偽る殺人犯
激しい息遣いが雨の中に響く。
肩を上下に動かし、その顎はがくがくと震えている。手に握られたナイフにはねっとりとした血がこびりついているが、激しい雨で徐々に洗い流されていく。
ぽた、ぽた、と雨と一緒に溶けたような真っ赤な血の滴がアスファルトに落ち水溜まりに色を添える。雨は激しさを増し、辺りの音を全て消していった。
聡は狭い室内に充満する煙草の臭いに鼻を摘まみたくなった。この臭いはどうも苦手で長時間嗅いでいると頭痛すらしてくる。深水はそれを理解していて、わざと勢いよく煙を吐き出した。
「いいよな、彼女。タイプなんだよな」
深水は煙を吐き出した唇の端をにやりと持ち上げた。整った顔立ちではないが醸し出す雰囲気が落ち着いた大人の男、という感じで女性からの支持は高い。少し長めの前髪の下にある瞳は温厚そうにも見えるし、冷たくも見える。本心が見破れないというところがまた、女心を擽るのだろうか。
聡は煙草を揉み消す深水の指に目を向けた。
左手の薬指に光る細いシルバーリング。その手に触れられたいと思う女性はこの警視庁内だけでも何人いることだろう。
「大スキャンダルになりますよ」
聡は溜め息を吐きながら忠告をした。
「あ? 冗談に決まってるだろ」
深水は次の煙草に火を点けながら返してくる。
「貴方が言うと冗談に聞こえませんよ」
深水和弥。警視庁に存在する、捜査本部の解散してしまった未解決事件を引き続き捜査する部署に籍を置く警部だ。捜査一課という肩書きではあるが殺人犯係などとは明らかに扱いは違う。
元々エリートの彼がそこにいる理由を聡は知らない。
「別に、情報流すくらいいいぞ。でも、これといった情報はないけどな」
深水は立ち上る紫煙を眺めながら言った。螺旋状に上っては分散していく煙。
「じゃあ、連絡先、教えても構いませんか?」
聡は携帯電話を深水に見せながら訊いた。
「俺と彼女がどうこうなってもいいならどうぞ」
煙草を灰皿に放り込みながら言う深水に聡は何も返さなかった。 元部下の女に手を出す程、女に困っている男ではない。深水なりのコミュニケーションなのだ。それでも、と思う気持ちも少しはあるが、ここは深水を信用する以外ないのだ。
「ま、ご自由にどうぞ」
深水はそれだけ言うと喫煙室から出ていった。珍しく着てきた白いシャツにはキャスターの臭いがこびりついている。
「うわ、聡さん、煙草臭っ」
隣に座るなり笹木が眉間に皺を寄せた。
「やっぱり臭います?」
聡の問いに、笹木はかなり、と頷きながら言った。聡は自身の袖を鼻につけ、くんくんと臭いを嗅いでみると今すぐ着替えたい衝動に駆られた。聴き込みの途中で着替えを買うべきか。聡はそんなことを考えながら捜査会議が始まるのを待った。
後ろには美琴と桜木、そして紘奈が姿勢を正して座っている。三者三様の顔付きで聡と同じように捜査会議が始まるのを今かと待っている。
「被害者は相川利和、三十歳。区役所勤め。死因は腹部と胸部を鋭利なもの――果物ナイフのようなもので刺されての失血性ショック死。凶器は見付かっていない。不審人物の目撃も特にない」
藤塚がホワイトボードに書き込まれたことを読み上げていく。
「この近辺で起きている連続通り魔の犯行としての見方が強い」
先月から立て続けに起きている通り魔事件。それの担当は強行犯係だ。その事件で今まで死亡者は出ていない。だが今回だけは殺人事件へと発展していた。
傷を付けるだけだった通り魔事件が殺傷事件へと変貌することは珍しくはない。今まで通り魔事件も腹部と胸部を刺される、というもので犯行手口も酷似している。凶器が果物ナイフというのも一緒だ。
「何か質問がある奴、いるか?」
藤塚が大声で叫ぶように言った。聡はそれにそろりと手を上げる。
「被害者は、胸の何処を刺されていたんですか?」
「心臓の真横だ。臓器には達していない。右側、だな」
藤塚の言葉を聡はそのままメモに取っていった。刺されたのは心臓の右側。隣では笹木が自分の胸を触りながら位置の確認をしているようだ。聡も同じように、自分の胸の右側を触ってみた。
美琴は辺りを見回した。昼間だというのに人通りは少ない。むしろないと言ってもいい。
相川利和が倒れていた場所は既に跡形なく片付けられている。
「これじゃ、目撃情報取れないはずですよね」
聡が首を捻りながら言うので、美琴もそれに頷いた。
犯人は人通りの少ないこの場所で人が通るのを待っていたのだろうか。誰でもいい、誰でもいいから刺したい、と。あの大降りの雨の中、身を潜め。美琴は軽い頭痛を感じ、こめかみを押さえた。
何故、何故人を殺すの?
