甘い殺人犯
桜木は珍しく大きな溜め息を付いた。
キャリアだから。そんな言葉にはうんざりだ。自分は好んで此処に、聡の班にいるのだ。それを上にとやかく言われる筋合いはない。嫌ならとっくに異動を願い出ている。
昔からそうだった。頭がいいというだけで特別扱いされ、持て囃されてきた。別に持て囃されたいが為に勉強をしていたわけではない。頭がよくなりたかった、ただそれだけなのに。過去なんて払拭したかったから、必死に勉強をしてきたのだ。そして、今のポジションを手に入れたのだ。
あんな過去、消してしまいかった。そしてこの班にはそういった想いを抱えている人間が集まっている。
桜木はもう一度溜め息を吐いた。考えても無駄だ。如何なる時も冷静沈着に。幼い時に学んだことは忘れずに生きていかないと。
「聡くーん」
鈴の音のように耳障りのいい声に全員が振り返った。聡だけは声の主を理解し、その名を呼んだ。
「玲良さん」
玲良、と呼ばれた女はさっぱりとした美しい顔に笑みを浮かべた。
「近くまで来たから、待ち伏せてみたのよ」
玲良は笑顔のまま聡に近付きそう言った。
「あ、桐嶋玲良っ」
驚く程に大きな声を上げたのは紘奈だ。
聡達はこれから全員で飲みに出掛けることになっていたので、ここには班員全員が揃っていた。
「どうも。桐嶋玲良です」
玲良は紘奈に向かって目を細めて笑った。桐嶋玲良、彼女は朝の情報番組でキャスターを務める有名人なのだ。
その美貌は元より、美しい声に流暢な喋り口、コメントの鋭さ。どれもが完璧な彼女はまるで芸能人のように、日本では有名な存在なのだ。
「え、辻木さん、こんな方と知り合いなんですかっ?」
紘奈は生で見る玲良のオーラに興奮しているのか、少々はしゃいでいる。玲良はそんな紘奈の様子を見て、可愛い部下ね、と微笑んだ。
「知り合い……というか」
「聡君の元妻です」
玲良はそう言った後、にこりと笑った。事情を知っている笹木意外は突然の聡の事実発覚に驚きを隠せないでいる。特に美琴は、そんなこと聞いていない、といった顔までしている程だ。
「何でまだいるって分かったの?」
今は九時。しかも事件は起きていない。聡が警視庁に残っている確率は普段を考えると物凄く低い。
「深水君に訊いてみたのよ」
玲良はまた微笑んだ。若い頃はもう少しつんとした雰囲気があったのだが、今ではすっかりなくなっている。三十代後半にもなるとそんなものか。それでも玲良の美しさは昔と何も変わらない。いや、むしろ若い頃より大人の色気というものを漂わせている。これは深水が「いい女」と称するのもよく分かる。
玲良はとある過去の事件を独自に追っていて、その為に深水を紹介して欲しいと頼まれたのだ。
「これから出掛けるの?」
玲良は聡の前に回り込んで言った。この仕草は昔から何かを話したい時にするものだ。
「すみませんが、皆さんだけで行ってもらってもいいですか? 合流出来たらしますので」
聡はメンバーに頭を下げながら、申し訳なさそうに言った。
「分かりました」
それに笑顔で答えたのは桜木だ。
「では、お先に」
聡がそう言った後、玲良もお邪魔してごめんなさい、と上品に頭を下げた。
「何を話したいの?」
聡が口を開くと、玲良はふふ、と笑った。今彼女はどんな男と付き合っているのだろう。そんな考えが頭を過る。
高校生の頃からの友人で、二十三歳から付き合い始めた。その一年後には結婚し、そしてその二年後には離婚した。周囲には友人としての期間が長かったから上手くいかなかった、と説明をしたが本来の理由は違っている。
「ねえ、当時のこと、何でもいいから覚えてない?」
玲良は冷たさを含んだような声で言った。奥二重の瞳が更に冷たさを感じさせる。
「覚えてるも何も、当時は所轄だったから、何の情報もないよ」
