ストーカーする殺人犯
聡は並べられた事柄をいまいち信じることが出来なかった。
殺された人間に共通点があるなど、到底信じられることではない。偶然であって欲しい。そう願わずにはいられない。偶然でなければ、もっと信じ難いことになるのだ。
「どうしました?」
桜木の声に聡は慌てて資料を隠し、顔を上げた。
「いえ、何でもありません」
聡はどうにか笑顔を作り、首を横に振った。これは他の人間に漏らせることではない。
「皆さん、お待ちかねですよ」
桜木はそう言って、廊下を指差した。そうだ、これから班で飲みに行く約束をしていたのだ。
「直ぐに準備します」
聡はデスクの上を片付けた。今はこのことを考えるのを止めよう。決定的な何かがあるわけではない。考えるべきことは、目の前に起きる事件のことなのだ。
目の前では紘奈が浮かない顔をしながらカクテルを飲んでいる。笹木はそれにちらりと視線を向けてから溜め息を吐いた。
余計なことを言ってしまったか。
――――無理して笑うと、逆に引き戻せなくなる。
自身の経験から出たまでの言葉だったのだが、それ以来紘奈の態度が何処かよそよそしく思えてならない。今までは朝、笹木を見るだけで笑顔を浮かべたのに、最近はおはようございます、と小さく挨拶をするだけだ。
言わなきゃよかったな。笹木は思いながらビールを口に含んだ。余計なことは言わなくていい。幼い頃にいたところで何度も言われ続けた言葉だ。でも、放っておけないと思ってしまったのだ。無理して笑う紘奈の顔が何かを抱え込んでいるように思えたから。
「何かありました?」
笹木は聡の声に顔を上げた。
この人は抜けているように見えても鋭い。だからこそ、こうして捜査一課の主任という立場まで昇れたのだろう。同じ高卒での刑事だが、自分にはとてもではないが無理だ。
「いえ、何もないです」
笹木は無理に笑顔を作った。無理して笑っているのはやはり自分のほうだ。いつになったら、心から笑える日が訪れるのだろう。
捜査会議の終わった部屋は騒がしい。外にはマスコミがで張っているので尚のことだ。
「外、出にくいわね」
美琴が窓の外を眺めながら言うので、聡もそれに同意した。
ストーカー殺人。これが今回起きた殺人事件のネーミングだ。
「此処に籠っているわけにもいきませんから、行きましょう」
聡は言いながら、仲間たちの顔を見た。
先程の会議ではマスコミ対策の話まで出たが、それを実践出来る気は全くと言っていいほどにしていない。
「殺害された横田麗香さんは、この署にストーカー被害を何度も訴えていたそうですね」
所轄の入り口でいきなりマスコミの質問を受け、聡は眉を下げた。確かにそれは由々しきことだし、こういった事件はここ近年多い。聡は軽く頭を下げるだけでマスコミの攻撃を潜り抜けた。こうしたことにきちんと対応するのは上の人間の役割であり、自分達は一刻も早く犯人を探し出すべきなのだ。何処かに潜んでいるのか、それとも昨日と何ら変わりのない日常生活を送っているのか。
麗香の部屋には無数の手紙が届けられていた。どれも真っ白の封筒で、中身は「愛してる」と書かれた便箋一枚のみ。全て鑑識が確認したが、麗香以外の指紋は出てきていないとのことだった。
紘奈は眉をひそめて、白い手袋をした手で手紙を見た。こんな一方的な愛情、あっていいものか。部屋の惨状を見るなり、以前紗江子から聞いた話を思い出したのだ。
麗香は自室で首を絞められて殺されていた。激しく抵抗したのか部屋はかなり荒れていて、麗香がストーカー行為を受けていた証拠を探すだけでも一苦労だ。直ぐ近くでは笹木が机の引出しの中を見ている。
笹木とはあれから何となく気まずい。心の奥底を見破られ感覚は裸を見られた時とよく似ている。恥ずかしいし、何処か許せない。そういった想いが頭の中を巡るのだ。
「何かあった?」
当の笹木はそれをさして気にしてはいないのか、いつもと変わらずに接してくる。ここでぎこちない態度をするのは、あの言葉を肯定するようなものなのだが、どうも態度に出てしまう。
「封筒……くらいしか」
紘奈は大量に出てきた封筒を笹木に見せた。勿論、こんなことは既に知っていることだろう。