そんなことをして一体何になるの?
人を殺したって、救われることなんて何もないのに。
泣きながら叫んだ言葉が脳裏に蘇る。蓋をしたはずだった。なのに、時折こうして記憶は顔を覗かせる。
蓋をした記憶があるから、同じように蓋をした記憶のある笹木を心配したりしてしまうのだ。それが彼に自分に興味を抱かせるだけだと分かっていても。
「大丈夫ですか?」
聡の心配そうな声に美琴は我に返った。今は捜査中だ。
「すみません……大丈夫です」
美琴は額に浮いた脂汗を拭いながら返した。捜査中に考え事をするなんて。捜査に集中しようとしたその時、聡の携帯電話が鳴り響いた。
聡はちょっとすみません、と言い、ジーンズのポケットから携帯電話を取り出した。未だにスマートフォンにしないのは扱いきれないからという理由らしい。
「はい。……ん? ああ、うん。連絡した?
……そう。役に立てたならよかったよ」
聡の敬語ではない口調を初めて耳にした。それは普段の敬語以上に柔らかい口調で相手が誰なのかつい気になってしまう。
「うん、そう、捜査中。……え? それは流石に無理だよ。分かるでしょ? ……うん、うん、じゃあね」
聡は電話を切ってから一息つき、すみませんでした、と美琴の方に顔を向けた。
今の、誰からですか?
そう訊けたらどんなにいいか。喉元まで出掛かった言葉を飲み込み、美琴はいいえ、と首を横に振った。
これが連続通り魔の仕業なら一日でも早く犯人を逮捕しなくては。でなければ次の犠牲者が出てしまう。
美琴は三秒間目を閉じてから、ゆっくりと目を開けた。見えない何かを探さなくては。
「相川さんか。んー、特にこれといった印象はないかな。うちに来たのもこの春からだしさ」
中年の男が首を捻った。笹木はこの間のことを思い出した。住民票の転出届を出す時にこの区役所を訪れたのだが、物凄く待たされたうえに、この男の対応が頗る悪かったのだ。文句の一つでも言ってやろうと思ったのだが約束の時間に間に合わないのでやめておいたのだ。
それに生来、文句を言うのは得意な方ではない。だが目の前の男は笹木のことなど覚えていない様子で話をする。
「そうですか」
笹木は微かに蘇る怒りを抑えながら返事をした。
桜木は他の職員に話を聞いてはいるが、どの会話も短く、これといった収穫はなさそうだ。
「ああ、でもそういえば」
禿げ頭の男はぽん、と手を叩きながら口を開いた。
「何です?」
笹木は身を乗り出すようにして男に訊いた。
「一ヶ月位前だったかな。相川さん、凄い剣幕で怒られてたんだよねぇ」
「怒られてた?」
「そう。戸籍謄本を取りに来た男に、態度が悪いだなんだのって、怒鳴られてたよ。嫌だよね、最近の若者はさぁ」
他人事のように言う男に笹木は更に怒りを覚えた。この男は自分の対応が悪いなどと露程も思っていないのだろう。
「その男の特徴、覚えていたら教えて下さい」
笹木はまた怒りを抑えながら訊いた。
「特徴? そんなことしなくても、名前覚えてるよ。印象に残ったからさ」
男は言いながら一枚の紙を笹木の前に出した。隣では桜木が珍しく表情を歪ませている。それもそのはず、令状も持ってきていない刑事にこんなに簡単に個人情報を開示していいはずがない。
態度が悪いだけでなく、常識もないのか。笹木はそう思いながらも、提示された名前と住所をメモに取った。
願ってもない展開ではあるが、如何なものなと思わずにもいられないのが本心だが、口ではありがとうございます、と笑みを浮かべて言った。男は警察の役に立ったのがそれほどまでに嬉しいのか顔をにやつかせていた。
不破壮司は眠そうな顔を覗かせた。目の下にはくっきりと濃い隈が出来ている。
「不破さん、ですね?」
聡が訊くと、不破ははい、と小さな声で答えた。
「ええと、幾つかお尋ねしたいことがあるんですが、宜しいですか?」
不破はまた小さくはい、と返事をした。
「四月十三日、四月二十日、五月四日、そして昨日。何処にいましたか?」
ストレート過ぎるかもしれないが、この日付の関連に気付く可能性は低いはずだ。聡はそう考えながら不破の充血した目を見た。
