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ネットの中の殺人犯




 キーボードを打ち込む音だけが響く。かたかた、と手際の良い動きだ。しなやかな指は節が太めで、指輪が嵌めづらそうな印象を抱かせる。スムーズな動きはその人物がキーボードの扱いに馴れている証拠だ。だが今のご時世、そんな人間はごまんといる。



1:名無し


あいつについて語ろう。

阿呆だと思ったこと、馬鹿だと思ったこと、何でもあり。


2:名無し

意味が分からない。


3:名無し

何でもいいんだよ。

だって、あいつ仕事も出来ないくせにユリカちゃんと付き合っててむかつくんだよ。


4:マキ

私怨乙w


5:名無し

てか、あんたどいつ?


6:名無し

誰でもいいじゃん。

兎に角、『ウェズリー』スタッフ、日浦信二の悪口書き込んじゃって下さいよ。

何でもいいからさ。

よろしくー。



 紘奈は机に突っ伏してパソコンの画面を眺めた。様々な情報が飛び交うネット社会。でも、いざ探したいことは何も見付からない。


「何を調べてるの?」


 紘奈はその声に慌ててパソコンを閉じた。


「美容院です」


 紘奈は少しばかりひきつった笑いを浮かべながら笹木に向かってそう返した。流石に刑事である笹木は紘奈の態度に違和感を覚えたようだが、別段何か突っ込んでくるわけでもなく、そう、と言っただけだ。

 折角の会話の機会を。紘奈は溜め息を吐いて既に離れている笹木の後ろ姿を見た。


「恋患い、ですか?」


 突然の声に紘奈はひゃ、と声を出しながら肩を震わせた。真後ろにいたのは出勤したての聡だ。


「ああ、すみません。驚かせるつもりじゃなかったんですけど」


 目を見開いて自分を見上げる紘奈に聡は頭を下げた。紘奈はそれに、こちらこそすみません、と返してからまた浮かない表情を作った。


「恋愛って、時に苦しいものですよね」


 聡はそんな紘奈の隣の椅子に座った。そこは本来、桜木のデスクだ。


「……そうですね」


 紘奈はそれだけ答えた後、もう大丈夫です、といい笑顔を作った。




「最新版ですね、これ」


 笹木の言葉に美琴は彼の横に移動した。


「そうなの?」


 笹木の視線の先にはノートパソコンが置かれている。

 歩道橋から突き落とされた志田礼太の自宅アパートの捜索。殺された人間の部屋に犯人に繋がるヒントがあることは少なくない。この割り当てに美琴は感謝した。



「美琴さん、インターネッ疎くないけど、機種には疎いですよね」


 美琴は余計なお世話よ、と言いながら志田のパソコンを起動させた。美琴が持っているタイプのものよりずっと立ち上がりが早い。買い替え時かしら、などと思いながらアイコンに目をやる。

 アルバムとブックマーク。パソコンのトップ画面にはそれしかなかった。


「折角の機種なのに、殆ど使ってないのかしら?」


 美琴は独り言のように言いながらまずはアルバムを開いた。そこにあるのは無数の母子の写真だった。こどものほうは殺された志田の面影がある。


「マザコン……だったんですかね?」


 殺された志田は二十九歳、こんなふうに母親の写真を眺める年齢ではない。


「かも、ね」


 美琴はゆっくりと全ての写真を見ていったが、志田の年齢が中学生くらいを越えるものはなかった。

 志田の家族構成は紘奈が調べているのだが、もしかしたら母親は既に亡くなっているのだろうか。

 美琴が写真を見ている間、笹木は机の引き出しの中などを調べているが、これといった成果はないようで直ぐにお手上げのポーズを作った。物が少ない部屋だ。必要最低限のものしかないように思える。テレビもなければCDコンポもない。趣味というものが全く感じられない部屋だ。