「署に出してた訴えでは、手紙に、無言電話、それにごみが漁られてた、か」
笹木の言葉に紘奈は頷いた。確かにそれだけでは警察は何の対処もしないだろう。ストーカーが被害者に接触を働かない限り、警察は何も出来ない。でも、こうした攻撃は麗香の精神を蝕んでいったに違いない。
一人暮らしで、毎日届く手紙に、無言電話。警察に助けを求めるも取り扱ってもらえない。
「もう少し何か探してみよう」
紘奈は笹木から目を逸らして頷いた。
「麗香さん、社員からの人気、高かったですよ」
そう答えたのは受付嬢の三島可南子だった。殺された麗香も同じ受付嬢をしていたらしい。
「特別美人、てわけじゃないけど、感じもいいし、誰とでも打ち解けて話せるタイプでしたから。
勘違いしちゃう人も結構多かったみたいで」
「勘違い?」
聡はメモを取る手を止めた。隣では桜木がメモを取り続けている。
「はい。麗香さん、男の人と目が合うと必ずにこってするから、自分に気があるって思ってる人、多かったんですよ」
確かに男とはそういった単純な生き物だ。
「そうですか」
聡は可南子の話に相槌を打った。
「だから、こういっちゃあれなんですけど、ストーカーされてるって話聞いた時、仕方無いんじゃないかなって思ったんですよね」
「ストーカーされてるってお話、いつ頃聞きましたか?」
聡の質問に可南子は少しだけ考える素振りを見せた。
「うーん、今年の頭くらいだったかな? 最初は無言電話がかかってくるって。
あ、そういえば、その前くらいに知らない番号から電話があるって言ってました」
麗香が警察に被害を訴え始めたのは三月頃だ。暫くは耐えていたが限界がきて、警察に相談したのだろう。
「知らない番号、ですか?」
無言電話は全て非通知からかかってきていて、どれも全て固定電話からだというのは調べがついている。
「はい。何か、あまりにしつこいから出たら、いい加減にしろ、て怒鳴られたって」
「それは、男性と女性、どちらか分かりますか?」
可南子は男性です、と答えた。ストーカー被害に遭う前に知らない番号から電話があった。これはこの事件と何か関係があるのだろうか。
「因みに、勘違いしていた男性社員、何人かでいいので分かりますかね」
無言電話を掛けていた番号はここの会社のものなのだ。
「えーと……、本当に何人かだけなんですけど、いいですか?」
可南子は一度瞬きをしてからそう言った。
「はい。教えて頂けるだけで十分ですので」
聡がにっこり笑うと、可南子はじゃあ、と言って手元にあるメモに数名の名前を書き出した。そこには三つの名前が可愛らしい文字で並んでいる。
「捜査中、じゃないの?」
三谷の言葉に美琴は小さく頷いた。確かにそうだ。だが、こうして隙を見て来なければ事件解決まで来れなくなってしまう。
「話す気になってくれた?」
美琴の問いに三谷は静かに首を振った。
「聞いても、何の役にも立たないよ」
声だけは誠実そうな響きを含んだままだ。何処で彼の道は大きく歪んでしまったのだろうか。人なんて、結局そんなものなのかもしれない。いつ、何処で道が別れてしまうかなんて、自分にも分からないものなのかもしれない。
美琴は小さく息を吐いた。今日はこれ以上いても時間の無駄かもしれない。
「それを聞いたところで、美琴に何が出来る?」
立ち上がろうとしたその時、三谷が静かな口調で言った。
「それを知ったとしても、あの子は帰ってこない。真実が分かったところで、何も変わりはしないし、救われもしないんだよ。真実を知りたいなんて、美琴の自己満足に過ぎない」
三谷の言葉は心臓を深く抉るようなものだった。確かにその通りだ。今更それを確かなものにしたところで、変わることなんて何もないのだ。
「……また、来るわ」
美琴は返す言葉をなくし、立ち上がった。
「中島卓也、瀬川典人、松田慶太」
聡と桜木はその名前と会社から借りた社員名簿とを照らし合わせた。それは顔写真付のもので、その三人は特にこれといった特徴のない顔をしている。可南子が彼らを覚えていたのは、その三人は頻繁に麗香に話し掛けてきていたからだということだ。飲みに誘ったり、ドライブに誘ったり。だが麗香はそのどれもを断っていたらしい。