「バイト……してました。昨日以外は」
不破は何を確認するでもなく答える。
一ヶ月近くも前の出来事をそうも簡単に思い出せるものだろうか。これは記憶力の弱い聡だからこその意見ではなく、一般論としての話だ。
「それって全部、通り魔事件のあった日ですよね?」
不破は目を二度程瞬きしながら訊いてきた。左手はドアノブを握ったままで何時でもドアを閉められるという態勢だ。
「ええ。よくご存知ですね」
聡は古アパートの通路で笑みを浮かべる。
「……バイトがあった日で、警察ががやがやしてたから覚えてるんです。どの場所も近所ですし」
成る程。それなら覚えていても可笑しな話ではない。
「分かりました。お休み中、お邪魔してすみません」
聡が言うと、不破は何を返すでもなくばたんと扉を閉めた。
「利和君ね。大分変わっちゃったよねー」
三十歳にしては些か貫禄のある女が大きく手を振りながら言った。横では五歳くらいの男の子がうろちょろとしている。
結婚して子供を産むとおばさん化する。桜木は以前同級生の女が言っていた言葉を思い出した。
先程まで一緒にいた笹木は不破という男の話を聡の元に持っていき、そちらに合流している。今隣にいるのは紘奈だ。紘奈は所轄の人間と一緒に行動していたのだが、笹木と桜木が離れることで、桜木と行動を共にすることになったのだ。
「変わった、とは?」
桜木は眉を少しだけひそめて質問した。いい男を見る機会が余程ないのか、女は間近にある桜木の顔に頬を弛めっぱなしだ。
「ああ、利和君、中学高校の時は目立つ存在だったの。憧れの子も多かったんじゃないかな? 生徒会もやってたし、陸上部でもインターハイ行ったりして」
女はそこまで言ってから少し小声になり、でもと付け加えた。
「少し前の同窓会で会ったら全然変わっちゃってて。何て言うの? 陰気臭いっていうかさ。どんだけかっこよくなってるか楽しみにしてたのにね」
女は言い終わると盛大な溜め息を吐き、残念さを演出した。
通り魔の可能性が高いなら、被害者の身辺を洗うなど無意味だ。桜木は脂肪のたっぷりとついた女の顎を見ながらそう思い、腹の中で溜め息を吐いた。
「不破は通り魔ではないですね」
得られた情報を元に推論を立てる。
今日は居酒屋が空いていて、狙い通りの席を確保することが出来た。
「そうですね。アリバイの裏も取れましたし」
笹木の言葉に聡は漬け物を頬張りながら答えた。
そもそも、不破が通り魔だとしたら相川利和を殺すのは可笑しい。通り魔というのは無差別的なものだ。なので私怨の絡んだ相手を攻撃することはあまりないはずだ。いや、通り魔だからこそ、なのだろうか。元々通り魔として様々な人間を攻撃してしたからこそ、そこに私怨を交えたのか。
考えれば考える程分からなくなるのが犯罪者の心理というものだ。自分には人を平気で傷付けたり殺したりする人間の気持ちなど到底理解出来ない。それは傲りなのだろうか。自分は真っ当だと勝手に思っているだけなのだろうか。もしかしたら、些細なきっかけでそちら側に足を踏み入れることもあるのだろうか。
自分も、彼らも。
聡は自らの周りに座り酒を飲む班員に目を向けた。
「どうかしました?」
美琴の声に聡は我に返った。
「ああ、いえ」
聡は首を横に振りながら答えた。目の前では笹木と紘奈が話をしている。その紘奈の顔があまりに嬉しそうなのでつい微笑みたくなる。
その瞬間、ジーンズのポケットで携帯電話が震えた。取り出して表示に目を落とすと、『深水警部』と出ている。聡は美琴に断ってから席を立ち、通話ボタンを押した。
「はい」
『会ってきたぞ』
深水は前置きもなく突然言ったが、それが誰とかは聡には直ぐに分かった。
「そうですか」
聡は出来るだけ静かな場所にと思い、厨房の近くに移動した。
『余計な詮索かもしれないけど、彼女、何であの事件を今更調べてるんだ?』
耳に深水が煙を吐き出す音が届くが電話越しなので煙草臭さは当然感じない。
「……さあ、何でですかね」
聡は少しだけ間を開けてそう返した。
