだろうなと思って」
こんなふうに疑うことがなければどれだけいいことか。この期に及んでまだそんなふうに思う自分は甘いのか。
「そんなことないですよ。笹木さん、浮気肯定派ですから」
聡の声が耳に入ったらしい紘奈がすかさず言った。
「ねぇ、何でそういうこと言うの?」
それに素早く文句を言う笹木。
「え、何? 笹木君てそうなの? 最低……」
美琴が思い切り眉をしかめて笹木を睨む。
「ちょ……、だから違いますって」
そんな三人のやり取りを見て桜木と二人で笑う。いつもと変わりのない光景の中でも、腹の中ではほくそ笑んでいるのだろうか。この場さえも、ユダは利用しているのだろうか。聡はそう考えると心から笑うことは出来なかった。
笹木はキーボードを叩きながら煙草をくわえた。一人になった時しか煙草を吸うことは出来ない。聡は煙草の臭いが苦手だし、何より自分がそんな人間だとは思っていないだろう。
「調べもの、ですか?」
笹木はその声に振り返った。
「ああ、桜木さん」
煙草を口から外し、唇の端を持ち上げる。桜木はそれに少し驚いたような表情をして、笹木に近付いてきた。
「煙草……吸われるんですね?」
桜木の問いに笹木はまあ、と頷いてまた煙草をくわえた。
「聡さんには内緒にして下さいね。気を遣わせてしまうんで」
笹木が言うと、桜木は分かりました、と返事をした。
「何を……調べてるんですか?」
笹木は白い煙をたっぷり吐き出してから、桜木の顔を見た。
「面白いこと、ですよ」
そして再び唇の端を持ち上げた。本来禁煙のはずの部屋には煙草の臭いが広がっていく。
真希は真っ直ぐに背筋を伸ばして聡を見た。ただでさえ美人なのに、そうすると更に美人に見える。
「夫の浮気は知っていました。あの人、誰も本気で愛せないって言ってたので」
真希は年齢のわりに落ち着いた喋り方をする。
「どういうことですか?」
「夫は、十二年前に婚約者を亡くています。その人以外は愛せない、それでもいいなら、と私と付き合いました。私は彼が側にいるならそれでよかった。誰と浮気しようが、条件は私と一緒ですから」
十二年前に亡くなった婚約者というのは、恐らく水鳴教と何らかの関わりがあったのだろう。聡はそのことを考えながら背筋を伸ばしたままの真希を見た。これ程美しければ、他に男は幾らでもいるだろう。そこまでして前原がよかったということか。
「何回浮気しても、帰ってくる場所はここだと思ってました。私は、あの人の誰も愛せないという言葉を信じていました」
真希の話の内容が徐々に変わっていくのを感じて、聡は笹木に目配せをした。すると笹木は小さく頷き、顔付きを真剣なものに変えた。
「でも……あのメールを見てしまったんです」
真希はそう言ってから息を吐いた。許せない、とは違う表情だ。
「夫は、あの女のことを愛していたのだと思いました。でなければ、あんなに頻繁にメールをしたりしますか?」
真希は真っ直ぐに聡を見てきた。こんなふうに質問をされることは初めてだ。取り調べ、というわけではないが、この手の質問には肯定も否定も出来ない。聡は曖昧に首を傾げるだけにしておいた。
「それは凄くショックでした。あんなことを言っておきながら、他に好きな女を作るなんて」
続く言葉は分かっているが、待つしかない。それを促してしまえば、誘導尋問だとか自白の強要だとか後から言われ兼ねないからだ。
「だから、問いただそうと思いました。でも、そうしようと思った瞬間、急に惨めな気がしてきたんです」
真希はまだ背筋を伸ばしている。癖なのか、精一杯の強がりの顕れなのか。
「そう思ったら、つい手が出ました。私が、夫を殺したんです」
真希は覚悟を決めたような表情で言った後、咄嗟に嘘を吐いたが、隠し通せるとは思っていなかった、と付け加えた。聡は真希の話を最後まで聞いてから、白く細い手首に手錠を嵌めた。
この逮捕も、全て仕組まれて、導かれたことなのだろうか。そう考えると、胸の奥が熱くなり、そして冷えた。この感覚は怒りとも絶望とも違う。そしてこの感覚の名前を聡は知らなかった。
「中谷真理子はメールなんてしていない、そう言っているそうです」
紘奈の報告に聡は心の中で溜め息を吐いた。
また、か。何かしら腑に落ちないものを残して終わる事件。掴めそうにもなっていない真実に辿り着くことなど出来るのだろうか。
「……何が起きてるんですか?」
紘奈の質問に聡は目を見開いたが、紘奈は直ぐに失礼します、と言ってその場を去っていった。