そこからストーカー行為に発展したのか。聡はそう考えて首を捻った。直に誘ったり出来るものがストーカー行為などするだろうか。だが取り敢えず、三人から話を聞く必要はあるだろう。
一人目の中島卓也は、確かに麗香に気はあったが、相手にされなかったので諦めた、と語った。今は同じ部署の女性と交際を始めたばかりらしい。
二人目の瀬川典人も麗香に態度に勘違いをしていたことは認めた。でも、やはり相手にされなかったので諦めたらしい。
三人目の松田慶太はまだ諦めてはいなかったが、ストーカー行為などしていない、と必死に訴えてきた。聡は全員の話を聞き終えてから、更に首を捻った。
「嘘を吐いているような感じはしないですね」
桜木の言葉に頷きながら、社員名簿に目を落とした。何百人といる社員全員に話を聞くわけにもいかない。だからこそ絞り込んだのだが、これはどうにも絞り込み過ぎたようだ。
「他に、横田麗香と接点のある社員をさがしてみますか?」
聡は桜木の言葉にそうですね、と言い、社員名簿を閉じた。
「麗香ちゃん、十年ちょっと前にお姉さんが亡くなっちゃって、それから派手な遊びをするようになったのよね」
麗香の実家の近所に住む中年の女はそう言った。
「派手な遊び、ですか」
紘奈はこの聴き込みが意味のあるものに思えず、簡単にメモを取った。過去のことを調べだって、今のストーカーには繋がらない。
「そうなの。変な男と一緒に歩いてたりもしたわ。ああ、でも、一回だけ真面目そうな人と歩いてて、戻ったのかしらとも思ったんだけどね。その後直ぐくらいかしら、今のとこに就職して、ご両親も安心してたわ」
笹木が隣でそうですか、と相槌を打っている。笹木も自分の考えと同様らしく大したメモは取っていない。
一人暮らしの女性の近辺に何が起きても周りは知らないものなのだ。
「ストーカーに繋がる情報はありませんでしたね」
紘奈は梅雨の中休みといえる青空を見上げながら呟いた。身内の死は確実に人に影響を与えるもの。それを身をもってして知っているから、麗香の過去の話には何も思わなかった。そしてきっかけがあればそこから歩き出すことが出来るのも知っている。その目的を見付け、自分は刑事になる道を選んだのだ。
「アパートの周りにももう少し話をきいてみよう。不審人物がいなかったかどうか」
紘奈は笹木の言葉にはい、と答えた。
深水が吐き出す煙草の煙より、手元の資料の方が気になった。今日の服は先月、銀座の店で購入したスーツだがそれに煙草の匂いがついてしまうことなど玲良の頭には微塵も浮かばなかった。
「これ……聡君は知らないわよね?」
玲良は震える手を何とか押さえた。
「知らないはずですよ」
深水は短くなった煙草を灰皿に押し付けながら答えた。こんな偶然が重なるわけがない。
「それと、頻繁に書き込みをして、最終的に残っていたのはこの十一人でした」
玲良はその紙に目を落とした。そのうちの半数は既に死んでいる。そして……。
「この名前って」
玲良は顔を上げて深水を見た。にやけているのか、苦笑いなのか判断のつかない表情だ。
「そう。今朝早く遺体で発見された横田麗香さん」
もう、これは偶然などではないだろう。玲良は一気に血圧が下がっていくような気がした。
「ユダ、て人物が怪しいと思います。でも、身元は特定出来ませんでした」
玲良はそれに頷きながら、小さく返事をした。自分も深水と同じ考えだ。
「残りの人達は……」
「こんな憶測じゃ何もしてくれませんよ。それに、どうなんですか? このまま、続いてもいいと、何処かで思ったりしないんですか?」
この男に過去を話したのはやはり失敗だったかもしれない。玲良は心の中で溜め息を吐いた。誰がそんなことを望むものか。人が殺されていくのを望む人間などいるものか。例えそれが、制裁の代わりになるとしても。
「星川です」
星川公起は軽く頭を下げた。聡もそれに倣い、頭を下げる。星川は麗香のことをよく見ていた、と受付嬢の可南子が思い出したのだ。
「お座り下さい」
聡が言うと、星川は失礼しますと言って腰を下ろした。一重瞼だが悪い顔立ちではない。だから可南子も覚えていたのだろう。
「星川さんは横田さんと個人的に親しかったりしましたか?」