 美琴は狭いワンルームを見渡してからまたパソコン画面に視線を戻した。



 紘奈は前をかつかつとヒールを鳴らして歩く背中を追った。どう見てもあのヒールは五センチ以上あるが自分のパンプスはフラットだ。なのに向こうの方が歩くのが早いし、疲れも見えない。

 一体どういう体力をしているのだろう。紘奈は前を颯爽と歩く浅川紗江子の背中を必死に追った。

 まさか、他の班の人間と組まされることになるとは思いもしなかった。同じ七係の面子とはいえ、他の班の人間と組まされることはまずない。だが今回は何の経緯か、紗江子と組むことになってしまったのだ。

 紗江子は美しいストレートヘアを靡かせ、暑さなど微塵も感じていないような素振りで歩いている。ぴし、とした黒のスーツがよく似合っていて、そのうえ誰しも振り向くような涼しげな美人。

 美琴とどちらが美人だろう。紘奈はようやく追い付いた紗江子の横顔を見ながらそんなことを思った。紗江子がそんな紘奈の視線に気付いたのか突然振り返り、紘奈の顔を見た。ぱっと動くその仕草はとても紘奈には真似出来そうにない。


「何? 何かついてる?」


 まじまじと自分をみる紘奈に紗江子はあまり表情を変えずに言った。


「あ、いえ、美人だし、警部補で優秀だし、すごいなぁと思いまして……」


 紘奈の紗江子の気迫に押されるようにしどろもどろ答えた。これは美琴とは違うタイプの美人だ。美琴もさっぱりとした性格ではあるが、もっと表情はあるし、何よりこんな気迫はない。


「あ、そう」


 紗江子はそれだけ言うとまた正面を向いた。

 ……自分が美人だと自覚しているところは一緒だけど。紘奈はそう思いながら、華奢なその背中を見た。自分もいつかこんなふうになれるのだろうか。ふとそんな思いが湧いてくる。




 真っ昼間のファーストフード店、『ウェズリー』はかなり混雑していた。こんななかで話を聞くのは申し訳ないと思いながらも聡は店長に案内された事務所で腰を下ろした。

 店長は人手が足りなくて困っているのか、額に汗を浮かせている。それもそうだ。殺された志田は今日のシフトに入っていたらしく、そのうえ話を訊くのに一人ずつこちらで借りてしまうのだ。それは通常より二人少ない計算になる。

 聡は店長に連れてこられた一人の青年を見ながら更に申し訳ない気分になった。


「日浦、信二さん、ですね」


 桜木の問い掛けに日浦ははい、と返事をした。少しばかり目が離れてはいるが悪い顔立ちではない。


「志田さんと、一番仲が良かったと伺いましたが」


 店長に志田について話が聞きたいと言うと、自分より彼の方がいいと言われたのだ。店長は刑事なんかと話をしたくなかったのだろうが、どうせ全員に話を聞かなければならないのでいずれは話さなくてはならないのに。聡は桜木の横顔からそんな気持ちを汲み取った。


「まあ、そうですね」


 日浦は軽く頷きながら言った。


「個人的に会ったりもしてましたか?」


「いや、それはないです。志田さん、プライベートに職場の奴と会ったりしないんで」


 確かにそういう人間もいる。仕事とプライベートはきっちりと分けたい。聡が一緒に仕事をしてきたなかにもそういった人間はいた。


「志田さん、誰かに恨まれてたとかありますか?」


 聡は日浦の目を見ながら訊いた。


「どうでしょうね。上部は悪い人じゃなかったから、ないんじゃないですか?」


 聡は今の日浦の言葉に引っ掛かるものを覚えた。上部は。確かにプライベート的な付き合いがないならそう表現するしかないのだろう。


「そうですか。ありがとうございました」


 聡が頭を下げると日浦はもう戻っていいですか? と眉を下げて言った。



 本日出勤しているスタッフ全員の聴取は終わったが、これといったことは分からなかった。他の交友関係、という線も考えられるが志田の携帯電話にはここのスタッフの連絡先しか入っていなかったのだ。となると、志田に友人と呼べる存在はいないということになる。だが志田はウェズリーのスタッフともプライベートでの交流はない。