聡の答えは玲良の望んだものではなかったのか、玲良はそう、と小さく洩らした。力になれるならなりたいが、これ以上足を突っ込ませたくないという想いもある。それで幾度となく衝突し、離婚にまで至ったのだ。離婚届を提出した時、いつも二人で笑いあっていたのが遥か昔のことのように感じた。今ではそれは十年以上前の出来事で、本当に遥か昔のことだ。
「いいわ。もし、何か思い出したら連絡して」
玲良はそれだけ言うと、聡に軽く手を振った。
「真実を見付けたとして、どうするの?」
聡はこの十年ずっと訊きたかった言葉を口にした。
「……どうもしない。でも、そのせいで全てが闇に葬られてしまったのも事実なの。だから、その理由を知りたいだけ」
玲良は抑揚のない口調で言い、踵を返した。
執心だ。いつまでも過去に捕らわれてしまっている後ろ姿はとても儚いものに見えた。
聡はショーケースの中に飾られたケーキ達に思わず声を洩らした。何をどうしたら、こんなふうに器用に飾り付けることが出来るのだろう。どのケーキもきらきらしていて、味なんて想像も付かない。中でも森を連想させるケーキが一際美しい。
「あの……よければ持って帰られますか?」
その声に聡は顔を上げた。そこには洋菓子店「クレモンティ」のパティシエ、西野絵里がいた。長身の彼女はまるでモデルのように手足がすらりと長い。黒髪を後ろで束ね、コック服に身を包んでいてもそのスタイルのよさは分かる。
「え、いいんですか?」
聡は絵里の言葉に目を見開いた。
「ええ、どうせ今日は営業出来ないですし」
そういう絵里の視線の先には事件現場を調べる鑑識達の姿がある。その周りにいるのは聡の班のメンバーだ。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
聡が笑顔で言うと、絵里は微かに笑い、帰りにどれがいいかお尋ねします、とだけ言った。聡はそれに頷いてから、遺体の側へと寄った。
被害者は磯間隆司、この洋菓子店「クレモンティ」の店主であり、パティシエだ。「クレモンティ」はオープンからまだ三年足らずの店だが、近所では評判の店で雑誌に取り上げられたこともある。
聡は俯せに倒れる磯間の遺体を見た。凶器は店に飾られていたマリア像。転がったそのマリア像の頭部にはねっとりとした血が付着している。
「売上、なくなってるそうです。長嶺さんと西野さんに確認してもらいました」
笹木が聡に近寄り報告をした。
「強盗、ですかね」
聡は取り敢えずの状況だけでそういった考えを導きだした。でも、と思う。遺体の第一発見者は絵里だが、その時シャッターは閉まっていたらしい。いつも磯間が一人で開店準備をするそうだ。
ケーキは磯間が一人で作るのか、という質問に絵里は首を横に振った。ここに並んでいるケーキは全て夕べ作られたものらしい。そして午前中に作ったものを、午後店頭に並べる、ということだった。朝早くからケーキを作っているのだろう、と勝手に思い込んでいた聡はそのことに驚いた。
「シャッターの鍵を持ってるのは、誰と誰ですかね?」
聡は忙しなく動く鑑識達を見ながら絵里に訊いた。
「鍵を持ってるのは、店長と長嶺さんだけです」
長嶺、と呼ばれたのはボブスタイルの小柄な女性だ。年は二十歳くらいだろうか。今日は営業しないと分かっているのか私服のままだ。清楚なブルーのワンピースを着ている。
「いつも私が出勤する時間にはシャッターは開いてるんで、可笑しいと思って長嶺さんに連絡しました」
絵里は少し離れたところにいる長嶺を見ながら答えた。
「そうですか」
シャッターが閉まっていたなら、強盗の仕業ではない。ここのシャッターは外から鍵を掛けるようになっているので、犯人が磯間を殺害した後、施錠したということになる。となると、一番怪しいのは磯間の他に唯一鍵を所持している長嶺ということになるが、そんな直ぐに疑われるようなことをするだろうか。