聡の質問に星川は首を横に振った。
「いえ、話したこともありません」
嘘を吐いている様子はない。桜木も星川のことを凝視している。
「貴方の携帯電話から、何度か横田さんに電話を掛けているみたいなんですが」
可南子が言っていた、知らない男からの電話というのは星川のものなのだろう。
「あ、それは……」
星川はそこで口ごもった。でも、何かが腑に落ちない。聡は指輪を叩きながら、星川の次の言葉を待った。
「それは?」
続きを促したのは桜木だ。
「あの……」
星川がなかなか答えないその時、聡の携帯電話が着信を告げた。
「ちょっとすみません」
断ってから表示を見ると、そこには浅川紗江子、と出ていた。
「はい」
聡は与えられた部屋を出てから、電話に出た。
『ああ、浅川だけど』
紗江子は聡より年下だが階級は一緒なので、彼女が聡に敬語を使うことはなかった。
『ちょっといい?』
「ええ」
聡が返事をすると紗江子は一拍置いてから口を開いた。
『これ、ストーカーに見せ掛けてるだけだと思うの』
紗江子の言葉に、聡の頭の中で捩れていた糸がほどけた。
そうだ。脳の中にこびりつていた違和感はそれだ。
『本当にストーカーなら、絞殺なんてしない。あたしの友達はめった刺しにされたの』
紗江子の友人がストーカーに殺されたなどという話は初耳だったが、今はそれについて詳しく聞いている場合ではない。
『それに、接触した形跡もないでしょ? ストーカー行為はまだ初期の段階。それで殺すなんてことは、まずないと思う』
紗江子の判断は正しいだろう。ストーカーが麗香に接触行為を働いていないから、警察も何も出来なかったのだ。
『ストーカー行為は、狂言の可能性が高い』
聡はその話を聞きながら、左耳についたピアスに触れた。知らない男からの電話。ストーカーの振り。いい加減にしろ、という科白。よく麗香を見ていた。
「ありがとうございます」
聡は紗江子に礼を言ってから電話を切った。これはまだ憶測に過ぎないが、十中八九当りだろう。
「お待たせしました」
聡は携帯電話をジーンズのポケットにしまってから会社に与えられた部屋に戻った。そこでは星川が俯いている。
「星川さん」
聡が声を掛けると星川は慌てたように顔を上げた。その瞳には狼狽の様子が見てとれる。
「ストーカー行為を受けていたのは、貴方ですね?」
聡はゆっくりとした口調で星川に語りかけた。
「……最初は、何度も手紙が届きました。横田さんの名前で。俺の行動が全て書き出してあって、本当に気味が悪かったです」
取調室で星川はぽつりと語った。
「同じ会社の受付嬢なんで、直接は言えなくて放っておきました。でも、どんどんエスカレートしていって」
星川は手が震えるのか固く握り締めている。聡は何も口を挟まずに星川の話を聞いていった。
「だから、彼女の電話番号を知っている同僚に教えてもらって電話しました。いい加減にしろ、て。でも、彼女はあんた誰? て、しらを切ったんです」
おかしい、という思いが脳を過る。ここのところずっと、このパターンが多い気がする。問い詰めたところ、しらを切られる。所詮、人間なんて嘘を吐く生き物ではあるが、こんなに多いだろうか。
「だったら、同じ思いをさせれば分かると思ったんです。同じように、ストーカーに遭えば、俺の気持ちが分かると思って。懲らしめてやるだけのつもりでした」
現に麗香は精神的にも参っていたようだし、警察にも訴え出ている。
「でも、彼女は俺へのストーカー行為をやめませんでした。ついに、勝手に部屋に入って食事まで作っていて……」
星川は苦しそうな声を出した。相当悩まされていたのだろう。だから、殺してしまったのか。
「……それで、あの女がいなくなれば苦しみは消えると思いました」
やはり、か。聡は星川に見えないように溜め息を吐いた。
「麗香さんのお姉さん、信者だったんですか?」
紘奈は眉をしかめて言った。
「そうそう。しかもかなり熱心な。うちにも何度も勧誘に来たのよ」
先程の中年の女は再び現れた紘奈に、またぺらぺらと話し始めた。
「悪い子じゃなかったんだけど、そういうのに誘われるとちょっとねぇ。何て言うか、あまりよくは思えないわよね」