 彼は仕事意外は全く一人になりたいのだろうか。彼から残されたものからはそうとしか感じられなかった。



 目の前に座る女性は母性と優しさを滲み出させている。仕事にしか興味ありません、といった横顔の紗江子とどうにも比較してしまう。紘奈は養護施設の園長と紗江子の顔を交互に見た。


「行方不明……ですか」


 紗江子は独特の口調で園長に訊いた。


「ええ、礼太君のお母さん、急にいなくなってしまって。で、元々シングルマザーだったものですから、うちで保護したんですけどね」


 園長は皺の刻まれた頬に手を置きながら言った。その手は荒れていて、園長自らこどもたちの世話をしていることが窺える。


「で、それから半年程した頃ですね。礼太君のお母さんが死体で見付かったんですよ」


 紘奈は身体中の毛穴から一気に汗が吹き出るのを感じた。背中に何か気味の悪いものを貼り付けられたような感覚だ。力を入れて歯を食いしばっていないと顎が震える。

 同じだ。全く同じなのだ。


「志田さんのお母さんは、どんな状態だったんですか?」


 紗江子が妙にゆっくりとした口調で訊くと、園長は一瞬言葉を詰まらせた。


「……薬物中毒で、全裸で亡くなっていたそうです」


 園長の言葉が脳に到達するや否や、紘奈の意識は遠退いていった。

 こんな偶然、あるわけがない。



 笹木と美琴は顔を寄せ合うようにしてパソコン画面を覗き込んだ。直ぐ真横から香る甘い匂いに、つい捜査中だということを忘れそうになる。


「『ウェズリー』裏ホームページ?」


 美琴は志田のブックマークから見付けたうちの一つを読み上げた。


「ああ、こういうの、よくあるんですよ。一般企業とか学校とか。客だったり、身近な人間の悪口を書き込む場として使われてるみたいですよ」


 笹木は言いながらスクロールした。悪趣味なことこのうえないサイトだ。美琴も同じように思ったらしく、悪趣味ね、と呟いた。

 掲示板、と称されたところには幾つかのカテゴリーがあった。


クレーマーについて。

本日のアホな客について。

使えない店長について。

○○店の店員さん。


 読んだとしたらさぞかし気分が悪くなるだろう。


「あ、それ」


 美琴があるところを指差した。


『嫌いなスタッフはだぁれ?』


 笹木はその項目に目を見張った。

 こんな項目があったのでは、スタッフも軽い気持ちでこんなホームページには来れないだろう。いつ自分の名前が書かれるか、書かれたとしてそれを知ってしまうのは怖い。

 警視庁にはこんな裏サイトないよな、と思いながらもその項目をクリックした。そこには何々店の誰それがむかつく、など思い切り実名で書かれているものもあれば、伏せ字、イニシャルのものもある。それでも本人は自分だと気付くだろう。


「ねえ、この『れーた』って、志田のことかしら?」


 美琴は言いながら一つの書き込みを指差した。


15:れーた

そんな言い合い、やめましょうよ。

そんなことしたって意味ないんだし。

ま、無駄な労力を使うのはやめて下さいよ。


 少し独特な言い回しだ。他にこんな書き方をしている人間はいない。そして、嫌いな人間を書き込むことを止める人間も。志田はこういったことが嫌いだったのだろうか。


「他の書き込みも見てみましょう。同じような口調なら、志田のものかもしれません」


 笹木の言葉に美琴はそうね、と頷きパソコン画面を凝視した。



 最初に視界に入ったのはくすんだ色の天井だった。紘奈はゆっくり二度程瞬きをした。コンタクトが乾いているのか、瞼が張り付くような感覚がある。


「あ、目、覚めた?」


 続いて視界に入ってきたのは紗江子のあまり表情のない顔だ。それが美しさを際立たせているのだろうか。表情を大きく作らないから美しいのか。自分は表情を作り過ぎるからいけないのか。紘奈はぼんやりとした頭でそんなことを考えた。