『ま、言いたくないならいい。それにしても、いい女だな』
深水はそれだけ言うと電話を切った。
「誰と電話してたんですか?」
居酒屋の個室に戻ると、いきなり笹木に訊かれた。
「深水警部です」
聡が答えると全員がえ、というような表情を作った。未解決事件の人間と何の繋がりがあるのかという顔だ。それもそうだろう。殺人犯係と未解決事件とはいっさい関わりはないのだ。
「ああ、昔の上司なんですよ」
聡の言葉に全員納得したような表情に変わった。それは本当のことだ。
聡は桜木が今日はいつも以上に無口なことに気付いた。
「疲れましたか?」
聡が声を掛けると桜木は静かに顔を上げた。
「ああ、いえ……。本当に通り魔の仕業なのかな、と思って」
桜木の言葉に聡は首を捻った。捜査本部では勿論連続通り魔事件として扱っているし、マスコミなどもそう発表している。
使用されたナイフの特定も終わり、それは他の通り魔事件のものと一致するということだった。
「どういうことですか?」
聡は首を傾げながら桜木の横に腰を下ろした。よくよく見ると、桜木の横顔は丸みを帯びていて年齢のわりには可愛らしい。桜木はそんな横顔を少しだけ歪めた。
「辻木さんは、不破についてどう思います?」
聡は桜木の言葉に少しだけ考えた。不破の様子は確かに少し可笑しかった。一睡もしていないような充血した目に、くっきりと刻まれた隈。そして、昨日の事件も通り魔の仕業と決め付けた発言。
今朝の段階ではまだ、前回までの通り魔と同一犯の可能性も視野に入れての捜査、と発表されていた。なのに彼は他の事件の日付と昨日を一緒のように扱った。
怪しくないとは言えない。でも、アリバイがあるので彼は連続通り魔事件の犯人にはなり得ないのだ。
聡は思ったままを口にした。すると桜木はそうですよね、とそれに同意した。誰から見ても不破はそれほどまでに怪しさを漂わせていたのだ。
「強行犯係から、通り魔事件の資料、お借りしていいですかね?」
桜木の言葉に聡は勿論、と頷いた。
桜木や笹木が送ってくれるというのを断り、美琴は一人でマンションまでの道を歩いた。
深夜に近い住宅街は人通りが殆どといっていい程にない。美琴はゆっくりと歩きながら紘奈を送っていく笹木の後ろ姿を思い出した。
自分から断っておいて、ちょっと面白くないと思うなんて、なんて自分は我が儘なのだろう。
幼い頃からずっと周りにちやほやされて育ってきたからだろうか。近所の人も親戚も、同級生も皆、美琴を可愛いと言った。年齢が上がるにつれ、今度は美人だと言われるようになった。
いつしかそれは当たり前になっていった。
だから、彼にこんな美人初めて見た、と言われた時も何とも思わなかった。心が動くこともなかった。 それでも好きになった。
真っ直ぐな笑顔に、誠実そうな物腰。全てに惹かれていくのが自分でも分かった。
好きだと言われた時は、本当に嬉しくて、他の誰に言われるより彼に綺麗だと言われることが嬉しかった。
同期の刑事だった彼が恋人に変わるまで時間は掛からなかった。
だからこそ、衝撃だった。
とある殺人事件。
殺されたのは幼い女の子だった。首を絞められ息絶えていた姿は今も瞼に焼き付いて離れない。
真っ青な、生気など微塵も感じられない人形のような顔に、硬直してしまい腕を曲げることすら出来ない身体。
それを見たのは入庁して間もなくの頃だった。その頃聡はまだ新米の主任で、主任と呼ばれてはおろおろしていた。そして聡の班がその事件に駆り出された。
今と同じ面子は自分だけだ。
捜査は難航するかと思いきや、呆気なく犯人に辿り着いた。被害者の女の子のポシェットに残されていた指紋が警視庁のデータベースに記録されているものと一致したのだ。美琴はその名前を耳にした時、後 頭部を鈍器のようなもので思い切り殴られたような衝撃を受けた。信じられなかった、いや、信じたくなどなかったのだ。
――――三谷祐市巡査。
それが自分の恋人の名だとは信じたくなかった。