紘奈はそうなんですか、と相槌を打った。
「ありがとうございました」
そう答えると同時に、携帯電話が鳴った。着信かと思ったがそれはメールの受信で、桜木からのものだった。
犯人確保しました。
桜木からのメールはそれだけで、紘奈は女にもう一度礼を言って署へと向かった。
「これも、ストーカーじゃないと思う」
紗江子の言葉に聡は目を見張った。星川の逮捕を確認してから、星川の部屋を捜索したのだ。そこには彼がストーカーを受けていたと思える証がたっぷりと残されていた。
「だって、指紋がないって不自然じゃない? これじゃまるで、犯罪だって意識してるみたいじゃない」
星川の部屋からは彼の指紋以外は全く検出されなかったのだ。言われてみたらその通りかもしれない。ストーカーは自分の行いを犯罪だとは思っていない。むしろ、正しい行為とさえ思っているだろう。
「それに、直接姿を見せたことはないんでしょう?」
紗江子の質問に聡は無言で頷いた。
「ストーカーは、自分の存在を主張したい場合が多い。でも、横田麗香は知らないって言い張ったんでしょう?」
ということは、一体どういうことなのか。
「横田さんは、星川さんにストーカー行為などしていなかったということですか?」
聡の言葉に紗江子は曖昧に頷いてみせた。
「多分…だけどね」
事件の後に必ず残されるこれは一体何なのだろう。何故、すっぱりと終わらないのか。聡は首を捻った。何処で、何が絡まっているのか。
「ねえ、何に巻き込まれてるの?」
紗江子が真っ直ぐに聡を見てきた。
巻き込まれている。それには気付かなかった。
「……それは、僕にも分かりません」
聡は苦笑しながら答えた。心当たりは何もない。
玲良は深水に渡された紙を眺めながら、このことを聡に言うべきか迷った。本来なら言うべきなのだろう。でも、と躊躇ってしまう。このことを聡に告げたら彼はどんな衝撃を受けるだろう。それを考えるとどうしても迷ってしまうのだ。それに、本当に関係しているかはまだ分からない。……いや、関係していないことはないだろう。だからこそ、こうして躊躇っているのではないか。
「どうしたの?」
玲良はその声に顔を上げた。そこにはにこやかに笑う聡の姿があった。
「……何で?」
「いや、電話したんだけど出ないから、もしかしたら此処にいると思って」
昔からそうだった。聡はいつも、こうして悩んでいる時に必ず姿を見せてくれた。だから惚れたのだ。こうして、側に寄り添ってくれたから。
あの時もそうだった。
「まだ、初音ちゃんのこと、追ってるの?」
聡の言葉に玲良は頷いた。
「だって、許せないのよ」
――――玲ちゃん。
そう呼ぶ彼女の声が耳から離れない。自分のせいで彼女はあんなことになってしまったのだ。自分が、彼女から恋人を奪ったりしたから。隣で優しく微笑む聡の顔に泣きたい想いが溢れだした。結局別れることになるなら、初音から恋人を――――聡を奪うなんてことをしなければよかった。
牧野初音は、聡の高校時代からの恋人だった。大きな瞳が印象的で小柄な彼女は聡とお似合いで、クラス全員が認めるカップルだったのだ。
玲良は初音の幼馴染みで、彼女のような女の子らしい可愛さなど持ち合わせていなかった。聡は、恋人の友人だということからか、それとも元々の優しさ溢れる性格からか、玲良にも気兼ねなく接してきた。キャスターになりたいという夢を応援してくれたのも初音と聡だった。
聡は刑事である初音の父親に憧れて、その道を選んだ。受験に悩んでいる時、大学とバイトでの生活に疲れている時、傍らにはいつも初音と聡がいた。初音に特に優しい聡をずっと見てきた。好きになるなというほうが無理だった。
何度と諦めるよう自分に言い聞かせた。それでも、諦められなかった。だから、初音に告げてしまったのだ。
聡を好きだと告げた時、初音はにっこりと笑った。大学卒業を控えた時で、来年には初音と聡が結婚すると知ってからのことだった。
初音との友情はこれまでだと思っていた。二度と、初音にも聡にも会うことはないと思っていた翌日、聡から電話が掛かってきたのだ。内容は、初音に別れを告げられた、というものだった。玲良はそのことに驚き、声が出なかった。