「おーい、聞こえてる?」


 紗江子の少しだけハスキーな声が耳に届いた。


「はい」


 ゆっくりと身体を起こすと額から濡れたタオルが落ちた。拾わないとブラウスが濡れてしまう、と思いながらも怠い腕はなかなか動かない。そうこうしている間に紗江子が細い指でそれを拾い上げた。


「貧血起こしたみたい。倒れた拍子に腕、打ち付けてると思う」


 紗江子は紘奈の右腕を指差した。


「腕……」


「そう、腕」


 だからこんなにも怠いのか。しかしブラウスが捲られた腕には冷湿布が貼られている。

 どうやらここはまだ養護施設のようだ。意識をなくす前の記憶が徐々に蘇ってくる。志田の母親の話を聞いたからだ。だから意識がそこで途切れた。


「何? 寝不足?」


 紗江子は紘奈の顔を見ずに訊いてきた。


「まあ……そんなところです」


 話したくない。こんなに凛とした、こんなに強い人に自分の弱さが分かるわけがない。


「体調管理も刑事の仕事よ。犯人追い掛けてる最中に貧血になりました、じゃ話にならないわ」


 分かってる。そんなことは言われなくても分かっている。紘奈はざわつく胸を押さえた。


「まだ刑事になりたてだろうから……」


「分かってます」


 紘奈は思いの外大きな声が出たことに自分で驚いた。そう、分かっているのだ。過去にいつまでも捕らわれていても仕方のないこと。前に進まなきゃいけない。あんなことは全て忘れなくてはいけない。罪を犯した人はもうこの世にはいないのだから。


「あの、すみませ……」


「迎え、来たわよ」


 きつく言い過ぎたことを謝ろうとすると、その言葉を遮るように紗江子が口を開いた。あれはどう考えても目上の人に対しての言い方ではなかった。


「笹木さん……」


 紘奈は心配げな表情で寄ってきた人物の名を呼んだ。


「迎えに来てもらうなら、彼が一番いいかと思って。今日は捜査終わり。家でゆっくり休みなさい」


 紗江子はそれだけ言うと、高そうなバッグを肩に掛けた。背筋がぴんと伸びた立ち方。前だけを確りと見据える姿勢。こうありたいと憧れずにはいられない姿。


「……ありがとうございました」


 紘奈は小さな声で紗江子の後ろ姿に礼を告げた。


「あ、ねえ」


 紗江子は歩みを止め、くるりと振り返った。ストレートパーマをかけているのだろうか、異様に真っ直ぐな髪が動きに合わせて揺れる。


「事件解決したら、飲みに行こう。刑事について、確りと教えてあげるから。じゃ」


 紗江子はやはりあまり表情のない顔で言い、身体の向きを直した。紘奈はそれに、今度は心の中で礼を言った。全てを明かすことが出来ない相手にこんな言葉を掛けてくれるなんて。



 聡は桜木と共に美琴が持ち帰ったパソコンを眺めた。

 どうもこういったものには疎くて困ってしまう。それより何より、こんな掲示板を作る意図が理解出来なかった。確かに自分がアルバイトをしていた時もどうかと思うような客はいた。それでもそれをこんなふうにネットに晒そうと思わなかった。

 時代の差なのか。それでもやはり理解は出来ない。


「口調が似てるのは、これですかね?」


 桜木はとある書き込みを指差した。


『6:名無し

誰でもいいじゃん。

兎に角、『ウェズリー』スタッフ、日浦信二の悪口書き込んじゃって下さいよ。

何でもいいからさ。

よろしくー。』


 確かに、『れーた』の書き込みの口調と似ていると言われれば似ている。でも、内容はとても同一人物には思えない。『れーた』のほうでは、嫌いなスタッフを書き込むことを咎めているのに、こちらではわざわざ新しい掲示板を立ててまで個人を攻撃しようとしている。これは言葉の暴力だ。