誰かが長嶺の犯行に見せ掛けたいのか。聡は首を捻りながら桜木を呼んだ。桜木は聡の声に直ぐに反応し、小走りで近付いてきた。
「磯間さんが使っていた鍵があるか、探して下さい」
聡の命に、桜木は確りと頷いた。美琴と紘奈は現場に変わったところがないか調べている。聡はその様子を見ながら本日出勤しているスタッフに目を向けた。
絵里にカウンター担当の長嶺だけだ。特別に広い店というわけではないので、これだけで十分なのだろうか。スタッフは後一人、カウンター担当の山下という大学生の青年が午後から入るらしい。
「あの…お店はどうなっちゃうんですかね?」
そう質問してきたのは長嶺だ。
「うーん、それは僕達には分かりかねますね。そういったお話をされたことはなかったんですか?」
店主が亡くなった場合の店の行く末を相談していることはまずないだろう。こうして、店主が若いなら特にだ。長嶺は聡の言葉に、ないですと小さく答えた。
「鍵、ありました」
桜木が鍵を手にしながら戻ってきた。
「売上を入れてある金庫の中です」
聡は桜木から鍵を受け取りながら、それを絵里と長嶺に見せた。キーホルダーも何もついていないものだ。
「磯間さんはいつも出勤したら、金庫に鍵を入れる習慣はありましたか?」
聡は鍵を二人の前で交互に揺らした。犯人はこの二人のうちのどちらか、だ。それ意外は有り得ない。でもどちらという決定打は残念ながら何もない。
「ありました。店長、鍵を何処に置いたか忘れちゃうんで、帰りに必ず見る金庫に入れるようにしてたんです」
答えたのは絵里だ。
「長嶺さんもそれは知ってましたか?」
聡の質問に長嶺はこくんと頷いた。なら、どちらでも入れることは可能だ。
少し離れたところで紘奈が美琴に密室殺人ですかね? と言っているのが聞こえ、聡はつい笑いそうになってしまった。どうにかそれは堪えたが、その直ぐ後ろで桜木は吹き出している。そしてそれにつられるように笹木も笑った。その原因となる発言をした紘奈は状況を理解していないらしく、笑っている二人を不思議そうに見ている。
そしてそんな二人をたしなめたのは美琴だった。
「一度、本部に戻りましょう。会議が始まってしまいます」
聡はそれぞれの表情をした部下達に告げた。
「あ、美琴さんだけは残って、お二人から更に詳しい話を聞いておいて下さい」
聡の言葉に美琴は小さく返事をした。どうも今朝から機嫌が悪いようだ。
「そんな事件、調べてどうするんですか?」
玲良はその声にゆっくり顔を上げた。目の前では深水が煙草をふかしている。
「どうもしないわ。スクープとして番組で発表するだけよ」
玲良はさらりと嘘を吐きながらパソコンのキーボードを叩いた。都内のカフェのわりには落ち着いた雰囲気のある店だ。
「そういう、さらりと嘘を吐くのっていいな」
「生憎、不倫の趣味はないわ」
これは本当だ。それより何より、深水のようにふわふわとした、何を考えているのか分からない男はタイプではない。男はもっとこう、分かりやすいに越したことはない。
深水はそれは残念、と小さく笑った。
「ねえ、本当に容疑者は挙がらなかったの?」
玲良はパソコンを打つ手を止め、コーヒーを一口飲んだ。外は梅雨独特のじっとりとした暑さだが、店内は冷房が効きすぎていて寒いくらいだ。
「誰も」
深水には出来るだけの情報を流してくれるよう頼んであるが、本当にその通りにしてくれているという保証はない。
「ねえ、あれだけの捜査本部を立てておいてそんなことってあるの?」
ここ近年でもあれほどまでの規模の捜査本部は記憶にない。
「警察が如何に無能かは、マスコミの方なら知ってると思いますけど?」