まさか、初音が自分のために身を引くとは思いも寄らなかったのだ。初音は女の子らしく大人しいが、芯のしっかりとした女性だったから。今になって思えばだからこそ、なのだ。
芯がしっかりしていたから、一人でも大丈夫だと思ったのだろう。一人では立ち上がれない自分に、聡を譲ってくれたのだ。そして、初音は姿を消した。
その傷を癒しあうように玲良と聡は付き合いを始めたが、そのきっかけを聡に告げることは出来なかった。その一年後には結婚し、初音のこともお互いに傷は薄れてきていた。初音のようにしっかりとした女性なら、何処かで幸せに暮らしているだろうとまで思えてきていた。でも、そんなことはなかったのだ。
自分がいかに最低な人間か思い知ったのは、聡との結婚から一年が過ぎた頃だった。聡が駆り出された事件で発見されたのは初音の全裸の遺体だった。そしてその身体は違法薬物に蝕まれていた。
「玲良さんには、もう初音ちゃんのことは忘れて生きて欲しい」
玲良は聡の言葉に手で顔を覆った。
「……お願い。優しくしないで」
未だに聡には告げていないのだ。自分が初音に仕出かしたことを。未だに、彼に嫌われたくないと思ってしまう。自分が初音から彼を奪ったりしたから、初音は信仰宗教に身を落としてしまったというのに。
だからこそ、言えなかった。言えないけど、その宗教を憎しみの対象に真実を暴いてやろうと思った。薬物に手を出して死んだなどと世間に言われる初音の汚名を晴らすなどという理由をつけてまで。
自分は何処まで最低なのだ。だから、聡にも自分から別れを切り出した。元々、初音のことに必死になり過ぎて衝突は絶えなくなってきていた。だから、一人で存分に調べたいと適当な嘘を並べて別れたのだ。それでも気持ちが軽くなることはなく、隣にいない温もりを寂しく感じてはまた自己嫌悪に陥った。
「……初音をあんな宗教に嵌まらせたのは私なのよ」
玲良は涙を溢しながら真実を口にした。だからこそ、許せなかった。
「水鳴教の悪事は全部調べて、私が告発しようと思ってたのに。なのに、教祖である水嶋崇は何者かに殺されてしまった……。それじゃ、意味がないのに」
十年前、水鳴教の教祖、水鳴崇人こと、水嶋崇は何者かに惨殺され、水鳴教のしてきたことは全て消えたのだ。今もまだ水鳴教は存在しているが、教祖代理が事実発覚を怖れ、違法薬物の使用はなくなった。今となってはもう、宗教の内情を暴くより、彼に勝手な制裁を加えた人間を探し出すしか出来る限りのことはないのだ。彼は法的に裁かれるべきだったというのに。
「……知ってたよ」
聡の優しい声が耳に届いた。
「そんなことは、知ってた。でも僕は、初音ちゃんより玲良さんを選んだ。それに初音ちゃんは、僕と別れる前から水鳴教の信者だったんだよ」
初めて聞く事柄に玲良の瞳から涙が引いていった。
「信者なのは知ってたけど、水鳴教の真実は知らなかった。だから、責任があるなら、玲良さんじゃなくて、僕のほうだ」
聡の瞳には己を責める色が混じっていた。
だから、彼は初音と別れた後も警察を辞めずに、この地位まで昇り詰めたのだ。あの事件のようなことが二度とおきないように。人が人を殺すなど、あってはいけないという想いから。
「……見て欲しいものがある」
玲良は頬に残る涙を拭って、聡の前に紙を置いた。これは彼が知るべきことだ。そして、彼の手で真実を調べて欲しい。
この間聡にあの話をしたのは、単に協力を得たかったからだ。最初からこのことが分かっていたら教えなかっただろう。好きだとも思いつつ、懺悔をしつつも利用するのはキャスターとして身に付いた狡猾さからだろう。でも、彼の本心を知った今、そんな気持ちは微塵もない。純粋に、今起こっていることを聡に知ってもらいたいのだ。
「この間見せたものね、水嶋崇を個人的に攻撃したことを報告する掲示板だったの。恐らく全員、身内か誰かが初音のような死に方をしているか、もしくは熱心な信者だったんだと思う」
玲良はすっかりいつも通りの凛とした声を出している。
「あれが?」
聡の言葉に玲良はしっかりと頷いた。
「それで頻繁に書き込みをしていたのが、この十一人。何人かが被害者なのはもう知ってるわね。それで、ハンドルネームに注目して欲しいんだけど」