「この手の書き込みって、えげつないんですよね」


 桜木の言葉に聡はそうなんですか、と声を出した。聡はこういったものを目にするのは今回が初めてなのだ。


「はい、そうですよ。本来はこういったところに個人情報を乗せちゃいけないんですけどね。

でも、匿名だからか、結構皆好き勝手書いてるんですよ」


「そうよね。酷い書き込みも結構あるし」


 桜木の言葉に美琴が同意する。どうやらこういったものを知らないのは自分だけのようだ。


「書き手がばれないと思ってるんでしょうね」


 桜木は言いながら掲示板を眺めている。こういった類いの書き込みは警察が調べれば直ぐに誰が書いたか分かる。でもそんなことは特別な事情がなければしないものだ。だから何とでも書けるのだろう。


「別に、これといった悪口は書かれてませんね」


 そこから窺えるのは日浦は特別嫌われるような存在ではなかったということか。聡は今日の昼間に会った青年の顔を思い出した。感情が読み取れない顔立ち。確かに彼は特別好かれずとも、反対に特別嫌われることもなさそうだ。


「でも、これが志田の書き込みだとすると、日浦と仲がいい振りをしながらも裏ではこんなことをする人間だったってことになりますよね?」


 桜木の言葉に聡は顎に指を添えながら頷いた。そして直ぐにあることを思い出して、メモを捲った。

 昼間に聞いた日浦の話がふいに頭に浮かんだのだ。上部だけは。確かにそう言っていた。メモにもやはり同じように書かれていたのだ。


「志田が上部だけの人間だとして、それを知っている者がいたら恨まれてても可笑しくはないですね」


 聡は桜木の言葉に確りと頷いた。まずはこの書き込みが志田のパソコンからものだと証明しなくては。


「科捜研、行ってきます」


 聡はパソコンを抱えて、会議室を出ていった。



「もう大丈夫?」


 笹木の問いに紘奈は小さな声ではい、と答えた。まだ少し頭は重いし、打ったらしい右腕は痛い。そして蘇りかけた過去の出来事は消えてはくれない。それでも笑顔を作った。


「すみませんでした。折角、美琴さんと組んでたのに」


 仄暗い部分を他人に見せたくはなかった。特に笹木には。


「もー、神沢さんまでからかわないで」


 笹木は紘奈の様子に気付かないのか、明るい調子で返してきた。


「だって、捜査とはいえ、二人きりになれるチャンスじゃないですか」


 自分も出来るだけ明るくしなくては。


「無理無理。あの人、捜査中はそのことしか頭にないから」


「あはは。確かにそういう感じかもです。でも、憧れます。浅川さんもだけど、そう、仕事に真っ直ぐな女性って」


 消そうとすればする程溢れてくる。消せない記憶は脳を蝕む。


「……無理して笑うと、引き返せなくなるよ」


 突然降りかかった笹木の低い声に驚いた。いつもの明るい調子の声とは全く違い、それはまるで別人のようだ。


「無理して笑うと、逆に消せなくなる」


 笹木の低い声は更に滑舌の悪さが目立つ。


「無理して……笑ってなんていません。送ってくれてありがとうございます。ここで、大丈夫です」


 紘奈はぺこりと頭を下げて、アパートまでの道を走った。

 何故、気付かれたのだろう。




「母親が失踪ののち、薬物中毒で死亡、ですか」


 紘奈が持ち帰った情報を聡は読み上げた。これは今回の事件とは関係のないものとして見ていいのか。聡は首を捻った。関係のないものとして扱ってしまった場合、本来関係あったなら、事件解決を遠ざけてしまうことになる。そしてその逆も然り、だ。