勿論そんなことは百も承知だが、それとは反対に物凄く優秀だということも知っている。
「というより、彼の周りは限られた人間しかいないんだ。その中に犯人がいるとは、到底思えない」
深水は新しいキャスターに火を点けた。高級そうなライターは女からの贈り物だろうか。
「……それはそうね」
玲良は頷きながら、今までに調べ上げたことに目を通した。何も分かってはいない。当時を知っている人間は口を割ることはない。喋ってしまえば自身も大変なことになる可能性があるからだろうが。
「君と、あの水鳴教との因縁は何だ? それを教えてくれたら、こっちも更なる情報を流す」
深水の言葉に、玲良は小さく溜め息を吐いた。この男は相手を支配したいタイプだ。それを知ったところで、彼には何の利点もないというのに。
美琴は大人しく座る二人を見ながら心の中で溜め息を吐いた。どうも今朝から聡に素っ気ない態度を取ってしまう。夕べのことが原因なのだが、それで腹を立てるのは可笑しいのも分かってはいる。
聡に離婚歴があろうと、それを部下に話す必要はないし、隠されていたわけでもない。一度もそういった質問をしたこともないし、そういった会話になったこともない。ただ、ショックだった。あの聡が過去に愛した人がいて、その人との結婚を望んだ。それがこんなにも自分に衝撃を与えるなんて。情けないことこのうえない。
「磯間さんについて聞かせてもらってもいいかしら?」
美琴はその考えを吹っ切るように、絵里と長嶺に声を掛けた。
「はい」
絵里と長嶺は同時に答えた。頼まれた仕事くらいはきちんとやらなくては。
「磯間さんに恋人とかはいた?」
「いえ、特に聞いたことないですけど」
答えたのは絵里だ。美琴は長嶺の方にも答えを促すように視線を向けた。
「私も、知りません」
長嶺は小さな声で返した。
「ここのケーキは、誰が考えてるの?」
ショーケースに並べられたケーキは他の店のものより見た目に拘りがあるように見える。
「全部、店長です」
絵里はケーキを眺めながら言った。その視線の先には苺がたっぷり乗った、可愛らしいショートケーキのようなものがある。でも、それは刻んだチョコを降りかかっていて、森の中を演出しているようだ。
「貴女も、パティシエなのよね?」
「私はまだ、見習いですから」
絵里はケーキから視線を外し、俯いた。美琴は俯く絵里の手元に目を向けた。荒れた手には、所々色が付いている。それはマジックか何かのようで、赤と黒、そして茶色だ。
「中、少し調べさせてもらってもいい?」
美琴は立ち上がりながら、どちらにともなく訊いた。捜査会議が終了するまでに少しでも情報を集めておこう。
「構いません」
答えたのは長嶺だ。美琴はそれに頷き、厨房の中に入った。
厨房の中は店頭程綺麗ではなかった。こんなところで作られたケーキだと思うと、途端に食べたいという思いがなくなる。いくら見えないところとはいえ、もう少し綺麗にしておくべきだ。磯間はだらしない人物だったのだろうか。
厨房の中を見回していると一冊のファイルが目についた。それは器具が入っている棚の前に無造作に置かれいた。そこには、沢山のケーキのアイディアが描かれている。そしてどれも可愛らしい文字で、補足がしてある。これが磯間の字だとしたら意外だ。磯間はパティシエには、とてもではないが見えない程に大柄な、熊のような風貌をしている。
それでこんな字を書くのだとしたら。美琴はそんなふうに思いながら、一枚の紙で手を止めた。
捜査会議は終了し、割り当てられた通りに動こうとした時、二件の留守番電話に気付いた。美琴と玲良からだ。聡は留守番電話センターにダイヤルし、一件目の留守番電話を訊いた。