美琴はその場で倒れこみそうになるのをどうにか堪えて、聴取は自分にさせて欲しいと懇願した。周りは皆、当然反対したが、聡だけは静かに頷いてくれたのだ。
三谷には被害者と同じ年の頃に亡くなった妹がいたのは知っている。何者かに殺されて亡くなったのだ。そしてその事件は未解決のまま捜査本部は解散している。
彼が独自でそれを調べていたことも知っていた。美琴の推論では、三谷は妹を殺した犯人に復讐をしたのだと考え、まずそれを尋ねた。だが、三谷は何も言わずに黙ったままいたのだ。
妹が殺された事件は同時あった時効を迎えたばかりで、犯人が法的に裁かれることは既に不可能だった。だから何を言っても無意味だと思ったのだろう。
三谷が殺した幼女の父親こそ、三谷の妹を殺した人間なのだと、美琴は今でもそう思っている。だがしかし、三谷の口から何かが語られることは何もなかった。
――――だから、泣き叫んだのだ。
蘇る過去の記憶に美琴は頭を振った。
三谷は今、服役中だ。二度と会うこともないし、会うつもりもない。好きだという感情すらない。ただ後悔は残る。
あの時、彼の一番近くにいたのは自分のはずだ。なのに彼を止めることが出来なかった。元より、彼がそんなことを考えているなどとも知らなかった。
自分が気付けていたら、あの子は死ぬことはなかったのに。恋人が殺人を犯したことよりも、幼い命を犠牲にしたことのほうが悔やまれる。
彼はそんな自分を分かっていたからこそ、本心を見せなかったのかもしれない。だからこそ、自分に辛さや苦しさを打ち明けてくれることはなかったのだろう。
美琴はぐんぐんと引き戻される感情に吐き気を覚えた。
刑事を辞めなかったのはあの時支えてくれた聡への恩返しのつもりだ。聡が殺人犯を導く道を少しでも歩きやすく、殺人犯を少しでも早く見付け出せるように。次の犠牲者が出る前に一刻でも早く犯人を見つけ出さなきゃ。
美琴は胸に誓いながらマンションまでの道程を歩いた。
「資料、預かってきたんですが、これ、見て下さい」
桜木はそう言って、聡の前に紙を置いた。
「これ、ですか?」
「はい。これらは全て、通り魔にあった方の傷の写真です」
生々しい写真は運ばれた先の病院が撮影したものだろう。左腹部と、左胸部にそれぞれ一ヶ所ずつ傷が出来ている。聡はそれらを凝視してから自分のメモを捲った。
何かが引っ掛かるが思い出せない。
聡はぱらぱらと今回の事件について記入した頁を探した。開いた頁に書き込む、という癖がある為なかなか見付からない。
聡はようやく目当ての頁に辿り着くことが出来た。そこには相川利和のことが書かれている。
刺されたのは腹部と胸部の右側。
聡はその事柄を目にしながら、指輪をとん、とんと叩いた。
右側と、左側。左右の違い。
聡はもう一度指輪を、今度は少し強めに叩いた。そこで自分の手をふと見た。
「……桜木君、ちょっといいですか?」
「はい?」
桜木は聡に手招きで呼ばれ、聡の真ん前に立った。聡はそれに合わせて立ち上がり、利き手である右手でペンを持ち、それを桜木の胸の辺りに押し当てた。
桜木は直ぐに聡の行動の意味を読み取ったらしく、自分の胸元に視線を向けている。
「左……ですね」
聡が握ったペンは桜木の胸部、左側に位置していた。
「相川君、十年前に身内だか何だかが亡くなったとかで、暫く大学休んでたんだよね」
笹木と丁度同じ年の頃の男は眉を下げながら言った。十年も前の知り合いが殺されたことなんてどうでもいい、といった感じの表情だ。自分も確かにこんなことを聞いて回ることに意味があるようには思えない。でも、少しでも情報を得られるかもしれないから聞いているのだ。
「復学した時から、何か急に地味な奴になっちゃったんだよな」
これは桜木が持ってきた話と一致している。相川利和は身内が亡くなったことにより鬱ぎ込んでしまったのだろうか。
「ありがとうございました」
笹木が丁寧に言うと、男はどういたしまして、と言って仕事へと戻っていった。
桜木は何故急に相川殺しは通り魔の仕業ではないなどと言い出したのだろう。手口も酷似しているし、凶器も一致している。それなら疑う必要などないはずだ。