玲良は言いながら十一個のハンドルネームを指差した。
安重根
シャルロッテ
ガヴリエロ
ジョン
サーハン
山口
ジャック
ブルートゥス
イガール
ヤコブ
聡は全ての名前を凝視した。
「これ、全部暗殺者の名前なのよ。実在、架空は問わないけど」
その言葉は聡の脳に衝撃を与えた。確かにそう言われれば知っている名前もある。
「ということは……」
聡が顔を見ると、玲良は強く頷いた。
「この十一人が水嶋崇を殺したんだと思うの。そして、それを誘発したのが、このユダという人物と考えるのが一番ね」
裏切者ユダ。
事件を裏で手引きし、そしてその人物達を消しているのかもしれない。その方法は分からない。現に、他に犯人は存在しているのだ。
「まだ、聞いて欲しいことがある」
玲良は少しだけ声のトーンを落とした。そこからかなり重要な話だというのが窺える。
「何?」
強烈な恨みは微かな後押しで殺意へと変貌する。それは刑事という職業柄、嫌というほど知っていた。だからこそユダは、この十一人に何らかの入れ知恵をし、水嶋崇を殺させたのだろう。ということは、ユダも水嶋崇、もしくは水鳴教に強烈な恨みを抱いていたということになるだろう。
そして、その恨みを他の者の手によって晴らした。それは何と許し難いことだろう。残りの四人を何とか守ることは出来ないだろうか。
憶測ではあるが、彼らは殺人という罪を犯している。でもそれが殺される理由になどなりはしない。しかし何も出来ないのが現状だろう。こんな憶測だけで警察が動くことは出来ない。
「驚かないで、ていうのは無理だと思うんだけど」
玲良はそこで一旦言葉を切った。聡は、ん? と目を少しだけ開き、続きを促した。
「聡君の班の子達、全員水鳴教と繋がりがあるの」
玲良の話に聡は思考が停止するような気がした。まさか、と思いたいどころの話ではない。
「まず、新さん。彼女は二つある。一つは彼女の友人が水鳴教の信者だった。死んではないけど、未だに続いてる。もう一つは、五年前の、彼女の恋人の事件は知ってるわね?」
聡は震える顎を手で覆いながら頷いた。
「三谷祐市が殺した幼女の父親が水鳴教の信者だったの。彼は水嶋崇の言い付けで、三谷の妹を殺害した」
そのことは聡も知らないことだった。
「次は笹木君。彼は幼い頃に虐待が原因で親元から引き離された。でも、その通報した人が水鳴教の信者で、彼を水鳴教の施設に預けたの。彼は高校を卒業するまでそこで過ごしているわ」
聡の脳裏には笹木の明るい笑顔が浮かんできた。彼が虐待を受けていたのも、親から引き離されたのも知っていた。でもその後のことなど知らなかった。
「次は桜木君。彼の父親は水鳴教の幹部だった。世間的に水鳴教は悪徳宗教だとは知られてないから、警察官になれたんでしょうね。でも、その父親は水嶋崇が殺される半年前に行方不明になっているわ」
玲良の話は脳を素通りするようで、だがしっかりと刻まれていった。今脳裏に浮かぶのは桜木の柔和な笑顔だ。誰よりも真面目で、事件にも真剣に取り組んでいる。それは桜木だけではない。美琴も、笹木もそうだ。そして、紘奈も。
「最後は神沢さん。あの子の母親は初音と同じ死に方をしている。勿論、水鳴教の信者よ」
頭痛を引き起こす程の衝撃は倒れそうになるものだった。繋がりそうだが、繋げたくないと、脳は必死に否定をする。認めたくない。
「ここからは、完全に私の憶測なんだけど」
続きを聞かずとも分かった。何故なら、聡も同じ考えを抱いているからだ。
「私は、この中にユダがいると思う。十年前なら、年齢的にも全員犯行は可能だし」
やはり、という思いが一気に胸を占めた。自分の仲間の中に、ユダがいる。一番信じたくはないことだった。聡は手で顔を覆い、低い唸り声を上げた。隣では玲良が心配そうな顔付きでいる。掛ける言葉を見付けられないのだろう。
どうしたらいいのか。どうするべきなのか。
もう、ここまできたら聞かなかったことになど出来ない。勿論、信じたい思いはある。ただの的外れな考えだとも思いたかった。でも、並べられた事実はそれを許すことはしなかった。
からん、とグラスの中の氷が溶けて音を立てた。