一件目は玲良からで、時間が空いたら会いたい、というものだった。二件目の美琴の用件は、会議が終わり次第、「クレモンティ」に戻ってきてくれ、というものだ。その声にはもう機嫌の悪さは含まれていなかった。聡は取り敢えず桜木にだけ断り、「クレモンティ」へと急いだ。
「このケーキです」
「クレモンティ」に辿り着くと、美琴が厨房の中へと聡を呼んだ。
そして言われるがまま向かうと、ある紙を美琴から見せられた。そこには森を連想させるケーキが描かれている。何処かで見たことがあるが思い出せない。
「店頭に並んでます」
聡の考えなどお見通しの美琴が口を開いた。そうだ。現場検証をしている時に見たものだ。
「……ねえ、これって本当なの?」
玲良は深水に出された情報に眉をしかめた。俄には信じ難い。でも深水にはこんなことで嘘を吐くメリットもない。
「俺だって、ずっと調べてたんですよ。そして、ようやくここまでは辿り着いた」
深水は言いながらパソコン画面を叩いた。
「何故、これを消してないのかは分かりません。本人達にしか分からない意図があるのかもしれない」
証拠は確実に消すべき、と思うのは所詮真っ当な人間の考えなのだろうか。自分には彼らの意図が分からない。
「もっと、面白いこともある」
深水はそう言ってからパソコンを弄った。
《暗殺者達の宴》
パソコン画面にはそう記されていた。
「暗殺者達……」
玲良はその文字を凝視しながら静かに口を開く。
「掲示板のバンドルネーム、比べてみて下さい」
深水に言われ、先程書き出したものと見比べた。そして、その一致に驚いた。
「同じ……人間?」
「三人だけですけどね」
深水は言ってから煙草に火を点けた。途端に辺りに煙草の臭いが広がる。
「まだ、ありますよ」
深水はそう言って、鞄から紙を取り出した。玲良はそれの意味を理解するなり固唾を飲んだ。
「これ……」
「ただの偶然だと片付けますか?」
深水の問いに玲良は首を横に振った。有り得るわけがない。そう考えた瞬間、玲良の脳裏に明るい笑顔が浮かんだ。
――――玲ちゃん。
玲良のことをそう呼ぶのは彼女だけだった。彼女が生きていたら、今、どんな生活を送っていただろう。彼女も、自分も。間違いなく、聡と離婚はしていなかっただろう。
「キャリアだエリートだって持て囃されても、何も出来なかった。これでも悔しがってるんです。だから、別件でとはいえ、未解決に飛ばされたのは願ってもないチャンスでしたよ」
この男には自分のような因縁はない。ただ、当時導き出せなかった答えを手にしたいだけだ。それでも警察内部に協力者がいるのは有り難い。
「もう少し関連を調べてみるわ」
玲良はそう言い、テーブルの上の伝票に手を伸ばしたが、それは深水にあっさり奪われた。この男は相当モテるだろう。玲良は深水に礼を言ってから店を後にした。
「すみませんが、ちょっと書いてもらいたいことがあるんですが」
聡は厨房にあった紙とペンを絵里と長嶺の前に置いた。二人とも顔を見合わせ、意味が分からない、といった表情をしている。
「あ、そのケーキの名前、書いてもらっていいですか?」
聡が指差したのは例のケーキだ。フォレストベリー。それがそのケーキの名前。二人は言われた通りに、その名前を書いた。聡はその様子を眺めながら、手元のファイルに目を落とした。
似ているのはどちらの字かは調べなくとも分かっている。これは、一人だけに絞ってはいないと見せ掛ける為だけだ。
刑事という仕事は人をずる賢くする。そして、他人を疑わせる。そうなる為に刑事になったわけではない。成らざるを得なかっただけ。聡は心の中で溜め息を吐いた。
「はい、ありがとうございます」
同時にペンを置いた二人に聡が言った。やはり、絵里のほうだ。今思えば、最初から不可解な点は幾つもあったのだ。絵里は聡の意図に気付いたのか、目を泳がせた。
「このケーキ、貴女が発案したものですね?」