笹木は暑さに溜め息を漏らしながら次に行くべき場所を確認した。
聡が二度程扉を叩くと、不破はのそりと顔を覗かせた。目の縁の隈は更に酷くなっている。
「ちょっと、いいですかね?」
聡が言うと、不破は瞬きをしながら何ですか、と掠れた声で返してきた。一睡もしていないのだろうか。
「不破さんの、バイト先までの地図、書いてもらいたいんですよね」
聡はわざとらしく眉を下げて、ボールペンと紙を不破に差し出した。
不破は聡の意図が分からぬまま、不安そうな表情でいいですけど、と言い、紙とボールペンを受け取った。そして、左手でしっかりとボールペンを持ち、壁に紙を押し付けながら地図を書いていった。
「左利き、なんですね?」
「ええ……はい」
不破は書き終えた紙を聡に返しながら答える。
これで、決まりだ。
聡はにっこりと笑顔を作り、一緒に来てもらえますか? と語りかけた。
不破は目をきょろきょろと泳がせながら大人しく座っている。聡はそんな彼の手元に目を落とす。
「ナイフ、出ました」
紘奈が取調室に駆け込んできて、ビニール袋に入った果物ナイフを聡の目の前に置いた。
「これは、どうしたんですか?」
不破は聡の言葉に少しだけ口を開き、本当に小さな声で答えた。
「拾い……ました」
「何処で?」
不破は今にも泣き出しそうな程に顔を歪めている。
「前の通り魔があった時です。犯人は後ろ姿しか見ていないですけど、ナイフだけ拾いました」
通報しなかったのは犯人の逆恨みを恐れてか。
「それで……俺、思い付いたんです。通り魔の振りして、あいつを殺せばいいって。雨の日なら、血がいっぱい出て死ぬかなって」
不破は喋っている間一度も聡と目を合わせることしなかった。何処を見ているのか分からない。
「何故、殺そうと?」
聡はそれでも不破と目を合わせようと試みたが無理だった。
「あいつの、区役所での馬鹿にしたような態度が腹が立ったんです。俺の戸籍、何度も養子に入ってて、本当に汚れてて……。それを見たあいつ、鼻で笑ったように見えたんです。自分は大学出てて、区役所に勤めてるからって、こんな俺を……」
それだけの理由、と簡単に思うことは出来なかった。だがそれでも人を殺していいという理由にはならない。ましてや、自分の罪を誰かに擦り付けるなどあっていいことではない。
「あいつがあの道を通るのは知ってました。だから、待ち伏せしてたんです」
全ての話を聞き終え、聡は小さく息を吐いた。
不破は取調室を出ていく時、これでやっと眠れます、と聡に頭を下げた。人を殺めた恐怖で眠れなかったわけではない。いつ警察に捕まるかと怯えていた為に眠れなかった。
やはり聡には人殺しの心理など到底理解することは出来なかった。誰にも分かってもらえないからこそ、殺すのか――……。
「今回は桜木君のお陰で、無事犯人を逮捕することが出来ました。ありがとうございます」
聡が頭を下げると、桜木はやめて下さい、と慌てて聡の身体を起こした。
こうして仲間の協力があるから、犯人に辿り着くことが出来る。一人では絶対に不可能だ。
「通り魔の方は引き続き、強行犯係が捜査をするそうです」
そうなのだ。本当の通り魔はまだ捕まっていない。平気で犯罪を犯すものがまだこの世には沢山いるのかもしれない。
警察はそれを未然に防ぐことが出来ない。
結局自分は無能だということに聡は心の中で溜め息を吐いた。
あの事件だって、自分は何も出来なかった。犯人を逮捕することも、内部の状況を明かすことも出来なかった。
それが悔しくて、離れたとも言えるかもしれない。
聡は事件解決に嬉しそうな面々を見ながら鬱々とした気持ちを振り払った。
今は出来ることをすればいい。自分に出来ることをほんの少しでも、この仲間たちと。
――――――――――
HN:ユダ
気付いてますか?
あなた方の仲間が減っていることに。
秘密を共有した。
これが如何に恐ろしく、不安定なものか分かっていますか?
あの時の決断、今更後悔しても遅いんですよ。
――――――――――