 この判断は重要なものになる。聡はうーん、と言いながら首を曲げた。視界を回しても答えは出るはずもない。一体どうしたものか。


「十年以上前の話です。今回それは捨てましょう」


 そう発言したのは笹木だった。確かに、そう見るのがいいのかもしれない。


「分かりました。では引き続き、志田さんの身辺を洗いましょう」


 友人らしい友人もおらず、身内もいない。そんな人間の周りにいるのはごく少数だ。例えば道で肩がぶつかった、とかで殺されたのでなければ犯人は確実にその中にいる。

 志田を歩道橋から突き落とした犯人が。

 聡は本日の行動を割り当てながら、紘奈の腕を見た。昨日の紗江子からの報告では相当強く打ち付けているだろうとのことだったが、紘奈は痛そうな素振りは見せていない。

 痛みを人に見せたくないのは美琴とよく似ている。聡はそう考えながら二人を交互に見た。美琴はこのところ何かを考えている節があるようだが、それを表に出しはしない。そして言ってこない以上、訊くわけにもいかない。

 ここは部下を信じるしかないのだ。



「あの書き込み、志田のパソコンからのものでした」


 桜木が会議室に入ってくるなり、聡に近寄った。やはり志田は上部だけの人間だったということか。


「日浦に、この書き込みについて何か知っているか訊いてきます。もし、知っていれば……」


 犯人は日浦である可能性が高まる。



「ええ、知ってましたよ」


 日浦がさらりとそう言った。あまりのあっさりさに聡と桜木は思わず顔を見合わせた。こんなことは日常茶飯事だとでもいうような表情。

 ネット社会に生きる若者達は皆こんなふうなのだろうか。匿名で何を言われても、面と向かって言われたわけではないのだからさして気にならない。そういったことなのだろうか。そうなると、日浦を犯人と結び付けることは途端に難しくなる。憎しみを抱かないなら、そこに殺す動機はない。


「知っているということは、貴方もこのサイトはよくご覧になってたんですか?」


 日浦は聡の言葉に首を横に振った。


「インターネットはよくするし、このサイトも知ってましたけど、わざわざ見ませんよ。自分がここであまり好かれてないと知っていて見る奴なんていないです」


 日浦の言葉に聡は違和感を覚えた。あの掲示板には日浦についての悪口は志田の書き込みしかなかったのだ。でも日浦は今、好かれてないと言ったのだ。


「では何故、知ったのですか?」


「他のスタッフに訊かれたんです。本当に嶋田さんと付き合ってるのかって」


 嶋田、とは掲示板に書き込まれていた『ユリカちゃん』だ。彼女は昨日はシフトに入っていなかったので、今日改めて話を訊くつもりでいた。


「付き合ってなんかないから、何でですか、ていったらその掲示板のことを教えられました」


 日浦は淡々と喋っていく。


「それを見て、どう思いました?」


 質問をしたのは桜木だ。


「別に、て。だから何なの、て感じでした。志田さんだってことには直ぐに気付きましたし」


 やはり何とも思わないのか。


「でも、あんなことを書いておいて、仲良くしてくるのにどはんどん腹が立ちました。嘘を書いて、悪口も書いて。あんたは何がしたいんだ、て思いました」


 そこに理由があるかどうかなんて誰にも分からない。もしかしたら、本人だって分からないのかもしれない。気が向いたから、何となく気に入らないから、何でもいいから。聡には想像も出来ない想いがあるのかもしれない。