聡はファイルを見せながら絵里に訊いた。ファイルに描かれているのはフォレストベリーのイラストだ。絵里が書いたフォレストベリーの字面は角張っていてファイルのものと一緒だった。丸みを帯びた他のものは磯間の字ということになる。
「ここに、コンクール用と書かれていますね」
聡はファイルを絵里の前に置いた。美琴から訊いた話では、ここのケーキは全部磯間が考えているということだが実際店頭にはそうではないものが並んでいる。
「……そうです。それは、私が考えました」
絵里は観念したのか、大きな溜め息を吐いてから自白を始めた。
「確かにそれは店長に見せました。感想が欲しくて。でも、私の友人と飲んだ時に、私が出来ればこれを店長に作って欲しいと言っていたって言われたと……。そんなこと言っていないと、言い争いになりました」
聡は黙って絵里の話を聞いた。
「私、コンクールで入賞する為にこのケーキを考えました。でも、こうして店頭に並んでしまったら、もうコンクールには出れません……」
絵里はそういって悔しそうな表情を見せた。パティシエとしてのプライドが殺人を犯した後も店を開けようとしたのか。彼女の身を包むコック服は彼女の努力の証のように汚れがついている。厨房も、夕べ使ったのが最後とは思えない程汚れている。警察が到着するまでの間、彼女が開店準備をしていた証拠だ。
「店長が死んだら、この店を引き継ごうと思ってました。店長、十年前から突然ケーキを作ろうと思っただけの人なんです。私みたいに、幼い頃からの夢じゃないんです。それなのに、お金があるってだけで店を出したりして……」
この世で一番不可解なもの。それは、やはり殺人犯の心理だ。何が彼らを突き動かすのだろう。殺人犯という地獄に。
桜木は大きな溜め息を吐いた。今日も刑事課長に呼び出された。隣では管理官も笑みを浮かべていた。だから、自分はまだ上に行くつもりはないというのに。
「桜木君」
桜木はその呼び止めに振り返った。そこには笑顔の聡がいた。
「お疲れ様です」
桜木が言うと、聡も同じように返してきた。
「考えてる顔ですね」
聡の言葉に桜木は苦笑いをした。この人は意外に洞察力はあるのだが、少し的が外れている。
「考えなくても答えは決まってるんですけどね」
桜木は自分の手に視線を落とした。自分の歩く道は自分で作る。誰かにそれを用意してもらう必要などないのだ。
「ああ、昇任のことですか?」
「ええ。現場にいても仕方無いと言われました。好きで現場に赴いてるんですけどね」
桜木の話に聡は笑顔で頷いてみせた。目の前の男が刑事になった理由をまだ知らない。そしてそれは、やはり全く見えてこない。
「好きなだけうちの班でよければいて下さい」
「はい。そうさせてもらいます」
いつまで現場に出るかは既に決めてある。でも、今はまだ出ていたいのだ。
「じゃ、失礼します」
聡は明るい調子で言い、桜木の前から去っていった。
物静かなバーは何処と無く落ち着く。だがそれと同時に胸騒ぎを感じずにはいられない。マスターが氷をアイスピックで砕く音が耳に届く。丸く形を作っていく様は芸術的で、出来上がった氷は宛ら美術品のようだ。
「ごめんなさい、待たせて」
聡はその声に氷から視線を外した。隣のスツールに上品に腰掛けたのは玲良だ。仕事帰りではないしく、こざっぱりとした服装だ。
「ちょっと、聞いて欲しいのよ」
玲良は少しだけ声をひそめた。他の客に聞こえないようにだろう。
この位置だとマスターの耳には入ってしまうが、こういった店は客の情報を無闇に漏らしたりしない。玲良はそれを分かっていてこの店を指定したのだろう。
「もうそのことについて調べるのは……」
「過去云々とか言ってる場合じゃなくなるわよ」