「今回もお疲れ様」
玲良の微笑みに聡は曖昧に笑った。お疲れ様と言えるのかどうか。確かに犯人を逮捕することは出来たが、でもそれで全てが解決したわけではない。結局、ユダの思うがままに動かされただけなのだ。
「あと二人……か」
聡は紙に印刷された二つの名前を見た。この二人を保護するのはやはり不可能だ。それにユダは既に動いていて、彼らの死は決定しているに違いないのだ。でもどうにかしたいと思えてならない。
脳裏に浮かぶのは彼ら四人の顔だ。その中にユダがいる。そのことについてはもう諦めに似た感情を抱いている。でも、そのユダの思惑通りに事が運んでいるのが許せなかった。
「……疲れてるみたいね」
玲良は優しい声を出して言った。
「ううん、大丈夫」
聡は笑顔を作り答えた。いつの間にか常連になっているバーには優雅な曲が流れている。カウンター席には自分と玲良しかおらず、これで経営は大丈夫なのかと思ってしまうが、少し奥の席にはそれなりに客がいた。
「……目星は付いたの?」
玲良の問いに聡は首を横に振った。誰がユダなのか、全く見当は付いていない。あくまでも自分の部下だという先入観が邪魔をしているのか、それともユダがそれほどまでに狡猾な人物なのか。怪しいと思い出せばきりはないし、反対に怪しくないと思えば全員が白に見えてくる。
聡は大きな溜め息を吐いた。誰が偽りの人物を演じているのか。過去だけを並べ立てれば全員に水嶋隆を殺す動機は存在する。それにこれらの事件に深く関わることも可能だ。
聡の中では全員が同じ位置に並んでいた。アルコールを口にする気にはなれず、注文したドイツのビールは一口も減っていない。炭酸が小さく弾けるのをただ眺めた。
「聡君」
玲良の呼び掛けに聡はグラスから視線を外した。
「部下の子が来てる」
玲良が小声で聡に言った。
桜木はどう頑張っても開かないファイルに苛立ちを覚えた。笹木のパソコンのロックを外すのは簡単だった。だが『水鳴教』と記されたファイルを開くことが出来ない。
恐らく、ここに全てが入っているのだろう。なのにファイルは特別なロックが掛かっているのかどうやっても開くことは出来なかった。彼が何やら影で動いていたことは知っている。だからその証拠を掴みたかったのだ。
でもそのファイルを開くことは出来ない。どうするべきか。桜木はパソコンの前で思巡した。それでも解決策は浮かばず、取り敢えず諦めた。ここでこんなことをしているほうがリスキーだ。桜木は自分にそう言い聞かせ、帰り仕度をした。
「こんばんは」
バーに姿を現したのは笹木だった。グレーの背広に黒のワイシャツ、そしてノーネクタイ。言われなければ誰も彼が刑事だとは思わないかもしれない。
「お久し振りです」
笹木は玲良に向かって軽く頭を下げた。その表情はいつもの笹木とは違ってみえ、聡の中に緊張が走った。口許は笑っているが、目が笑っていない。そんなふうに見えたのだ。
「……よく、此処には来られるんですか?」
聡は緊張を隠しながらゆっくりと言葉を出した。すると笹木はその笑顔のまま、首を横に振った。
「いえ、初めて来ました」
普段より低い声は彼の滑舌の悪さを目立たせる。いつもと雰囲気が違う理由がセットされていない前髪のせいだと気付くにはかなりの時間がいた。夕方、警視庁で別れた時は確かにセットされていたので、一度自宅に戻ったのだろうか。
「隣、いいですか?」
笹木が言うので聡は無言で頷いた。断る理由は何もない。笹木は失礼します、と前置きしてから聡の横のスツールに腰を下ろした。バーのライトでは笹木の肌の色の白さが増して見える。
「どうして此処に?」
聡が訊くと笹木はゆっくりと聡と視線を合わせた。その口許にはもう笑みは浮かんでいない。
「主任にお話がありまして」
一番最初に主任と呼ぶのはやめてくれと言った相手は笹木だった。なのにそんな笹木が自分を「主任」と呼ぶ。そこにある真意は一体何なのだろう。
「話……ですか?」
隣で玲良が息を飲むのが分かった。
「これから自分が話すことは、一人の辻木聡として聞いてもらっても、辻木班の主任として聞いてもらっても、どちらでも構いません。ただ、聞いて頂きたいんです」
笹木の真剣な眼差しに聡は思わず頷いていた。どちらとして聞くかなんて心積もりは出来てはいない。ただ聞かなければならない、そう思ったのだ。聡が頷くのを見て、笹木は普段とは全く違う表情で話を始めた。