 聡は指輪を指で叩きながら日浦の顔を見た。すると、日浦は微かに唇を震わせていた。


「だから……呼び出したんです。歩道橋に。話をするだけのつもりでした。嫌いなら関わらないでくれって」


 聡は小声で桜木を呼んだ。そして、この事務所に誰も近付けないように指示を出した。桜木はそれに頷き、事務所を静かに出ていった。


「そしたら、志田さん、あの書き込みは自分じゃないって。他の人が自分の振りをしてるって」


 こういったやり取りを最近の事件でよく聞く。誰しもが自分を偽っているのか。


「そんなわけないだろって。俺が嶋田さんを好きなのを知ってるのは志田さんだけでしたから」


 日浦は余程志田を信頼していたのだろう。


「それで……揉めて。殺すつもりは、多分、ありました。死ねばいいって、思いました。人の心を傷付けた人間なんて、死ねばいいって」


 日浦は語りながら涙を溢した。悔いているのか。


「続きは、署でお聴きしますね」


 聡が優しく言うと、日浦はこくんと無言で頷いた。そしてそのあと、口を開いた。


「俺……こんなことで人生終わっちゃうんですね」


 日浦の言葉に聡は目眩を覚えた。



「神沢」


 その呼び掛けに紘奈はゆっくりと振り返った。振り返る時はぱっと動いた方がいいのか。


「お待たせ」


 そこには笑顔の紗江子がいた。何だ、こんな顔も出来るんじゃないか。紘奈は更に美しく見える紗江子の笑顔を見てそう思った。


「あたし、友達が殺されたの」


 紗江子はかつ、とヒールを鳴らしながら言った。


「え……?」


「あたしのストーカーが、あたしと友達を間違えて殺したの。だから、犯罪なんて許せない」


 その言葉は紘奈の胸に重く響いた。


「……母親が、突然いなくなったのは、中学生の時でした。警察は家出だろうと取り合ってくれませんでした」


 紘奈は唇を震わせながら喋った。


「その半年後です。母親は、遺体で見付かりました。志田の母親と一緒で薬物中毒で、全裸で発見されたんです」


 見せられた母親の遺体は生きていた頃の面影など少しもない程に痩せこけていた。それは、よく見ないと自分の母親だと気付けない程の変貌だったのだ。その光景が頭から離れることはない。今もはっきりと思い出せる。


「よし、飲もう。奢るから」


 紗江子は紘奈の肩を軽く叩いた。

 このことを他人に話したのは初めてだった。身内が薬物中毒で死んでいるなど、言えることではない。それより何より、誰にも知られたくなかった。事件の真相を知っているのは自分だけでいい。それに、あれはもう解決しているのだ。いや、解決などしていないのかもしれない。


「はい」


 紘奈は無理に笑顔を作り、頷いた。

 ――――笹木さん、無理して笑顔を作っているのは貴方だと思う。

 紘奈は心の中で思いながら、前を歩く紗江子についていった。




「聡さん。これ、見て下さい」


 笹木が差し出すパソコンを聡は伊達眼鏡を外しながら覗き込んだ。


『同窓会、しませんか?』


 一文目にはそう書かれていた。

 

「志田のパソコンにブックマークされていた、もう一つのサイトです」


『暗殺者達の宴』


 サイトのトップにはそう書かれていた。


1:サーハン

同窓会、しませんか?


2:山口

あのメール、本当にユダ?


 聡は掲示板を眺めていったが、書き込みはその二件だけだった。


「……これ、何ですかね?」


 聡の言葉に笹木は首を横に振った。


「分かりません。ただ、気になったのでお見せしました」


 笹木はいつになく真剣な口調で言った。


「取り敢えず、今回の事件に関係はなかったみたいですし、保留にしましょう」


 聡は眼鏡をかけ直しながら明るく言った。早く今回の事件を消化しなくては次の事件が起きた時に集中出来なくなってしまう。


「よし、今日は女性陣がいませんが、男だけで飲みに行きましょう」


 美琴は用事があると言って先に帰り、紘奈は紗江子に誘われていると言い、帰っていった。


「いいですね」


 聡の提案に賛同したのは書類の提出から戻ってきた桜木だった。


「じゃ、いつもと違うところにしません? 美琴さんがいると、綺麗な店じゃないと駄目ですから」


 笹木の言葉に聡はいいですね、と頷いた。


「それなら自分、古いけどいい店知ってるんですよ」


 聡と桜木は先に歩いていく笹木のあとを歩きながら警視庁を後にした。

 この世はまだ、沢山の犯罪で溢れている。



――――――――――



3:ユダ

ユダ、てあのユダだよ。

同窓会、いい案だね。

でも、同窓会も何も、面識なんて元々ないよね。


それに、同窓会をして何を話すの?

懺悔?

それとも『暗殺者達の宴』の再宴?




――――――――――




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