玲良は聡の言葉を遮り、バックから一枚の紙を取り出した。そこには二種類の名前が書かれている。一つには名前の前に「ハンドルネーム」と記してあった。だが聡が気にしたのはそちらではなく、もう一つの方だった。
原田裕人
泉川竜也
山本優香
相川利和
志田礼太
磯間隆司
その名前は最近起きた殺人事件の被害者の名前だった。磯間に至っては今朝殺されたばかりだ。
「これは?」
聡の呟きに玲良は直ぐに反応した。
「とある掲示板に書き込みをしていた人物を特定したら、彼らの名前が出てきたのよ」
玲良はそう言ってノートパソコンを聡の前に置いた。
《教えを乞わずに制裁を与える集い》
長ったらしい名前のホームページだ。
「ここには、特定の個人へ嫌がらせをした内容を書き込む場所なの。とはいっても、もう十年誰も立ち寄ってないけどね」
聡は掲示板の内容を読んでいった。
何月何日、小型爆弾を郵送しました。
何月何日、大量の虫を郵送しました。
何月何日、施設の壁にペンキをぶちまけました。
悪戯レベルではない事柄が書き込まれている。そしてどの書き込みにも、「でもこの恨みは消えない」と最後に書いてある。
「どう思う?」
玲良は聡の顔を少し覗き込んで言った。これはただの偶然なんかではないだろう。たまたま書き込みをした人が殺されるだけだなんて偶然、何処にあるというのだろう。
「で、一番見て欲しいのはここなの」
玲良は言いながら慣れた手付きでパソコンを弄った。
一番手っ取り早く恨みを晴らす方法、あります。
ハンドルネームをユダと名乗る者の書き込みだ。ユダ、という名前に引っ掛かるものを感じる。聖書に登場する裏切者の名前という以外にだ。聡は指輪を叩きながら記憶を掘り起こした。
――――あれだ。
この間、笹木に見せられた志田のパソコンに入っていたサイトのもので見たのだ。それと同じとは限らない、と思った瞬間、玲良に先程見せられた紙に視線を向け、驚愕した。
サーハンと山口。あちらでもあった名前は、確かにそこにもあった。共通する人物だということか。
「書き込みは全部で何人いるの?」
聡は玲良に詰め寄るように訊いた。
「掲示板の最初から数えたら、かなりの人数がいるわ。何せ、書き込みはこの一文で終わってるの。知りたい人はメールをくれってところで。メールアドレスは消えてるし」
玲良はお手上げだというように首を横に振った。これがただの偶然ではないとしたら……。いや、でも、とも思う。これらの殺人事件は全て突発的なものだ。犯人の殆んどは被害者と古い付き合いではない。
だとしたらどうやって……。
「また何か分かったら連絡するわ。だって、全部、聡君が挙げた事件だものね」
玲良はそう言って、静かに立ち上がった。頭の中では様々な考えが巡る。何かが繋がりそうで、何も繋がらない。
「うん、お願い」
聡は言ってから残っていたアルコールを一気に飲んだ。脳は覚醒から遠ざかっていく。一体、自分の周りで何が起きているというのだ。
「久し振りだね」
三谷の声に美琴は少しだけ目を細めた。あれほど愛しいと思った男に今は憎しみにも近い感情を抱いているなんて。苦笑いが込み上げてきそうだ。
「あの事件の真相を聞かせて欲しいの」
美琴が言うと、三谷は唇の端を持ち上げた。
「とっくに調べてるくせに」
「貴方の口から真実を聞きたいのよ」
そこにズレが生じていないか確かめたいのだ。
「嫌だ、て言ったら?」
三谷はそう言って誠実そうな顔を歪めた。あの頃の面影はない。
「話してくれるまで通うまでよ」
美琴は真っ直ぐに三谷を見た。一枚の硝子越しの彼はもう、自分の知っている三谷ではない。
「じゃあ、また綺麗な君に会うことが出来るってことだ」
三谷は嬉しそうに笑った。その顔だけはあの頃と何も変わっていない。
「……また来るわ」
美琴はそれだけ言って、面会室を後にした。感情があの頃に戻ってしまう前に離れなくては。